ブレッド・オブ・ライフ 07


ブレッド・オブ・ライフ
2020年7月26日(日) 主日礼拝
マルコ1:12~13 「試練の意味」

聖霊に従う

マルコの福音書でイエスが最初にしたこと、それはバプテスマを受けることであった。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」。罪を犯したことのない神の子が「人となる」ため。
罪人の一人と数えられ、罪人の身代わりとして死ぬため。バプテスマの水からあがられたイエスに聖霊が降った。神の子に聖霊が降る理由。これもまた、イエスが「人となる」ため。
聖霊を受けたイエスの歩み、姿は、神に悔い改め、バプテスマを受け、同じく聖霊を受けた人間のモデルなのである。
バプテスマを受けたイエス。「それからすぐに」(12)。それからすぐに何が起こった?
「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(12)。「追いやる(エクバッロー)」は「投げ出す」という意味。御霊(聖霊)がイエスを荒野にぶん投げた。荒っぽいことをする。ここで大事なのが、「御霊はイエスを」ということ。主語は何か?御霊である。

聖霊を受けたイエスの歩み。その主語は御霊であった。しかし、それはまた、イエスがその御霊のされることに従ったことを表わす。聖霊は強引とも思えることを私たちにされる。しかし聖霊は無理強いしない。イエスが従ったからこそ、荒野に行かれたように、私た
ちも聖霊の導きを選び取るのだ。

試練の意味

聖霊によって荒野に追いやられたイエスは、そこで何をしていたのか?「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。」。四十日:モーセが神に呼ばれシナイ山(ホレブ山)にいたのは四十日。そこであの「十戒」を授かった。エリヤが神に呼ばれホレブ山まで歩いて行った期間が四十日。モーセも、エリヤも、そしてイエスもこの四十日は、孤独であった。実に「荒野(エレーモス)」とは「寂しいところ」という意味(1:35)。この寂しい荒野、孤独の中でイエスは、サタンの試みを受けられたのだ。サタン:悪魔の試み、誘惑を受けた。サタンとは神の敵であり、サタンの試みとは、信じる者を神から引き離そうとする企てである。実にすべての人間は、このサタンの試み、誘惑に負けて、神から引き離されてしまった。しまっている。ここで、サタンは神の子であるイエスに対しても誘惑し、彼を神から引き離そうとした。では、その結果は?誘惑に勝ったのか、負けたのか?私たちは知っている。マタイの福音書、ルカの福音書を読めば、わかる。イエスは、サタンに勝利された。しかし、マルコにはそれが記されていない。なぜか?イエスがサタンの試みを「受けた」。そのことにポイントを置いたからである。しかし、そもそもなぜイエスはサタンの試みに会わなければならなかったのか?神がそんなことを許されるのか?許されたのだ。だってイエスをあの荒野に追いやったのは、神の御霊だったのだから。この試みは、試練であった。試練とは何か?それは、「先がある」ということである。これから先のためにイエスは試練を受けられた。これからいよいよ始まるサタンとの長い闘い、人々を神のもとに取り戻すこの戦いの前に、まず、自分自身がサタンに勝利することが必要であった。このように誘
惑に打ち勝つということを体感する必要があった。
イエスはサタンの試みに打ち勝った。試練を乗り越えて新たな戦いのための備えをした。しかし、聖書にはサタンの試みに負けてしまった人もいる。ペテロは「あなたはイエスの弟子だろう?」と尋ねられて三度も主を否定した。大失敗をした、誘惑に負けたのだ。しかし、これにもまた先があったのだ。彼は自分の力ではサタンに勝利することができないことを知り、よみがえられたイエスに出会い、内に住んでくださる聖霊の力によってのみ勝利することができることを知り、そして本当にそのとおりに、勝利の歩みをすることができた。

