ブレッド・オブ・ライフ  06


6/30

そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
 Ⅱ列王6:17

 預言者エリシャの物語は続きます。1~7節では、自分たちの家を建てるために木材を切りにヨルダン川のほとりに行った預言者仲間の話(そこにエリシャもいました)。そのうちの一人が、借り物の斧の頭を川の中に落としてしまうという大ピンチに陥ります。助けを求める彼にエリシャは叱ることもせず、落ちた場所を確かめ、そこに一本の木の枝を投げ、斧の頭を浮かばせ拾い上げさせました。奇蹟です。
 8節以降は、明日の聖書日課まで続く一連の物語。北イスラエルと戦おうと、アラム軍は陣を敷く計画を立てるのですが、それらがことごとく見破られてしまいます。なぜかというと、エリシャがそれを知り、イスラエルの王に伝えたからです。このことを家来から知らされたアラムの王は、エリシャを捕まえようと、馬と戦車と大軍をエリシャのいるドタンに送りました。5章には、アラム軍の長ナアマンがエリシャによってツァラアト(重い皮膚病)を癒されたことが記されています。アラムの王もこのことを聞いてエリシャに感謝したことでしょう。しかし「それとこれとは別のこと」。エリシャのいるドタンの町は包囲されました。エリシャの召使いの若者のひとりが、朝起きて外を見ると、なんと馬と戦車と軍隊が町を囲っていました。彼は言います。
「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」(15)
エリシャは答えました。
「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(16)
これに続くのが冒頭の聖句。エリシャは、若者が見えていなかったものを見ていました。
 この後、エリシャは主に祈ります。
「どうか、この民を打って目をくらませてください。」(18)
アラム軍の兵士たちはみな目をくらまされました。エリシャは兵士たちをその状態のまま、北イスラエル王(当時はヨラム)のいるサマリアまで連れて行きます。そしてサマリアで祈りました。
「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」(20)
主が、アラムの兵士たちの目を開かれると、なんと彼らはイスラエル軍に包囲されていました。イスラエルの王はエリシャに尋ねます。
「私が殺しましょうか。私が殺しましょうか。わが父よ。」(21)
しかしエリシャはそれを許さず、かえって彼らを盛大にもてなして、主君のもとに帰らせました。あのエリヤの時代にアハブ王が聖絶しなかったのとは正反対のようです(Ⅰ列王20章)。しかしこれが、このときの主のみこころでした。その結果は?
「それ以来、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」(23)
この気持ち、わかりますか?絶体絶命、完全に皆殺し!それが全員、命が助かるどころか、大盤振る舞いのおおごちそう!で、無事に帰還。そこでやり返しますか?「そんなこと、ようせんわ」。アラムは「二度とイスラエルの地に侵入しなかった」のです。
 揺れ動く人の心。預言者仲間の一人、アラム王、召使いの若者、アラム軍の兵士たち。みな状況に振り回されて右往左往します。しかしエリシャはその中で動じない。いや、心配はあったことでしょう。しかし預言者は、いつでも主にストレートに祈り、みことばをいただくのです。落ち着いて主のわざに励むのです。ここにも聖霊に満たされ、いつもみことばに帰っていく主イエスの姿を見ることができます。エリシャも、イエスさまも、私たち信仰者の生きたモデルなのです。

おはようございます。
 今日は映画のご紹介。「赦しの力」。アメリカ映画です。キリスト教のメッセージを「さりげなく」ではなく「ストレートに」伝える作品。夫と妻、父と子、祖母と孫などなど、いろいろな関係において「赦し」がどのような力を発揮するのか、具体的に知ることができます。シネ・リーブル梅田にて(大阪駅徒歩10分。「空中庭園」のそば)。
https://eiga.com/movie-area/91730/27/270102/(もしかして、上映はあと数日かも)

純人 シャローム

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2020年6月28日(日) 主日礼拝
マルコ1:9~11 「あなたはわたしの愛する子」

イエスが受けたバプテスマ~何のため?~

「イエス・キリストの福音のはじめ」(1)、それはバプテスマのヨハネであった。ヨハネは「主の道を用意」する者としてイエスよりも先に活動した(2~8)。前回学んだ。「あなたに会えてよかった」。そしていよいよイエスが登場する。マルコの福音書でイエスが一番初めにされたことは何か?バプテスマである。バプテスマを授けたのではない。バプテスマを受けたのである。ヨハネからバプテスマを受けられた。ヨハネのバプテスマとは何か?それは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」(4)。イエスは悔い改めなければならない罪人だったのか?そうではない。この方は「神の子、イエス・キリスト」(1)。罪人であるはずがない。ならば、なぜイエスはバプテスマを受けられたのか?しかもその伝道活動の初めに。人になるためである。
イエスはその時点で30歳の人間であった(ルカ3:23)。人として30年生きてきた。神の子はすでに人となっていた。しかし、ここでイエスは別の意味で「人になった」のである。バプテスマとは「私は神の前に罪ある者です」と表明すること。イエスがバプテスマを受けるとは、イエスが「私は神の前に罪ある者です」と表明すること。罪は犯していないのだけれど、罪人として数えられるようになったということ。イエス・キリストの十字架は「身代わりの死」と言われる(Ⅰペテロ3:18)。罪を犯した人が死んでも神の前では身代わりにならない。また、人間でなければ人間の身代わりにならない。罪人の身代わりに死ぬということは、人となられた神でしか果たせないことであった。イエスの受けたバプテスマとは、十字架というゴールに向かって前進する旅の始まり、スタートだったのである。

イエスが受けた聖霊~何のため?~

イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたとき、水の中から上がると、天が裂けて、御霊すなわち聖霊が鳩のようにイエスに降った。イエスはそれを見た。と、ここでも疑問が起こる。イエスは聖霊を受ける必要があったのか?神の子が、神であるお方が、聖霊を受けなければならないのか?パウロは御霊(聖霊)に敵対するのは肉である、と言った(ローマ8章)。ここでいう肉とは、人間の生まれながらの性質。神を信じないで自己中心に生きる性質。イエスが聖霊を受けたのは、肉の支配から御霊の支配に生きるため、変えられるためであったのか?そうではない。何度も言うがイエスは罪を犯したことがなかった。肉
の支配の中にいたのではない。では、なぜ聖霊を受けられたのか?これもまた「人となるため」であった。イエスは聖霊を受け、聖霊に導かれる人のモデルになるために、まず初めにご自身が聖霊を受けられた。福音書の中では「イエスさまは神さまだから…」という理屈は通用しない。神の子が人となって、人間としてサタンの誘惑を受ける。「イエスさまは神さまだから、そんな誘惑、何でもない」のではないのだ。イエスは人として誘惑を受ける。そして聖霊を受けた者として、聖霊に導かれて誘惑に打ち勝つ。聖霊を受けたイエスの歩み、姿は、神に悔い改め、バプテスマを受け、同じく聖霊を受けた人間のモデルなのである。ここから始まるイエスの物語、出来事、イエスのことばや振る舞いの一つ一つを見て「私には関係ない。イエスさまは神さまだから」と言ってはいけない。あなたのうちにもイエスに降られた聖霊が住んでおられる。パウロは言った。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)。ここで言われている「生きる」「死ぬ」とは、霊的な生と死。神の前で生きているか死んでいるか、ということ。このみことばを理解したいならば、福音書に示されている誘惑に打ち勝つイエスの姿を見ることをお勧めする。そしてそのイエスの勝利とは私たちと何の関係もない勝利ではなく、まさに私たちが勝ち取るべき勝利なのである。

あなたはわたしの愛する子~このみことばで生きる~

バプテスマを受け、聖霊を受けたイエスに、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(11)。その声の主は?父なる神である。父が御子に向かって語られたのである。父・子・聖霊。三位一体の神。その三つのご人格のうちにある交わりは、この世界が始まる前からあったもの。父が御子に言われる。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。これは前から御子が知っていたこと。天地が創造される前から御子は御父の愛する子であり、御父は御子を喜んでおられた。しかしここで、この場面でこのことばが語られたことに注目してほしい。すなわち御子はこのとき、バプテスマを受
け、自分が罪人として数えられるという御父のみこころ、願いを知り、聖霊に導かれて生きるというみこころを知り、そのみこころに従った。でも、「だから、あなたはわたしの愛する子」なのではない。「やっぱり、あなたは私の愛する子」なのである。「だから、今日から私はあなたを喜ぶ」のではなく、「そんなあなたをわたしは喜ぶ」なのである。
ところで、父がイエスに語られたこのことば「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。これを、今日、私たちは神さまが私に語られていることばとして受け止めたい。
そんなおこがましい、と思われるだろう。これは神さまがイエスさまに語られたことば。私には関係ない。と思われるだろう。たしかにここで言われている「あなた」とは、御子イエスのこと。私ではない。しかしここで、イエスが罪人、人となるためにバプテスマを受けられ、聖霊に導かれる人となるために御霊を受けられたのであれば、そしてそのように神のみこころに従ったイエスにこのことばが語られたのならば、今、神の前に罪人であることを認め、神に立ち返るという神のみこころに従った、神を信じた私にもまた神は、こう言われるのである。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。
「わたしはあなたを喜ぶ」。これは本当にすばらしいことば。喜び。これは人が生きていく中でなくてはならないもの。喜びを求めて私たちは生きている。しかし、ここで言われているのは、あなたが、私が「喜んでいるかどうか」、ということではない。神があなたを喜んでおられる、ということ。愛された人は愛する者になる。自分が喜ばれていると知るから私たちは喜ぶのである。罪人であって、とても喜ばれるような者ではない私だけれど、私のためにバプテスマを受けてくださり、私のために十字架で死なれ、よみがえられた主イエスを信じるとき、このことばを真正面から受け止めることができるのだ。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。神さまが私のことを喜んでおられる。私は喜ばれている。
このことば。天から語られたこの短いことば。バプテスマを受け、聖霊を受け、これから行われる伝道を前にして、最初に語られたことば。イエスにとって、このことばはいのちであった。イエスはいつでもこのことばに帰って行った。始まりのことばであるこのみことばに。そして、私たちにとっても、このことばは初めであり、帰るべきところ、いのちである。イエスが聞いたみことば。私たちもこのみことばで生きるのである。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」

純人 シャローム

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6/27
女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。」
 Ⅱ列王4:9

 預言者エリヤの後継者エリシャ。エリヤについてのくだりも少なくなかったですが、エリシャの記事はそれ以上です(ざっと見渡してください。2章から始まって3章、4章、5章…まだまだ続く)。エリシャの記事は、彼と出会った人々の信仰や変化が随所に表わされています。旧約版イエスの物語とでも言いたくなります。
 今日の聖書日課4章には、二人の女性とエリシャの出会いが描かれています。一人はエリシャの預言者仲間の妻。つい最近、彼女は夫に先立たれました。夫の死後、債権者がやって来て負債を返すことができないとわかると、二人の息子を奴隷として連れて行こうとしました。彼女はこの状況を必死にエリシャに訴えました(1)。彼女はエリシャに言います。
「あなたのしもべ(私の夫)は主を恐れていました。」(1)
預言者であった夫もそうでしたが、妻である彼女自身もまた主を恐れ、主に頼る信仰者でした。エリシャの言う通り、彼女は息子を使って空の器を近所の皆からかき集め、たった一つ油が入っていた自分の壺からそれらの器に油を入れました。入れ続けました。奇蹟です。油はなくなりません。どんどんたまる器。入れる器がなくなったとき、油も止まりました。
「彼女が神の人(エリシャ)に知らせに行くと、彼は言った。『行ってその油を売り、あなたの負債を支払いなさい。その残りで、あなたの子どもたちは暮らしていけます。』」(7)
 もう一人は裕福な女性。エリシャがふだん通りかかるシュネムの町に住んでいました。
あるとき彼女はエリシャを食事に引き止めました。
「それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。」(8)。
これに続くのが冒頭の聖句。彼女には夫がいました。彼女はエリシャのことを「神の聖なる方」と呼び、続けて夫に言いました。
「ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」(10)
素晴らしい提案!与えられている財を主のために、その働き人のために惜しみなく献げる。エリシャはこの夫婦の厚意を受け、存分に預言者としての働きを続けました。
 二人の女性。置かれている境遇は違いますが、主を信じ、主に叫び、主に献げ、主のみわざにあずかる(シュネムの女の話はまだまだ続きます)。イエスの物語においても、マルタとマリア、マグダラのマリアなど女の弟子たちが登場し、イエスと出会い、変えられていきました。日本の教会は、圧倒的に女の弟子が多いですね。これは素晴らしいこと。
私たちの教会においても姉妹方おひとりおひとりの信仰と祈りに主が答えてくださり、さらに神の栄光を拝することができますように。

純人 シャローム

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6/26
 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」
 Ⅱ列王3:14

 エリヤの後継者として立ったエリシャ。その時代の北イスラエル王はアハブの子ヨラムでした(1)。ヨラムは父アハブの死後、イスラエルに背いたモアブと戦おうとしました。
しかし単独ではなく、南ユダ、そしてエドムに呼びかけ、三つの国でモアブとの戦いに臨みました。しかし戦略がうまくいきません。兵士と連れ来た動物のための水が底をつきました。ヨラムは、まるで子どものようにこう言います。
「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」(10)。
これを聞いたヨシャファテは、以前、アハブにも尋ねたように、こう言います。
「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか?」(11)
前回呼び出されたのは預言者ミカヤでしたが(Ⅰ列王22:8)、今回はエリシャでした。エリシャは、けんもほろろにヨラムに対してこう言いました。
「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか?あなたの父(アハブ)の預言者たちや、母(イゼベル)の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」(13)
これを聞いたヨラムは、またまた駄々っ子のように言います。
「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」(13)
これに対してエリシャが語ったのが冒頭の聖句。エリシャはヨラムを見捨てませんでした。この後、エリシャは三人の王に、主がモアブを彼らの手に渡すというみことばを語り(18)、そのとおり、この連合軍はモアブに勝利しました。
 エリシャがヨラムを見捨てなかった理由は何か?それはヨシャファテの存在でした。ヨラムは、かつての父アハブや母イゼベルほどの悪は行わず、バアルの石の柱を取り除きました(2)。が、依然として「ヤロブアムの罪」(3)、すなわち金の子牛礼拝はやめませんでした。一方、南ユダ王ヨシャファテは、「その父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行った。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。」(Ⅰ列王22:43)
弱さがありましたが、「主の目にかなう」王でした。エリシャは、このヨシャファテのゆえに、主が彼がヨラムを助けると言ったのです。そして、そのとおり、ヨシャファテのおかげでヨラムは助けられたので。
 私たちはこのように祈ります。
「イエス・キリストの御名によって」
これは、イエス・キリストのおかげで、という意味。そうです。私たちのために死んでよみがえってくださったお方のおかげで、私たちは神に近づき、その恵みをいただくことができるのです。イエス・キリストの御名抜きでは、私たちもまたヨラムのように、神に干され、見捨てられるべき存在なのです。単なる定型句ではない、これ抜きでは祈りにならない、そんな思いを込め、心を込めて今日も祈りましょう。
 イエス・キリストの御名で アーメン
シャローム 純人

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6/25
彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。
 Ⅱ列王2:14

 第二列王記2章は、預言者エリヤが主によって天に挙げられ、後継者エリシャが立っていく。その様子が描かれています。長いですが通して読んでください。
 冒頭の聖句は、エリヤが竜巻に乗って天に上って行った(11)直後のこと。エリシャはエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、ヨルダン川の岸辺に立ちました(13)。
つい先ほど天に上る前にエリヤ自身がしたアクション。エリヤが外套でヨルダン川の水を打つと、水は分かれ、エリヤとエリシャは乾いた土の上を渡りました(8)。
今度はエリシャが同じことをしたのです。
「エリヤの神、主はどこにおられるのですか?」
エリシャはこれまでエリヤについてきました。別れ際にエリシャがエリヤに求めたことは、「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」(9)
エリヤの賜物の二倍分。それぐらいなければ、エリヤのような働きはできないと考えたのでしょう。そして、ここでも彼は、「エリヤの神」と呼びかけるのです。
しかし、大切なことはエリシャ自身が主に向かって、「どこにおられるのですか?」と尋ねること。そして、エリシャ自身が主からその答えをいただくこと。冒頭の聖句をよく見てください。エリシャは主に呼びかけ、その後、もう一度水を打ったと考えられます。そのとき水は分かれました。
もう「エリヤの神」ではありません。あの外套に何か力があったのではない。エリヤの神は私の神。私の声を聞き、私に答えてくださる神。「二倍の分」も必要ありません。
ここに預言者エリシャの新たな歩みがスタートしたのです。
 「○○の神」。エリシャにとってそれはエリヤの神でした。あなたにとっては誰でしょうか?信仰に導かれる際に、また信仰を持ってからも神さまがあなたに与えてくださった信仰の先輩がいます。その人を通して神さまを見、教えられてきた。しかし、「○○の神」と呼びつつも、あなたが尋ね、あなたが祈り、あなた自身がその御声を聞く。そういう時を神さまは用意しておられます。
「エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。」
原文では、
「彼が水を打つと、水が両側に分かれ、エリシャはそこを渡った。」
エリシャはそこを渡った。エリシャが渡りました。エリシャの新たな歩みのスタートです。
あなたも渡るのです。