イエスを支えたみことば

イエスがこのサタンの試みに勝利することができた中には、みことはの力があった。「人はパンのみによらず、神のことばで生きる」「主を試みてはならない」「主にのみ仕えなさい。」。これはイエスがサタンに対して語った聖書のことばであるが、もう一つ、この場においてイエスを支えたみことばがある。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。バプテスマを受け、聖霊を受けたイエスに父なる神が語られたこのことばは、このサタンの試みの中でもイエスを支え続けた。孤独を私たちは嫌う。しかし孤独とは、神と一対一になる、なれるとき。そこで、私たちもまた、主イエスを信じる者として神のことばを聞く。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。」
荒野に住む恐ろしい獣たち。ひとりぼっちのイエスだけれど、御使いたち、神が特別に遣わされた天使によって守られた。この孤独の中で、その中でこそ、イエスは神の守りを知ったのである。

今、試練の中にいる人。何のためにこんな厳しい目に遭うのか?先があるのだ。その将来のために今、この試練がある。
試みに打ち勝つことができなかったとしても、それを素直に認め、主の赦しを受けるならば、先があるのだ。
試練には意味がある。

シャローム 純人

--------------------------------------
7/25
 イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。 ルカ11:37

 このようにして始まった食事会。しかし、そこで語り合われたことは終始穏やかでありませんでした。イエスが食事の前に「きよめの洗い」をしないのを見てパリサイ人は驚きました。それを知ったイエスがパリサイ人、および律法の専門家に語ったことが今日の聖書日課。
・外側はきよめても、内側は強欲と邪悪で満ちている(39~41)。
・規定通りの献げ物はしているが、正義と神への愛はおろそかにしている(42)。
・会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ(43~44)。
・人々には負いきれない荷物を負わせるが(「律法を守れ!」)、自分は、その荷物に指一本触れようとしない(46)。
・「わざわいだ。おまえたちは(旧約の)預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。」(47~48)。
・「わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」(52)
どうですか?穏やかでない。して、その結果は?
「イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問を始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである。」(53~54)
それは、そうなるだろうと思います。このこともまた、イエスが十字架につけられる、そのためのプロセスとなりました。イエスと律法学者・パリサイ人の対立構造がさらに浮き彫りになりました。このときのムードはどんなだったでしょうか?険悪そのもの。しかし、最初はそうではありませんでした。もう一度、冒頭の聖句をご覧ください。最初にイエスを自宅に誘ったのはパリサイ人でした。食事を共にするということは、親しい関係があるか、相手に対して好意を持っている上で行うこと。実はルカの福音書には、パリサイ人がイエスを招く場面が他にもあります。
「さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。」(7:36)
「ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。」(14:1)
14章の方は、明らかにイエスを試そうとしていたことが後でわかります。が、大嫌いで顔も見たくない相手だったら、そもそも食事に招くことなどしないはず。しかしパリサイ人たちはたびたびイエスを招きました。自分たちに対して批判するイエスであっても、彼と交わりたい。そのような願いがあったのです。イエスもまた、パリサイ人の招きに応えます。彼がパリサイ人・律法学者に語ったこと、批判は、すべて本当のことでした。しかしイエスはそれらを真剣であっても意地悪く語らなかったことでしょう。ストレートに語りつつも、関係を切ろうとはしていない。最終的に関係を切り、イエスを十字架につけたのはパリサイ人たちでした。今日の聖書日課、イエスの語りの中に、イエスの彼らへ愛を見出すことができたら、それは深い学びとなります。イエスは、まさに彼らのイエスを拒んだというその罪のために十字架にかかってくださったのです。

シャローム 純人

--------------------------------------
7/23
「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」 ルカ11:13

 イエスが悪霊追い出しをしているのを見た群衆の中のある者たちは、イエスは「悪霊どものかしらベルゼブル」によって悪霊を追い出している、と言いました。これに対してイエスは答えます。
・サタンが仲間割れしたらその国は立ち行かない。(しかしサタンは変わらず猛威を奮っている)(17~18)。
・あなたがたの仲間も悪霊を追い出しているが、それは何によってなのか?彼らは「ベルゼブルによって悪霊を追い出しをしている」などとは決して言わないだろう。彼らこそ、今あなたがたが言っていることばをさばくだろう(19)。
そしてこう言われました。
「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(20)
イエスによって悪霊が追い出され、神の国(神の支配)がやってくる。すべての人はアダムとエバ以来、みなサタンの支配の中に置かれています。イエスを信じて救われるとは、彼によってその人から悪霊が追い出されるということ。それは良いことですが、それだけではいけない、とイエスは言われました。24~26節です。
 汚れた霊が「出て来た自分の家に帰ろう」と考えました(24)。「家」とは人間の心。かつてそこに汚れた霊は住んでいたのですが、イエスによって追い出されてしまいました。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。」(25)
部屋を散らかすのが得意な私などは、これは「良いこと」だと思いますが、この文脈では良くないことなのです。このように続きます。
「そこで出かけて行って、自分より悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」(26)
部屋が片付いていない、散らかっている方が良い、ということではありません。部屋の中に住人がいないことがまずいのです。だれもブロックしないので、悪霊が再び住みつき、前よ
りもっとひどい状態になるというのです。ここでいう「住人」とは何か?聖霊です。人の心から悪霊が追い出され、その人は神によって救われるのですが、その心には新しい住人である聖霊が住まなければならないのです。神の支配を喜び、楽しむよう導かれる聖霊が住んでこそ、救われた喜びを味わうことができるのです。
 冒頭の聖句は昨日の聖書日課の最後のことば。イエスが語られました。あなたが天の父に自分の必要を心から求めるならば、神はあなたに聖霊を与えてくださるのです。どうぞ「しつこく」神さまに祈ってください(8)。あなたの欲しいものを。そうすれば、神さまはあなたに聖霊を与えてくださいます。あなたの心は変えられます。あなたの祈りが変えられます。あなたは聖霊に満たされるのです。悪霊が追い出されたあなたの心を「空っぽ」にしてはいけません。

 おはようございます。
 本日は「海の日」。明日は「スポーツの日」。連休ですね。明日は、東京オリンピックの開会式が行われる予定でした。一年前、まさかこんな(コロナ禍)ことになるとはだれも思っていなかったでしょう。でも祝日は祝日です。みなさんのからだと心が休まりますように。というわけで本日の英会話クラスはお休みです。 
 よい休日をお過ごしください。

 シャローム
 純人

--------------------------------------
7/22

こんばんは。
 今日の午前の祈祷会で語り合われたことをもとに3ポイント示します。ぜひ、聖書を開いて考えてください。

 ルカ11:1~13
・あなたの祈りには、イエスの語られたたとえの中に出てきた人の「しつこさ」(8)がありますか?「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」(9)とは、神にしつこく願うことなのです。
・「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(13)
 ここでは「何を」求めるかは言われていません。私たちが、自分の心のうちにある本当の願いをしつこく願い、祈るとき、神さまは私たちに聖霊を与えてくださいます。それは私たちの心が変えられることであり、祈りが変えられることです。
・「祈るときには、こう言いなさい」とイエスが勧められた2~4節「主の祈り」(ルカバージョン)。この祈りはイエス自身が祈ったものでしょうか?イエス自身の祈りではないけれども、弟子たちが祈るべき祈りとしてイエスが教えたものでしょうか?

シャローム
 純人


--------------------------------------
7/22
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。 ルカ10:42