純人 シャローム

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6/24
 こんばんは。
 今日の午前中の祈祷会で話し合われたことをもとに、考えたことをお分かちします。今日もぜひ、本文を読んで学んでください。

 Ⅱ列王1:1~18
①5節:なぜ、アハズヤ王の使者たちは、命令通りにバアル・ゼブブに伺いを立てず、王のもとに戻ったのでしょうか?
②15節:はっきり語り続けるエリヤでしたが、彼の中にも恐れがあったことを思い巡らしましょう。
③16節:「主はこう言われる。『あなたが使者をエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」アハズヤ王はエリヤが語った主のことばのとおりに死にました(17)。
しかし、このことばは、最後まで主のアハズヤに対する悔い改めへ呼びかけであったことに注意してください。

純人 シャローム

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6/23
さて、ヨハネが言った。「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
 ルカ9:49

 今日の聖書日課には、四つの場面が出てきます。
①悪霊を追い出せなかった弟子たち(37~43)
 イエスは一人の人の息子から悪霊を追い出されました。実は父親は、イエスが来る前に弟子たちに悪霊追い出しをお願いしましたが、弟子たちにはできませんでした。イエスは彼らのことを嘆かれました。
「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあながたがと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(41)
「悪霊を制して病気を癒す力と権威」を主から授けられたのに(1)、どうして弟子たちは、それができなかったのか?並行箇所では、このように言われています。
「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコ9:29)
ということは弟子たちのこの失敗は、祈りの不足ということになります。
②尋ねるのを恐れた弟子たち(43~45)
 悪霊追い出しの奇蹟を見て人々が驚いているその脇でイエスは弟子たちにこう言われました。
「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」(44)
すでにイエスはこのことを彼らに語っていました(22)。二回目です。しかし、「しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。」(45)
なぜキリストが?(20~21)、王の王が人々の手に渡され、苦しめられなければならないのか?弟子たちには理解できませんでした。それでいて、「彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。」(45)
気になることなのだけれど、ことばにすることをためらいました。恐かったからです。
③聞かれたくないことを議論していた弟子たち(46~48)
 気になることがあるけれどイエスに言えない弟子たち。一方で彼らの話題は、「だれが一番偉いか?」(46)
ということでした。これはまた、違った意味でイエスに言えないことでした。しかし今度はイエスが、黙っている彼らの心の考えを見抜かれ、一人の子どもをそばに立たせてこう言われました。
「だれでも、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受けれ入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」(48)
④イエスに語り、答えられた弟子たち 最後の場面。ヨハネが言いました。
「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」(49)
しかし、
「しかし、イエスは彼に言われた。『やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。』」(50)
彼らは主の考えを理解したことでしょう。
 四つの場面、すべてにそれぞれメッセージがあります。しかし、今日はこれらすべてを「祈り」という切り口で考えてみたいと思います。
①の場面:弟子たちはずばり、祈りの不足を指摘されました。
②の場面:弟子たちは、わからないこと、イエスに尋ねるべきこと、祈るべきことを持っていました。が、ことばにすることができませんでした。祈れませんでした。
③の場面:弟子たちはイエスに聞かれたくない、けれど、とても気になることがありました。本当の気持ちですが、祈れないことがありました。
④の場面:弟子たちはイエスに現実を語り(冒頭の聖句)、答えていただきました。祈り、答えられたのです。
これらすべては、私たちの信仰生活、祈りの生活の現実です。
理想は④の場面です。けれど私たちは、とっさに起きる出来事の中で祈ることを忘れてしまいます(①)。
祈るべきだとわかっているけれど祈りから逃げていることがあり(②)、とても祈りにはできないと思うことがあるのです(③)。
でも、主イエスはすべてにおいて、ことばにしてお話しする私たちの祈りを、退けることなく聞いてくださり、答えてくださるのです。
みなさんよくご存じの「いつくしみ深き」の原曲(What a friend We havein Jesus)の、日本語訳(直訳)は以下のとおり。

なんというすばらしい友を、イエスのうちに私たちは持っているのだろうか!
なんというすばらい特権!祈りのうちにすべてのことを神に持って行けるとはおお、なんとしばしば私たちは平和を失うのか!おお、なんと不必要な痛みを私たちは抱くのか!
祈りによって神にすべてのことを持って行くことをしないばかりに。

「すべてのことを持って行く」のです。それができるのです。特権なのです。私たちがイエス・キリストの御名によって神に祈るとは、そういうことなのです。

純人 シャローム

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2020年6月21日(日) 主日礼拝
コロサイ1:21~29 「信じてたって悩んじゃう」

信じてたって悩んじゃう~救われたからこそ~

人生の中で悩みを持ち、教会の門をたたいた方は少なくないだろう。そして教会で語られる神のことばを聞き、自分の罪を知り、神と御子イエス・キリストを信じ、悩みから解放されたことだろう。パウロが言う通り。「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(22)
キリストの十字架による罪の赦し。神との和解。悩みからの解放はここにある。
しかし、それで悩みがなくなるのではない。信じてたって悩んじゃう。どういうこと?かつての悩みとは質の違う悩み。神と和解した、救われたからこそ持つ悩みである。先ほどの22節は続きがある。神が御子の十字架の死によって私たちをご自分と和解させたことには理由があると言う。
すなわち「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」(22)。と、ここで考えてもらいたい。あなたは、今、このような者ですか?今、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者ですか?答えはNo!です。聖でない、きよくない。傷がある。心が責められることがたびたびある。
でも、不安にならなくてよい。それは救われていないからではなく、救われたからこそ持つ悩み。神と和解したからこそ、罪赦されたからこそ持つ悩み。パウロは、神がこのように信じる者を聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるそのために、23節「ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。」。このように勧める。「信仰にとどまる」とはどういうことか?神を信じ続けるということ。しかし、信じ切れずにずれて行ってしまったならば、そこから悔い改める、神に立ち返る。すぐに向きを変える。これが「信仰にとどまる」ということ。信仰生活とは、ある意味、悩みの中で生きることである。罪が赦されていないのではない。救われていないのではない。信じているからこそ、救われているからこそ、現実の自分の不信仰に悩むのだ。

信じてたって悩んじゃう~何のための苦しみか?~

今日の箇所では、もう一つ「信じてたって悩んじゃう」がある。いや「信じてたって苦しんじゃう」と言った方が適切。いや、これもまた、「信じてるからこそ、苦しむ」ということ。それはパウロのことである。パウロとはどんな人か?23節の続き。「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。」(23)。
1:1も見てほしい。パウロは自分のことをこう言った。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」。「使徒」とは「送り出された者」。自分で始めたのではなく、神がみこころによって、私を送り出された。非常に光栄なこと。感謝なこと。しかし、パウロは続ける。
24節。「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」。二つのことばが目に留まる。一つは「苦しみ」。信じたから、信じて、選ばれて従う者となったので受ける苦しみ。これはパウロがイエスに出会ったときにすでに言われていたこと。「しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人(パウロ)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしのためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。』」(使徒9:15~16)。
もともと、クリスチャンを激しく苦しめてきたパウロ(当時はサウロ)。その自分が、今度はキリストをはっきり宣べ伝えるなら、そこに何が待っているか、彼ほど予想がつく人間はいなかった。そして、そのとおり、信じているからこそ、おとなしく黙っているのではなく、大胆に語るからこそ、パウロは激しい苦しみに遭い続けた。この24節で言われている「苦しみ」とは、おそらく、特に今、彼がローマの牢獄にいることであろう。信じているからこその苦しみがここにある。
しかし、24節に出てくるもう一つ、注目すべきことば。「喜び」。「苦しみを喜びとしています」。あまりにも苦しくて頭がおかしくなったのか?そうではない。パウロは苦しみを喜ぶ前に、苦しみの意味を知っていた。「わたしはキリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」
(24)。ここでも引っかかることばがある。「キリストの苦しみの欠けたところ」。キリストの苦しみに欠けがあったのか?イエスの十字架では不十分だから、自分がその続きに苦しんでいると言っているのか?そうではない。繰り返すが22節。「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(22)。
御子の十字架は完全な贖いの代価であった。パウロが「キリストの苦しみの欠けを満たす」
と言うとき、それは同じく22節。神が「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められることのない者として御前に立たせる」そのプロセスにおいて、天に昇られたイエスに代わって自分が苦しみを受ける、ということ。当然受ける苦しみ。先週私たちは学んだ。キリストは永遠から存在し、創造主であり、救い主であり、教会のかしらである、と。今日の箇所で言うならば27節「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」。この方をはっきりと宣べ伝えるときに、迫害される、投獄されるのは当然である。
だからパウロはこの苦しみを喜ぶのだ。みことばを宣べ伝え、24節「キリストのからだ、すなわち教会」、聖徒のひとりひとりが建て上げられていくからこそ、この苦しみを喜ぶのだ。その中には、まだ会ったことのないコロサイの聖徒たちも含まれている。だからパウロは「あなたがたのめに受ける苦しみ」と言った。「なんのためか?」それがはっきりしているので、彼は自分の受ける苦しみを喜んだ。この「なんのため?」を一番端的に表しているのが28節。「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(28)。「すべての人」と繰り返しているのは、かつては「イスラエル人だけが神の民である」と考えられていたが、今や、イエス・キリストはすべての人(異邦人(私たち日本人も異邦人))の救い主であることを強調したいため。
すべての人をキリストにあって成熟した者として立たせるため。この「立たせる」と同じことば(パリステーミ)が22節にも出てくる。すなわち「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせる」(22)。
これである。神がそのようにしてくださる、その一端を自分が担っている。不完全な自分であるけれど。だからパウロはこの苦しみを喜びつつこう言う。「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(29)。「労苦する(コピアオー)」とは、あの「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタイ11:28)の「疲れた」と同じことば。労苦するとは、疲れることなのだ。しかし、その疲れが、なんのために疲れるのか、よくわかっている。「このために」。
「すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるため」(28)
「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるため」(22)
パウロの疲れは、苦しみは、悩みはこれからも続く。

信じてたって悩んじゃう。
信じて救われた私であっても、いや救われているからこそ、自分の罪に、不信仰のために悩んでしまう。みことばにより、示されたとき、すぐに悔い改める、神さまに向きを変える。
信じてたって悩んじゃう。信じてたって苦しんじゃう。いや、信じているからこそ苦しむ。
神さまに従って歩むその道には必ず、苦しみがある。私も含めた、教会、聖徒たち、ひとりひとりがキリストにある成熟した者となる、そのために私はこの苦しみの中で喜ぶのである。

純人 シャローム

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6/20
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そ
うすれば、娘は救われます。」
 ルカ8:50

 今日の箇所には、二人の女性に対する主の奇蹟が記されています。
 一人は12年間長血をわずらった女の人。一人は12歳ぐらいの娘。
 一人はイエスの衣の房に触れ、出血が止まった。一人は死んでしまったけれど、イエスに生き返らせていただいた。
 イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。
安心して行きなさい。」(48)
 イエスは言われました。「恐れないでただ信じていなさい。そうすれば、娘は救われます。」(50)
 対照的な二人。しかし今日の箇所の対照は、実はこの二人ではありません。冒頭の聖句、「恐れないでただ信じていなさい」イエスが語ったその相手は誰?12歳の娘ではありません。その父親、会堂司のヤイロでした(41)。死にそうな娘を助けてほしくてイエスを呼びに行き、イエスが自宅まで来てくれることになったのに、足止めを食らい、そのうちに娘が死んでしまった。その知らせを聞いたとき、ヤイロのの顔からは血の気が引いたことでしょう。その時です。
「これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないでただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。』」
イエスはヤイロに語られました。娘は死んでしまいました。もう彼女が信じることはできません。しかしイエスはその父に言われたのです。
「恐れないでただ信じなさい。」
 さて、ヤイロはこのとき、イエスを信じたのでしょうか?聖書にははっきりと書かれていません。しかし彼は信じたことでしょう。娘は救われたのだから。イエスのことばどおりになったのです。起き上がった娘に食べる物を与えるように命じられたイエス(55)。そのとき、「両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」(56)
なぜでしょう?この出来事は娘の救いであると同時に、親の信仰のレッスンだったからです。だれかれ人に話すことではなく、あのとき自分がイエスを信じた。主は娘を救ってくださった。そのことをヤイロは深く思い巡らせる必要があったのです。
 恐れないでただ信じていなさい何を信じるのですか?イエスを信じるのです。「主は良いお方」と、ただその一点に集中するのです。最悪の事態になっても、恐れが絶望が自分を取り巻いても、あなたがすることはただ一つ。ただイエスを信じること。これがあなたが愛する家族のためにできることです。

 シャローム 純人

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6/19
見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。
 ルカ8:36

 嵐をおさめたイエスと弟子たちは、ゲラサ人の地に舟をつけました。ユダヤ人ではない異邦人の地です。ここでイエスは一人の男から、彼にとりついている悪霊を追い出されました。どのように?彼にとりついている悪霊を豚にのり移らせたのです。その霊はひとりではなく、大勢を意味する「レギオン」(30)。なので、レギオンがのり移ったのは一匹の豚ではなく、たくさんの豚の群れでした(32)。
「悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。」(33)
すさまじい光景!豚を飼っていた人たちは突然の出来事に驚き、逃げて行き、町や里でこのことを伝えました(34)。これを聞いた人々はイエスのところに行きました。イエスの足もとに、あの悪霊がとりついていた男が正気に返って座っているのを見ました。彼は、素っ裸で墓場に住んでいた「有名人」。あの男が服を着て穏やかにしている!どういうこと?これに続くのが冒頭の聖句。これを聞いた人々の反応は?
「ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。」(37)
彼らはなぜ、イエスに離れてほしいと願ったのでしょうか?何を恐れていたのでしょうか?
「こんなこと続けられたら商売あがったりだ!」
豚は彼らの財産でした(ちなみにユダヤ人は豚を食べないので、ここが異邦人の地であることがはっきりわかります)。それが一瞬にしてパーになったのです。だれのせい?イエスのせいです。彼らの恐れとは、イエスの不思議な力に対する恐れであり、それだけでなくイエスが居続けたときに自分たちが被る不利益を思っての恐れでした。
 イエスは言われるままに舟に乗って帰ろうとされました(37)。が、あの悪霊を追い出していただいた男は、イエスのお供をしたいと強く願いました。しかしイエスはこう言って彼を帰されます。
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」(39)
それで彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めました(39)。
 同じ一つの出来事でも違う反応がある。「お供をしたい」と願う人もいれば、「出て行ってくれ」と言う人もいる。それぞれの立場を考えれば、致し方ありません。そんな中で冒頭の聖句をもう一度、注目してください。この「見ていた人たち」は、この出来事の一部始終を見ていました。彼らはそれを見て、あの男が「救われた」のを知り、彼の「救い」を人々に知らせました。しかし、多くの人々は、たしかにこの知らせを聞いたけれども、目の前のことだけを見て、イエスがしたことが自分にとってどんな意味(利益・不利益)があるのか?それしか考えなかったのです。だから「出て行ってくれ」と願ったのです。
 私たちも、この「見ていた人たち」のようになりたいと思います。人をよく見たいと思います。一部分ではなく、よく見て、ひとりの人に対して神さまがされる「救い」を見出すものとなりたいと思います。そして、それを知らせるものとなりたいと思います。

  よい週末を!
 シャローム 純人

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6/18
 しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」 ルカ8:21

 イエスは自分の肉親をないがしろにしているのではありません。しかし、ここでイエスは「母・兄弟たち」ということばを用いて、神のことばを聞いて行うことがどれほど大切であるかを示されたのです。それでは「神のことばを聞いて行う」とはどういうことでしょうか?それが次の場面において明らかにされます。
 突風が吹き、舟は水をかぶり危険になりました(23)。弟子たちはイエスに訴えます。
「先生、先生、私たちは死んでしまいます。」(24)
眠っていたイエスは、起き上がり、風と荒波を叱りつけられます。
「すると静まり、凪(なぎ)になった。」(24)
直後にイエスは、弟子たちにこう言われました。
「あなたがたの信仰はどこにあるのですか?」(25)
ここでイエスが言われた「信仰」とは何に対する信仰だったのでしょうか?
「湖の向こう岸へ渡ろう」(22)
これです。イエスが弟子たちに語られたことば。これを聞いて弟子たちは舟を出したのです。しかし、湖に吹き付けた突風のゆえに、このことばも弟子たちの心の中から吹っ飛んでしまったのです。しかし、たしかにイエスは言われたのです。
「湖の向こう岸へ渡ろう」
イエスがこう言われたのだから、向こう岸に行くのです。行けるのです。そして、これが「神のことばを聞いて行う」ことなのです。「神のことばを聞いて行う」とは、そのことばを忘れない、離さない、握りしめる。信じ続けることなのです。弟子たちはこれに失敗しました。
昨日は、
「忍耐して実を結びます」(15)
という主のことばを学びました。信じること、信じ続けることは忍耐の要ることです。「神のことばを聞いて行う」ということは、実に忍耐の要ることなのです。イエスはご自身の語ったみことば(神のみこころ)を信じ続けました。だから嵐の中でもクークー眠っていられたのです(相当疲れていたのもあったと思いますが)。
 イエスに叱られた弟子たちはどうしたでしょうか?
「お命じになると、風や水までもが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか?」(25)
「そっちかい!」とツッコミいれたくなります。彼らは自分たちの信仰の薄さ、みことばを信じ続ける忍耐の欠けに目を留めるのではなく、目の前で行われたイエスの力あるみわざにくぎ付けにされたのです。これが弟子たちの信仰の現状であり、これからもさらに彼らは成長し続けていくのでした。