 ある律法の専門家とイエスが対話をしました。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」
「律法には何と書いてありますか?あなたはどう読んでいますか?」
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』とあります。
「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
「では、私の隣人とはだれですか?」
そこでイエスが語られたのが、いわゆる「良きサマリア人」の話。
エルサレムからエリコに下る途中のユダヤ人が強盗に襲われ、半殺しにされます。同じくユダヤ人である祭司やレビ人(二人とも宗教的指導者)は、この倒れた男を見ても、すーっと反対側を通り過ぎて行きました。しかし(先週も学びました)ユダヤ人とは犬猿の仲と言われているサマリア人の男が旅の途上でこの傷ついた人を見つけ、手当てをし、連れて行った宿屋の主人にデナリ二枚(二日分の給料に相当)を渡しながらこう言います。
「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
イエスはこの話を語り終えると、律法の専門家に尋ねます。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか?」
専門家は「サマリア人」と言いたくないので、こう答えました。
「その人にあわれみ深い行いをした人です。」
イエスは言われました。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」
「私の隣人とはだれですか?」と尋ねる専門家にイエスは、「だれが隣人になったか?」と尋ね返したのです。
 ところで、このサマリア人、旅をしていたとありますが、どこに向かおうとしていたのでしょうか?彼は宿屋の主人に、「私が帰りに払います」と言いました。そうです。彼はサマリアからエルサレムに向かう途中であのユダヤ人を助け、エルサレムに行った帰り道に足りない分を支払うと約束したのです。エルサレムに何しに行ったのでしょうか?神殿で礼拝するためです。ユダヤ人から見ればサマリア人は混血人種であり、宗教的にも「あやしい」と考えられていました。しかし彼は、エルサレムに主を礼拝しに行く純粋な信仰を持っていたのです。彼は主なる神の招きを受けて、素直に出ていく信仰者でした。そんな彼だからこそ、あの傷ついたユダヤ人を「兄弟」として助けたのです。そうそう、強盗に襲われたユダヤ人も、祭司やレビ人もエルサレムで神殿礼拝をした帰り道でした。「兄弟」をスルーした指導者たちは、礼拝でどんな恵みを受けたのでしょうか?
 神の招きを受けた人として、そしてその招きに答えた人として次のお話では、マリアがとりあげられています。たしかにイエスは客として招かれました。マルタは迎える側としてイエスをもてなすために一所懸命。だから何もしないでただ主の足もとでみことばを聞いているマリアを見て腹を立てます。そしてイエスに、自分の手伝いをするようにマリアに言ってくれ!と願いました。イエスはマルタが心を乱していることを指摘して言いました。冒頭の聖句。マリアが選んだ「良いほう」とは、もちろんイエスのみことばに耳を傾けることです。もてなすことよりもみことばを聞くことが大事だ、と言うことができます。しかし、マリアがみことばを聞いたということは、イエスの招きを受けて、それに答えたということでもありました。イエスは客人でしたが、マリアはイエスに招かれていると自覚し、その招きを喜んだのです。主なる神の招きを受け、それに答えたあのサマリア人がその途中で見つけたユダヤ人を助けたのと同じように、今、イエスの招きを受け、それに答えたマリアもまた、その後、喜んでイエスをもてなしたのではないでしょうか?
 「永遠のいのちを受け継ぐ」ためには「それを実行する」ことだとイエスは言いました。
しかし、なぜ実行できるのか?なぜ神と隣人を愛することができるのか?それが大切です。
なぜですか?神が愛してくださったからです。その招きを受けて、それに答えたから。だから私たちは良い行いをすることができるのです。
シャローム 純人

--------------------------------------
2020年7月19日(日) 主日礼拝
コロサイ2:16~23 「偽物の特徴~思い上がり~」