 シャローム 純人

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6/17
水曜祈祷会。今日も、午前の聖書研究で語り合われたことをお分かちします。あなたも聖書本文を読んで考えてみてください。

 ルカ8:1~15
①イエスがたとえで語られたのは、わかりやすくするためではありませんでした。それは「彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように」するためだと言われます(10)。このことと、イエスがたとえの最後語られた「聞く耳のある者は聞きなさい」(8)とは、どういう関係があるでしょうか?(イエスはやはり、群衆が理解することを願っておられたようです)
②「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(15)
実を結ぶための条件に「忍耐」があります。これをどう思いますか?
③このたとえは「四つの種」というよりも「四つの土壌」。それはみことばを受ける人の心を表しています。これを教会(聖徒の集まり)にも適用してみてください。教会が「良い地」であるとは、どんな状態のことを言うのでしょうか?
「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(15)

 もうすぐ、晩の祈祷会がございます。どうぞ、おいでになれる方はぜひ、いらしてください。ともに神さまに願いましょう。本日も、午後8;00
より中高生会オンラインミーティングが行われます。今週から、通常通りの授業になった中高生も多いです。さらに、みことばの励ましが彼らにありますように。

 シャローム 純人

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6/16
 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
 ルカ7:48

 「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されていることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(47)
「彼女は多くを愛した」とは、「一人の罪深い女」(37)が、イエスの足もとに近づき、泣きながら御足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗ったことです(38)。しかし間違えてはいけません。彼女がこのようなことをしたから、多くの罪を赦していただいたのではありません。そうではなく、彼女は多くの罪を赦していただいたから、このようなことをしたのです。イエスを多く愛したのです。しかし、そのあとでイエスは彼女に言いました。冒頭の聖句。
 「あなたの罪は赦されています」
わかっていることではないでしょうか?それを知ったからこそ、彼女は泣くほど感謝を込めてイエスの足に香油を塗ったのではないでしょうか?なぜイエスは、あえて彼女にこのことばを語られたのか?このことばは、イエスが彼女に対して語った最初のことばでした。イエスは同じメッセージを、罪の赦しをこれまでも語ってきました。彼女はそれを聞き、信じました(50)。しかし、かつて語られたイエスのメッセージは、人々へ語られたものでした。しかし、今、イエスは初めて彼女に対して、彼女に向けてこれを語られたのです。一対一のメッセージです。信じたイエスが、改めて自分にはっきりと語ってくれたのです。喜びはさらに深く心に広がったことでしょう。
 礼拝の説教は会衆に語られます。しかし6月の第一主日で聞いたように「幸いな人」(詩篇1:1)とは、ひとりの人。「あなた」に語られています。この視点はとても大切なこと。これが一番はっきりするのがデボーション(静思の時)。神さまと一対一。そこで読む、聞くメッセージは、この私に語られているのです。イエスが一人の罪深い女に対して語られたように。
「あなたの罪は赦されています」
前にも聞いたことがあることば。知っていることば。それを信じて多くイエスを愛しました。しかしイエスは、今日、ほかの誰でもないあなたに語っておられるのです。

 シャローム 純人

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6/14
2020年6月14日(日) 主日礼拝
コロサイ1:13~20 「世界で一番安全な場所」

祈りの土台

パウロは、まだ会ったことのないコロサイの教会の聖徒たちへ、しかし同じ福音を聞き、信じている者として彼らの信仰の助けとなる手紙を書いた。1:9~12は、パウロのコロサイの聖徒たちのための祈り。その前は「祈る理由」。そして今日の箇所1:13~20は「祈りの土台」ということができる。この上に立って私はあなたがたのために祈ります、とパウロは語っているのだ。

御子、御子、御子…

この「祈りの土台」において大切な二つのことば。一つは「御父」。最初(13)と最後(19~20))に登場する(19節の「神」は、父なる神を表している)。もう一つ大切なことばは?「御子」。この短い箇所に何回登場する?14回。実に今日の聖書箇所の八つの節すべてに登場する。
17、18節には二回、16、20節には三回出てくる。寝ても覚めても御子、御子、御子。御子イエス・キリストのこと。たくさんのことが語られているが、大きくまとめると四つのこと。
1. 御子は永遠の存在
御子は、見えない神のかたち(エイコーン:イメージ)。すべての造られたものより先に生まれた方(15)。万物に先立って存在している(17)→ヨハネ8:58)
2. 御子の創造のみわざ
すべてのもの:天と地にある、見えるもの見えないもの、すべてのものは、御子にあって、御子によって、御子のために造られた(16)。
3. 御子の救いのみわざ
私たちは御子にあって贖い:罪の赦しを得ている(14)。御子の十字架の血で私たちは神と和解した(19~20)。死者の中から最初に生まれた(よみがえられた)方(18)。
4. 御子はそのからだである教会のかしら(18)
この御子に感謝し、御子を恐れることが生きる基本。祈りの、信仰生活の土台。

世界で一番安全な場所~御子の支配(王国)~

実は、日本語の聖書でこれだけ出てくる「御子」であるが、今日の箇所の原文で「御子(ヒュイオス:息子)」はたったの一回。あとは全部「彼」。そのたった一回の「御子」は13節。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(13)。
この「愛する御子」の「御子」だけ「ヒュイオス」。パウロの「祈りの土台」は、一言でいえば「御子の支配」。永遠の存在であり、創造者にして、救い主、そして教会の頭である御子イエス・キリストの支配。この「支配」はギリシヤ語で「バシレイア」。本来は「王国」を意味する。私たちは暗闇の力(サタンの支配)から御子の支配される、御子の王国に移されたのだ。ここは、世界で一番安全な場所である。自分の国の中でいのちを狙われている人が外国に亡命する。そこは世界で一番安全な場所。いのちを狙う指導者や国家の支配から脱し、その国の支配・権威・権力のもとに身を置いているから。
では、私たちにとって「世界で一番安全な場所」とはどこか?先週の祈祷会で学んだのは、このみことば。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」(ルカ6:20)。
なぜ貧しい人が幸いなのか?「神の国はあなたがたのものだから」。どういうこと?この「神の国」の「国」が「バシレイア」。「神の国」とは、死んでから行く天国ではなく(それも間違ってはないが)、今、神が支配しているところ。しかし、神は無理やり私たちを支配しようとはされない。貧しい人はどうするか?足りないので求める。必死になって神に求める。すると、神がその人にとって一番良いことをしてくださる。それが、そこが神の国、神の支配なのだ。「支配されるなんてやだ」ではなく、「神さまが私を治めてくださり感謝します」という応答の祈りが沸き上がるのだ。イエスは言われた「貧しい人・今飢えている人・今泣いている人は幸いだ」と。みな、神に求める。「助けてください!」と。その人は満ち足り、笑うようになる。神の国、神の支配に生きるようになるのだ。苦しくて、悲しくて、泣きたくなるような心こそ「世界で一番安全な場所」である。求めるあなたに神さまが答えてくださるから。「御子」イエス・キリストは、今も、今日も生きておられ、あなたとともにいてくださる。

シャローム 純人

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6/13
 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」 ルカ7:9

 まず、聖書本文を読んでください。今日も短い箇所です。

 イエスさまを驚かす。すごいと思いません?!主が振り向いて興奮気味にみんなに言うんですよ。
「これほどの信仰を見たことがありません」って。どんな人?百人隊長。異邦人(ユダヤ人ではない外国人)。どこらへんに驚かれたのでしょうか?
「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。」(7)
ユダヤ人が異邦人と交わるのは良しとされていないかった。地位のあるローマ帝国の軍人であっても、会堂を建てるほどユダヤ人を愛している者であっても、聖書を教えるイエスに対してこのように考えた。しかしこれは謙遜であっても信仰ではありません。イエスを驚かせたのは次のことば。
「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。」(7)
これです。これにイエスは驚いたのです。百人隊長は日ごろ部下たちに「行け」、「来い」、
「これをしろ」と命令する。そして部下たちはまったくそのとおりにする(8。でも、人間が人間に命令するのと、人間が病気に命令するのとは違います。そもそも病気に命じるなんてナンセンス。しかし百人隊長は考えた。イエスは病気に対しても、いや、すべてのものに対して権威を持っておられ、彼が語ればすべてそのとおりになる、と。まるで「光、あれ」と神が命じたら光があったように(創世記1:3)。だから、
「ただ、おことばを下さい」
これが信仰です。イエスを驚かせた信仰。百人隊長が送った人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていました(10)。
 信仰とは何でしょうか?イエスを信じることです。神であるこのお方と、そのみことばを信じること。
 あなたもイエスさまを驚かせたいと思いませんか?