教会の中にあった問題~みんな聞いている~

パウロの手紙は「教科書」ではなかった。「キリスト教はこういうものですよ」という入門書ではない。そこには必ず宛先があった。「コロサイ人への手紙」。小アジアの一都市コロサイにあったキリストの教会、そこにいる聖徒たちに対して語られた。そして、手紙が書かれた目的があった。コロサイ人への手紙であるならば、誤った教え(異端)が教会の中に入ってきたこと。それは、迫害など教会の外からくる問題ではなく、教会の中にあった問題。その問題を聞かされたパウロが書いた手紙。ということは、この手紙が読まれた時その場には「みんな」がいた。みんなの中には、先週の箇所で言えば「まことしやかな議論」をする者たち、「あなたがたを惑わす」者たち(4)、「あのむなしいだましごとの哲学」によって聖徒を捕えようとしている者たち、「人間の言い伝え」「もろもろの霊による」ことを、あっちこっちで言いふらす者たち(8)がいた。「キリストによるものではない」教え、「キリストでは足りない」と言う者たちがいた。この手紙が朗読された時、そこには、これらの異端的なことを語る者たちもいた。このようなことに頭を悩ませている者たちもいた。またこれは、はっきり分けられるようなことではなく、そのような異端的な教えに引き込まれそうになっている者たちもいた。そういうことを言い始めた者たちもいた。「ちゃんと信じている人」だけが聞いていたのではない。異端的な人をのけて、まっとうな人だけが聞いていたのではない。つまり、今日の箇所の最初のことばで言うならば、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。」(16)
の「だれか」が、その中にいたということ。ユダヤ教的な「食べて良いもの、悪いもの」これを守らなければ救われない。日や月や年の儀式をきちんと守ること。これを守らなければ救われない。それが「できてない!」と批判する人たちがその中にいた。
これは非常に緊張感のある場面である。

偽物の特徴~思い上がり~

そのように考えながら読んでいくときに気づく。パウロは、単にこれらの異端、偽物の特徴を示しているのではない。そこには、まさにそのような人たちがいた。
「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、」(18)
そこには、信者を断罪する者がいた。自己卑下とは「謙遜」と訳すことができることば。謙遜そうに見えるけれど、思い上がっている。仲介者である天使や、自分に特別に示された幻に拠り頼んで、自分はそれを持っている、知っていると思い上がって「キリストだけは足りないのだ」と、聖徒の信仰を揺るがす者たちがいた。

本物を見よ!~かしらに結び付け~

「つかむな、味わうな、さわるな」(21)。そうすれば救われる。どうして、こう定めに縛られるのか?そういうことを言う人がいるから。
しかし、パウロは、偽物を異端を示すだけでなく、やはり、こう言う「本物を見よ!」。
「これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(17)
「かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。」
(19)
「もしあなたがたがキリストともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、」
(20)
彼は真理を提示する。「使ったら消滅するもの」(22)。主イエスは言われた。「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることがわからないのですか?」(マタイ15:17)。
「これらの定めは…肉を満足させるだけです。」(23)見た目が良いものなので、「知恵のあることのように見え」るが、人が救われるためには、何の価値もない。それはただの自己満足だ。
これらのパウロのことばは、異端を持ち込む人々への警告であり、また「主イエスのもとに帰ってきなさい」という招きなのである。
 あなたは、今日の聖書のことばを、どの立ち位置で聞くだろうか?あなたは今「キリストだけで十分」と信じていることはたしかである。しかし、もし聖霊がみことばを通してあなたに語っているならば(叱責や警告)、その声に耳を傾け、思い巡らそう。悔い改めることがないだろうか?