 シャローム 純人

2020年06月13日
ブレッド・オブ・ライフ
6/12
 あなた自身、自分の目にある梁(はり)が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。
 ルカ6:42

 梁とは家を建てるために使う丸太のこと。ちりとは、木屑のこと(41節注)。目の中に丸太があったら、ほとんど何も見えません。ましてや他の人の目の中のちりなど見れるわけがありません。しかし、よく見てください。イエスはここで「人のあら捜しをするな」と言っているのではないのです。最終的には、「兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます」。
イエスの弟子たちは、互いに目のちりを取り除き合う仲間なのです。そのために、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい」。
他の人が取り除くのではありません。自分が取り除かなければならないのです。梁もちりも、ともに事実を表わしています。自分の事実、他の人の事実。しかしまず、自分自身の事実をしっかり認め、それを自らが神の前に告白するのです。そのとき、目の中の梁を取り除くとき、初めて兄弟の目の中のちり(事実)をその人に伝えること、それを主にあって取り除くことができるのです。その場に平安が生まれるのです。
 「偽善者よ」とイエスは言われます。厳しいですが、自分の事実を想い、主の御声から耳をそらさないように。
 今、あなたが取り取り除くべき「梁」とは何ですか?

 おはようございます。
 次主日のお知らせ。6/14(日)は、午前7:30より早朝礼拝、午前10:30より礼拝が行われます。コロサイ1:13~20「世界で一番安全な場所」。先週は早天礼拝に24名の方がおいでになりました。引き続き、可能であるならば、早天に出席されることをお勧めします(密を避けるため)。
 お知らせ。私たちの教会と親しい交わりをいただいている「デュオ高瀬」のニューアルバム「LUFTPAUSE・ルフトパウゼ」がリリースされました。以下、デュオ高瀬のFacebookページから抜粋。

「(ルフトパウゼとはドイツ語で)「静止」これは日本語のタイトルで副題。ちょっとまて「車は」急には止まれない。という有名な交通標語?がありますが、「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。聖書」をコンセプトに録音したアルバム。録音場所は、日本の中心「岸和田」にある岸和田聖書教会の礼拝堂をお借りして、生演奏録音方式で編集なしの一発録りで臨みました。その節はお世話になりました。」
そうなんです!私たちの教会の礼拝堂で収録されました。ジャケットにも、しっかりと記してあります。
「Tracks recorded at Kishiwada Bible Church」って。
収録曲
「善き力に守られ」、「美しく青きドナウに」、「情熱大陸」、「雨だれ」ほか。
一枚2,000円(税込み)。もう、これは買うしかありません!
次主日から教会で販売します。お楽しみに。

シャローム 純人

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6/11
 あなた自身、自分の目にある梁(はり)が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。 ルカ6:42

 梁とは家を建てるために使う丸太のこと。ちりとは、木屑のこと(41節注)。目の中に丸太があったら、ほとんど何も見えません。ましてや他の人の目の中のちりなど見れるわけがありません。しかし、よく見てください。イエスはここで「人のあら捜しをするな」と言っているのではないのです。最終的には、「兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます」。
イエスの弟子たちは、互いに目のちりを取り除き合う仲間なのです。そのために、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい」。
他の人が取り除くのではありません。自分が取り除かなければならないのです。梁もちりも、ともに事実を表わしています。自分の事実、他の人の事実。しかしまず、自分自身の事実をしっかり認め、それを自らが神の前に告白するのです。そのとき、目の中の梁を取り除くとき、初めて兄弟の目の中のちり(事実)をその人に伝えること、それを主にあって取り除くことができるのです。その場に平安が生まれるのです。
 「偽善者よ」とイエスは言われます。厳しいですが、自分の事実を想い、主の御声から耳をそらさないように。
 今、あなたが取り取り除くべき「梁」とは何ですか?

 シャローム 純人

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6/10
毎週水曜日は祈祷会。その日の聖書日課をみんなで読み、考え、語り合い、教えられます。午前の祈祷会で話し合われたことをもとに、いくつかの問を立てました。ぜひ、あなたも聖書本文を読んで、考えてみてください。

ルカ6:20~26
①「貧しい人たち・今飢えている人たち・今泣いている人たち」が「幸い」とは、どうも納得いきません。どういうことなのでしょうか?(このような人たちは、その結果どうするのでしょうか?)
②「富んでいる・今満腹している・今笑っている」ということは、それ自体が悪なのでしょうか?イエスが言いたかったことは何だったのでしょうか?
③「天においてあなたがたの報いは大きい」(23)と言われます。「天」とは、いわゆる来世におけるのことだけを指しているのでしょうか?20節の「神の国」も、いつのことを指しているのでしょうか?

 素直に読んだら理解できないことばかりですね。でも、「神の支配の中」で素直に読むと、違った景色が見えて来るでしょう。

 祈祷会は、今晩7:30からもございます。お仕事の帰りに、一日の終わりに、ぜひ、いらしてください。心を合わせて主を賛美し、主に向かって祈りましょう。

 シャローム
 純人

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6/9
そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。
 ルカ6:13

 『みことばの光』の聖書日課は、昨日から新約聖書「ルカの福音書」になりました。今回は6章から。今日の聖書日課は、12弟子(使徒)が選ばれた場面。何十人、何百人といたであろうイエスにつき従っていた人々の中から、イエスはあえて12人を選ばれました。その目的は、「彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教させ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコ3:15)
しかし「この12人」を選ばれた理由は、どの福音書にも書かれていません。信仰篤いとか、能力が高いとか、そんなことは書かれていないのです。ただ、イエスが夜を明かして祈った結果、彼らは選ばれたのです(12)。今日の聖書日課には、群衆が病気を治してもらうため、悪霊を追い出してもらうため、イエスにさわろうとした、とありますが(19)、この12人は、いつもそばにいて、イエスにさわることができたのです。まさに使徒ヨハネが言った通り。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば(イエス・キリストのこと)について」(Ⅰヨハネ1:1)
これは大変な特権でした。
 しかし、またこれは大変な重荷でもありました。12使徒は伝承によれば、みな殉教したと言われています。一度は全員、逮捕されたイエスを見捨てて逃げてしまいますが(マタイ26:56)、後によみがえらえたイエスに会い、昇天されたイエスから聖霊を受け、死の苦しみをも甘んじて受ける宣教者となったのです。もっともこの時点では、彼らは、自分たちがそんな道を歩むなど思ってもみなかったでしょうが。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、またあなたがたがわたしの名によって父の求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)
 私たちは使徒ではありません。しかし、主は私たちにもこのみことばを語っておられます。大きな特権と大きな重荷。しかし、これらすべてが神の恵みなのです。パウロは言いました。
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(ピリピ1:29)

 シャローム 純人

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6/7
2020年6月7日(日) 主日礼拝 
詩篇1:1~6 「幸いな人~その2 明日もきっと大成功~」

幸いな人とはだれ?

詩篇1篇が取り上げる「幸いな人と悪しき者」。これは二人ではない。一人と一グループである。
「幸いな人」は単数形。「悪しき者」は複数形。つまり「悪しき者たち・罪人たち・嘲る者たち」。なぜ「幸いな人たち」ではないのか?詩人は一人の人=幸いな人=「彼」に注目しているからである。その「彼」とはだれか?あなたである。この詩を読んでいるあなたである。ここで語られている幸いな人とはあなた一人のことである。あなた一人だけではないが、聞くべきは「私たち」ではなく「私」、この私なのである。

明日もきっと大成功

前回は、幸いな人も悪しき者たちもその特徴が口、ことばにあることを学んだ。「嘲る者(たち)」と「主のおしえを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人」。幸いな人とは、主のおしえ、みことばが喜びであり、みことばを聞いているので、思わずその恵みのことばがぽろっと出てしまう人。今日はその続きを見て行こう。その人は木のよう。流れのほとりに植えられている木。人工の水路にあえて植えられている木。計算されつくされている木。三つのことが語られている。「時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」。普通ではありえないこと。しかし、主のおしえを喜びとし 昼も夜もいつでもそのおしえを思い巡らし口ずさむ人は、いつでもどこでも栄える(成功する)のだ。あなたが成功するのではない。あなたの思い通りになるのではない。神のことばが、あなたを通して成就するのである。これに対して「悪しき者たち」は、あの木のようにどっしりとしていない。どんなに数が多くても、穀物の中身を抜かれた籾殻のようである。人生の大風が来るとたちまち吹き飛ばされていく。「それゆえ 悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに立てない」(5)は、すっかり自信を失ってしまった彼らの姿を現しているのではないだろうか。

主が知っておられる私たち

1篇は「幸いな人」と「悪しき者たち」のことについて語られている、と言った。しかし、この詩の最後は変化している。「正しい者」(5、6)は、複数なのである。すなわち「正しい者たち」。
「幸いな人」の集まりが「正しい者たち」なのである。そして、「まことに 正しい者(たち)の道は主が知っておられ 悪しき者(たち)の道は滅び去る。」
(6)
「幸いな人」は、ひとりではない。孤独ではない。ひとりぼっちではないのである。あなたは、あなたと同じように主のおしえを喜ぶ 昼も夜もいつでもそのおしえを口ずさむ幸いな人とともに歩むのである。主は正しい者たちの道を知っておられる。ただ単に知っているということではない。
注意し、注目し、知っておられるということ。神さまは、今、ここに集っている、主のおしえ、みことばを慕い求め、喜び、語る私たちに目を向けてくださっている。その道は一つ。「悪しき者たちの道」も一つ。自分勝手でバラバラのように見えても一つの道。主のおしえの中に喜びを見出さないことにおいては一つ。「滅び去る」とは「失われる」とも訳せることば。神が目に留めてくださらない。神から切り離される。それが滅びである。本来、私たち一人一人はこのような者たちであった。「悪しき者たち・罪人たち・嘲る者たち」であった。しかし、神はそんな私たちを、まさにひとりの人間として救ってくださった。主イエス・キリストの十字架と復活により、罪のさばき、罪の縄目から解放してくださり、神をののしり、人を嘲る者から、神を喜び、人を祝福する者としてくださった。
みなさんひとりひとり、明日もきっと大成功!みことばがあなたのからだ、心、生活を通して表されますように。そしてまた来週、ともに集う私たちに、神さまの愛のまなざしが注がれます。

祈り
天のお父さま。あなたのみことばを喜ぶ私と私たちをしっかりと見ていてくださり、ありがとうございます。
イエス・キリストの御名によってアーメン

おはようございます。
昨日も、多くの方が神さまを礼拝されました。初めての人、外国の方もおいでになり、ともにみことばを聞き、祈ることができました。
神さまに遣わされた今日一日の中で、語られたみことばが、大成功しますように。

シャローム 純人

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6/6
「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」
 Ⅰ列王21:29

 ベン・ハダド王を「聖絶せよ」との命令に従わなかったアハブ王(20:42)。アラムと北イスラエルには三年は戦いがありませんでした。しかし三年目になってアハブは、アラムと戦うことを決意しました。かつて、アラムに奪われたラモテ・ギルアデの地を取り返すためです。アハブは南ユダの王ヨシャファテに援軍を要請します。ヨシャファテはアハブにこう言いました。
「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」(4)
かくして北と南、まさに全イスラエルは協力してアラムと戦うためにラモテ・ギルアデに行くことになりました。
 ユダの王ヨシャファテは、主を慕い求める王でした(Ⅱ歴代17:3~6)。彼は戦いに行く前、アハブに言いました。
「まず、主のことばを伺ってください。」(5)
アハブは約400人の預言者を集めて(バアルの預言者ではないですよ)、彼らに尋ねました。
「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」(6)
彼らは異口同音に言います。
「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。」(6)
しかしヨシャファテはアハブに言いました。
「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか?」
(7)
「何かちがう」と思ったのでしょう。これを聞いたアハブはミカヤという預言者を連れてきました。途中割愛しますが(ご自分で聖書を読んでください(8~23))、最終的なミカヤのメッセージは以下の通り。
「今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者たちの口に、偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわい(攻め上って倒される)を告げられたのです。」(23)
彼こそ、まことの主の預言者。しかしアハブは、このミカヤのことばを退け、彼を獄屋に入れ、自分たちはラモテ・ギルアデに攻め上っていきました。その結果は?北南連合軍の敗北。アハブは戦死し(22:35)、ヨシャパテは主に助けられて無事にエルサレムに帰りました(Ⅱ歴代18:31、19:1)。
 昨日の聖書日課を読んでいる方は、「おかしいな」と思われたことでしょう。冒頭の聖句。これは昨日の箇所の最終節です。エリヤのことばを聞いて悔い改めたアハブについて主が言われたことば。
「彼(アハブ)の生きている間はわざわいを下さない」のではなかったか?どういうことでしょうか?主はウソをついたのか?違います。
「彼がわたしの前でへりくだっているので」これが答えです。アハブが主の前にへりくだったので、主はわざわいを下すことを思い直されました。しかし、アハブはまたもや、主の前にへりくだることをやめ、高ぶっていったのです。預言者ミカヤのことばを退け、そればかりか彼を投獄し、突っ走って戦いに出て行ったことが何よりの証
拠です。
 主の前でへりくだる。どういうことでしょうか?それは、あなた自身が知っています。しかし知っているということと、そのようであるということは別です。主の前に静まり、今一度、御前にへりくだることを思い起こしましょう。

 こんにちは。
 明日は主の日。ともに礼拝を献げましょう。可能な方は7:30からの早朝礼拝においでください。マスクを着用し、教会玄関でアルコール消毒をしてお入りください。オンライン礼拝も継続しています。一つ一つが用いられますように。礼拝に関わる奉仕者おひとりおひとりに主の報いがありますように。

 シャローム 純人

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6/5
アハブのように自らを裏切って主の目に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。 Ⅰ列王21:25

 イズレエルの宮殿近くにあるぶどう畑欲しさのゆえに、ナボテを殺してまで土地を奪い取ったアハブ。そんなアハブのいるサマリアに再びエリヤが登場します。エリヤはアハブの殺人と略奪を指摘し、主のことばを伝えました。
「今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童(こわっぱ)から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。それは、あなたが引き起こしたわたしの怒りのゆえであり、あなたがイスラエルに罪を犯させたためだ。」(21~22)
これを聞いたアハブはどうしたか?やっぱり「不機嫌と怒り」でしょうか?いいえ、違います。
「アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布(あらぬの)をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。」(27)
悔い改めたのです。主はエリヤにこう言われました。
「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか?彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」(29)
 何がアハブをこのようにさせたのでしょうか?実は21~22節のエリヤのことばには続きがありました。
「また、イゼベルについても主はこう言われる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。』」(23~24)
これが「効いた」のです。この時、アハブはイゼベルのしたことを客観的に振り返りました。「たしかに(彼女は)ひどいことをしてきたな」そう思ったのではないでしょうか?そして、妻に対する主のさばきの妥当性を認めたとき、急に恐ろしくなったのです。
 冒頭の聖句は聖書記者のアハブに対する評価です。
「彼の妻イゼベルが彼をそそのかした」
そのとおり。アハブの悪の背後には必ずイゼベルがいました。しかし聖書は、だからアハブは無罪だとは言いません。アハブは、「自らを裏切って主の目に悪であることを行った」。
原文を直訳すると、「主の目に悪を行うために自分を売った」となります。「たましいを売る」ということばがありますが、まさにアハブはイゼベルにそそのかされて、主に仕えるべき自分のたましいを売り飛ばしてしまったのです。彼は自分で自分を裏切りました。
 ところでこのアハブとイゼベル夫婦。だれかに似ていないでしょうか?そうです。アダムとエバ。アダムもエバにそそのかされて、誘われて、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。しかし、アダムが主に対して「この女が…」(創世記3:12)とエバのせいにしたのに対して、アハブはイゼベルのせいだとは言いませんでした。私たちはなぜ、人のせいにするのでしょうか?本当のことだからです。エバのせいでアダムは食べたのです。しかし人のせいにしていると、もう一つの本当のことを忘れてしまいます。アハブはそのもう一つ、自分がたましいを売ったことを認め、主に立ち返ったのです。
 「ここまでやってきて、今さら調子いいこと言うな」と思われますか?主は偽りなく悔い改めたアハブをあわれんでくださいました。

 おはようございます。
 今、教会にはお掃除担当の方々が来られ、日曜日の準備をしておられます。次主日のお知らせ。
6/7(日)は午前7:30より早朝礼拝、午前10:30より礼拝をお献げします。オンライン(YouTube)礼拝も継続します。詩篇1:1~6「幸いな人~その2 明日もきっと大成功!~」。この日から、CS(幼稚科・小学科)、中高生会も再開します。コロナウィルス感染予防のため、可能であれば早朝礼拝に出席されることをお勧めします。礼拝後、午後からは執事会が行われます。今後の教会の集会・交わりについて話し合います。10名の執事と牧師の名前を呼んでお祈りください。
 礼拝のために、今、できる準備をしましょう。