シャローム 純人

--------------------------------------
7/18
 今日から『みことばの光』の聖書日課は、新約聖書「ルカの福音書」。今回は9章51節から。
「ルカはイエスの三年にも及ぶガリラヤ周辺での活動を記した後、十字架に架かるためのエルサレムへの歩みを、約十章を費やして書き記した。この間の出来事をマタイは二章(マタイ19~20章)、マルコは一章(マルコ10章)しか費やしていないことから、ルカが十字架に架かる前の半年間の出来事に注目していたことが分かる。」(『みことばの光』7月号より)
今日から読むのはこの「約十章」(9:51~19:48)。8月19日(水)まで一カ月、ルカの福音書から学びます。
 今日の聖書日課は、このことばで始まります。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」(51)
まさに三年間のガリラヤ伝道に区切りをつけて、イエスがエルサレムに行く決心をしたことがわかります。「天に上げられる日」とは、昇天のこと。イエスはわかっていました。エルサレムに行き、十字架に架かり→復活し→昇天されることを。イエスが御顔をエルサレムに向けたとは、彼が「腹をくくった」ことを表わしています。
 エルサレムに向かう途中、イエスはサマリアを通って行かれました。昨日まで列王記で学んだあのサマリアです。イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人は仲良くありませんでした。
南ユダと北イスラエルだから、ということではありません。昨日読んだように、アッシリアに滅ぼされたサマリアには多くの外国人が入ってきました。サマリアには雑婚があり、主を礼拝するといっても多くの異教的要素が入っていました。純血を標榜するユダヤ人たちは、このようなサマリア人を軽蔑し、サマリア人もまたユダヤ人を憎んでいました。今日の箇所でサマリアに入ったイエスが、「御顔をエルサレムに向けて進んでいたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。」(53)
とあります。そりゃそうだろうと思います。サマリアに来たのに、サマリアの町、人々には目もくれずエルサレムを見つめ続けているのですから。「おまえたちなど眼中にない」と言いたいのか?イエスもサマリア人に対してはステレオタイプのユダヤ人なのか?しかし、この状況を見て、「主よ。私たちが天から火を下して、彼ら(サマリア人)を焼き滅ぼしましょうか?」(54)
と問いかけるヤコブとヨハネ兄弟に対してイエスは叱られました。福音書においてイエスが「叱る」ということは、数少ないことでした。しかし、たとえイエスがサマリア人を滅ぼすことを考えていなかったとしても、なぜ彼はあえてサマリアに行かれたのか?サマリア人を無視しているような態度を示すために、そしてサマリア人に拒絶されるために、わざわざそこを通って行かれたのか?このイエスのサマリア行きにはどんな意味があったのでしょう
か?
 ありました。やがて十字架に架かり、復活されたイエスは、昇天される直前、弟子たちにこう言われました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
福音はエルサレムから「はねかえって」、もう一度サマリアにやってくるのです。かつて自分たちが拒絶したイエスは、死んでよみがった救い主である。その福音です。再びこの福音がやってきたとき、サマリア人たちはこの出来事を思い返すのです。イエスはエルサレムに顔を向けられ、見つめ続けられました。しかしサマリア人を無視していたのではありません。彼は、これから行こうとしているエルサレム、その向こうにあるサマリアを見つめておられたのです。

 こんにちは。
 今日は日が照っていますね。暑くなってきました。午前は英会話クラス。ジェームズ・モナと子どもたちの歌声が響いていました(もちろん英語の歌)。
 明日は主の日。礼拝を主にある交わりを喜び楽しみましょう。