シャローム 純人

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6/4
アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。
 Ⅰ列王21:4
妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」
 Ⅰ列王21:7

 北イスラエルの首都サマリアの50キロ北にイズレエルという地がありました。そこには、アハブ王の宮殿があり、そのそばにぶどう畑がありました。ナボテという人の所有する土地でしたが、アハブはこの土地を自分の野菜畑にしたいと思い、ナボテに願いました。
「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい…その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を支払おう。」(2)
ナボテの答えは「No」でした。
「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」(3)
王の願いなのに、と思います。しかし、これにははっきりとした理由がありました。
「このように、相続地は、部族からほかの部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。」(民数記36:9)
かつて主がモーセを通して語られたこと。イスラエル人であれば、みんな知っていました。先祖が主から受けた土地、相続地は堅く守らなければならないのです。
 これを聞いたアハブの反応が冒頭の聖句。すると、そこに妻のイゼベルがやってきて、アハブにその不機嫌の理由を尋ねます。アハブが妻に一部始終を伝えると、イゼベルは答えました。
「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。
この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」(7)
どうやって、イゼベルはあの土地を手に入れようとしたのでしょう?彼女はアハブの名でナボテの住んでいる町の長老たち宛に手紙を書きました。このように。
「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、彼の前に二人のよこしまな者を座らせ、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」(10)
なんてひどいシナリオ!しかし、ことはすべてのイゼベルの書いたとおりに進みました。ナボテは石打ちにされて殺されたのです(13)。イゼベルがこのことをアハブに伝えると、アハブはナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行きました(明日に続く)。
 この話の中には、さまざまな人々の偽りと悪が織り混ざっています。ナボテは石打ちにされますが、その理由は「神と王を呪った」ということでした。これはウソでした。しかし「二人のよこしまな者」が、証言したのです。ナボテは信仰によって主が与えられた相続地を守っていた人。神を呪うわけがありません。しかし彼らは、それを知っていながらウソの証言をしました。まさに「よこしまな者」。しかし、このような「よこしまな者」を差し向けた人がいました。長老たちです。
彼らも同じくナボテが信仰深いことを知っていたはずです。しかし、イゼベルの書いた手紙のとおりに動きました(11)。イスラエルの長老ですが、主を恐れていなかったのです。しかし最も悪いのはイゼベルです。すべては彼女の悪と偽りによってナボテは殺されたのです。
 イゼベルは異邦人でした。彼女が夫に「あなたはイスラエルの王権を得ています。」というとき、アハブの上にはだれもいません。だから、その王権をもって何でも思うようにしてもよい。そう考えました。しかしイスラエルの王は、そうではありません。イスラエルの王は自分に王権を与えられたお方を恐れ、この方に仕え、この方にあって民を治めるべきなのです。アハブは思い通りにならないことがわかったとき、最初からイゼベルが考えたようなことをしませんでした。どうしたかというと、「不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った」のです(4)。実はこのフレーズ、昨日のお話、20章の最後にも出てきます。主の預言者から、アラムの王ベン・ハダドを聖絶しなかったことを責められたとき、「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」(20:43)
預言者は「主はこう言われる」と言い、ナボテは「(相続地を譲るなど)主にかけてあり得ない」と言いました。アハブも主を知っているイスラエル人であり、これらのことばに「引っ掛かり」を覚えたことでしょう。この「不機嫌・怒り」とは思い通りにならないゆえの感情ですが、これはまたチャンスでした。自分は、ほかでもないイスラエルの王であり、ただ主に仕えるために立てられた者であることに気づく機会だったのです。しかし、残念ながらアハブは思い通りにならないスト
レスを、主を恐れない妻の助けによって、自分の力で乗り越えていったのです。
 私たちもまた、不機嫌・怒りを持つことがあります。しかし、立ち止まって考えてみましょう。
この不機嫌・怒りはどうしたら去っていくのだろうか?と。道は二つ。自分の力で乗り越えていくか。主に立ち返り、悔い改めて神さまの前にへりくだるか。たとえ乗り越えたとしても、その向こうにはもっと大きい山が待っています。
シャローム 純人

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6/3
毎週水曜日の祈祷会(午前10:30、午後7:30)では、『みことばの光』の聖書日課(ブレッド・オブ・ライフもこの聖書日課に沿っています)をみんなで読んで、教えられたことを分かち合います。水曜日のブレッドは、メッセージではなく、その日の箇所を読むにあたって、注目したら良いと思われる点をいくつか挙げます。これを見て実際に聖書を読み、考えてください。

Ⅰ列王20:22~43
①23節:なぜアラムの王の家来たちは、主のことを「山の神」と考えたのでしょう?
②30節:アラム軍で生き残った2万7千人の上に城壁が崩れ落ちました。イスラエル軍がこの城壁を崩したのではない、と考えるなら、この出来事は何を表しているでしょうか?
③35~36節:預言者の仲間を打つことを拒み、その後「主の御声に聞き従わなかった」ために、すぐに獅子に殺されてしまった人とは、だれのことを指しているのでしょうか?
④ ③の答えとなる人物は、実際はこの時点において死んでいません。このことから、神はどんなお方であることがわかりますか?

 上記のことは、午前の祈祷会に出席されたみなさんの対話において出された問です。もし、晩の祈祷会に出られるならば、いらしてください。ともにみことばから学びましょう。
 晩の祈祷会の30分遅れで、中高生会オンラインミーティングが行われます。学校が始まった中高生たちにも、みことばの励ましがありますように。
シャローム 純人

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6/2
ちょうどそのころ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしが主であることを知る。』」 Ⅰ列王20:13

 北イスラエルの王アハブは弱い人間でした。預言者エリヤが、あのバアルの預言者450人に勝利したのを見ても、民が「主こそ神です。主こそ神です。」(18:39)というのを聞いても、主に立ち返りませんでした。むしろ、エリヤがしたすべてのことを妻のイゼベルに告げました(19:1)。主を恐れないイゼベルは、エリヤのいのちを狙いに行きます。アハブはそれに対して何も言うことができませんでした。
 今日の聖書日課20章は、アラムの国の王ベン・ハダドが、北イスラエルの首都サマリヤを包囲したところから始まります(1)。このくだりを読んでください。アラムと北イスラエルの力関係は歴然としています。ベン・ハダドはアハブに無理難題を押し付けます。
「私はおまえに人を遣わし、おまえの銀と金、および、おまえの妻たちや子どもたちを私に与えよ、と言った。明日の今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らはおまえの家とおまえの家来たちの家の中を探し、たとえ、おまえが一番大事にしているものさえ、手をかけて奪い取るだろう。」(5~6)。
 こんなことを言われてアハブはどうしたでしょうか?彼はイゼベルの慕う偶像バアルに頼ることもなく、かといって主を求めることもせず、イスラエルの長老に泣きつきました。
「あの男(ベン・ハダド)が、こんなひどいことを要求しているのを知ってほしい。彼は人を遣わして、私の妻や子どもたち、および、私の銀や金を求めたが、私はそれを断り切れなかった。」
(7)
長老たちも信仰がありません。主にすがる、などという発想も出てこず、ただ、「聞かないでください。承諾しないでください。」(8)
と言うだけでした。アハブはこれを聞いて、今度はベン・ハダドにこう言いました。
「初めにあなたがこのしもべにお求めになったことは、すべてそのようにいたしますが、このたびのことはできません。」(9)
ベン・ハダドは怒り、アハブを脅しました(10)。するとアハブは追い打ちをかけるようにこう言いました。
「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。」(11)
「まだ戦ってもいないのに、勝ったようなことを言うな」という意味。ベン・ハダドは家来たちに言いました。
「配置につけ」(12)
いよいよ全面戦争です。バアルにもつかず、主にもつかず、ベン・ハダドにも背を向けたアハブ。
いったいどうなるの?
 と、そのときです。冒頭の聖句。ひとりの預言者、主の預言者がアハブに主のことばを伝えました。主がアハブの手にアラムの軍勢を引き渡す、と。
「見よ」
主は言われました。何を見るのか?アラムの大軍勢を見るのか?違います。主は、「わたしを見よ」
と言っているのです。
ハッとさせられたアハブ。「見よ」と言われるその方向、主を見つめたアハブは、このことばに従い、主にすがってアラムと戦いました。結果は北イスラエルの勝利!(20)。アハブは、主が言われた「わたしこそ主である」そのことを知ったのです。
 神さまは、あなたにも言われます。「見よ」と。「わたしを見よ」と。信仰を持っていても主を見失ってしまう。その時に主は言われるのです。「見よ」と。今、あなたはどこを見ていますか?
シャローム 純人

2020年06月30日