 シャローム 純人

--------------------------------------
 7/17

こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた。 Ⅱ列王17:28

 アッシリアによって滅ぼされた北イスラエル王国。首都サマリアにいた民は捕囚となり、空になったサマリアの町々にはアッシリアが征服した国々の人々が移住してきました。そのときのことです。
「彼らはそこに住み始めたとき、主を恐れなかったので、主は彼らの中に獅子を送り込まれた。獅子は彼らの何人かを殺した。」(25)
偶然ではありません。これは主がされたこと。主を知らない人々ですが、彼らはアッシリアの王に報告しました。これは入ってきた民がこの土地の神についての慣わしを知らないからだ、と。アッシリアの王は北イスラエルの祭司の一人をサマリアに送って、彼らの神(主のこと)についての慣わしを教えさせるよう命じました。これに続くのが冒頭の聖句。結果、獅子はもう出てくることはなかったようです。しかし、
「しかし、それぞれの民は、それぞれ自分たちの神々を造り、サマリア人たちが造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分が住む町々でそのようにした。」(29)
サマリアの町々は偶像のデパートと化してしまったのです。聖書記者はこう説明します。
「彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは主を恐れることなく、主がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。」(34)
国々の民は主を礼拝していましたが、そこに主への恐れはありませんでした。かたちだけの礼拝であり、みことばを聞いて主に従うということがなかったのです。そしてそのような生き方は、彼らの子たち、孫たちにも引き継がれていったのです(41)。
 主は人々に、ただ主だけを恐れ、礼拝し、ほかの神々を恐れてはならない、礼拝してはならないと言われました(34~38)。その報いは何か?
「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」(39)
「すべての敵の手」から救われるのです。しかし彼らは、獅子のわざわい、一時的な苦しみが去ると、かたちだけは残すものの主を恐れ礼拝することをやめてしまいました。
 なぜこのようなことになったのか?その理由が冒頭の聖句に示されています。「サマリア
から捕らえ移された祭司の一人」とはどんな人物か?祭司です。しかし、その祭司とはどんな祭司か?北イスラエルの祭司です。みなさん覚えていますか?かつてヤロブアムが金の子牛をベテルとダンに安置したときのことを。
「それからは彼(ヤロブアム)は高き所の宮を造り、レビの子孫ではない一般の民の中から祭司を任命した。そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。」(Ⅰ列王12:31~32)
南ユダから見れば、北イスラエルの祭司は「偽物」でした。レビの子孫ではないのですから。これらの祭司たちは初めから金の子牛にいけにえを献げました。それがエジプトから彼らを連れ上ったもの、すなわち主を表わしていたとしても、明らかに十戒の第二戒「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」(出エジプト20:4)に対する違反でした。昨日の聖書日課、滅ぼされた北イスラエルについての「まとめ」にはこのように記されています。
「(北イスラエルの民は)彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕え
た。」(16)
金の子牛というのは、それで終わらなかったのです。それに続けて異国の、異教の神が、天の万象が礼拝の対象となりました。それから200年間、北イスラエルの人々は、「ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかった」のです(22)。
この国の祭司なのです。彼が教えたのは主への礼拝でしたが、そこ(ベテル)には金の子牛があり、他の神々があったのです。これを見て聞いた人々(入植された人々)は、「ああそうか、そうやって礼拝するのか」と思ったことでしょう。彼らが主を礼拝しながら、自分たちの神々を礼拝したのは、当然の成り行きだったのです。
 私たちは祭司ではありません。しかし私たち一人一人を通して、その姿を見て、人々は神さまを礼拝することを学ぶのです。恐ろしいことです。「私はこんなんじゃない」と思いたいですが、この祭司のような弱さや罪深さがあります。ならばどうすればよいか?悔い改めるのです。あわれみ深い主に立ち返るのです。そのたびそのたび。私たちが人々に見せることのできるのは、悔い改め、主に変えられ続けるその姿なのです。

 こんにちは。
 次主日のお知らせ。7月17日(日)は、午前7:30、午前10:30より主日礼拝をお献げします。コロサイ2:16~23「偽物の特徴~思い上がり~」。午前8:45からはCS(幼小科)、9:15からは中高生会が行われます。礼拝後は日曜婦人会。栗原弥希姉が証しをします。また中高生会スタッフミーティングもございます。神さまを礼拝するために良い準備をしましょう。そしてこの日を喜び楽しみましょう。
 本日牧師は午後、浜寺聖書幼稚園職員礼拝でメッセージをします。先生たちの姿を通し
て、子どもたちに福音が届きますように。
 今日のバースデー。本日7月17日は中川五夫兄のお誕生日です。おめでとうございます。
五夫さんの上に、新たな一年、主の祝福がありますように。

 シャローム 純人

--------------------------------------
7/16
イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったの
で、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。
 Ⅱ列王17:22~23

 第二列王記17章で北イスラエルに関する記述は終わります。この国が滅亡したからです。
すでに北イスラエルはペカ王の時代にアッシリアに攻め込まれ、捕囚は始まっていました(15:29)。しかし本当の終わりが来ました。最後の王はホセア。その治世の第九年
(BC721年)のことです。
「ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。」(6)
首都サマリアが陥落し、さらなる捕囚が進められました。
 今日の聖書日課は、北イスラエルについての「まとめ」と言える記述。
「こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」(7~8)
ソロモンの子レハブアムの時代、統一王国イスラエルが分裂しました(BC933年)。それは、当然北イスラエルだけでなく南ユダの歩みも始まったということ。主は預言者を通して北にも南にも警告されました。悪の道から立ち返り、律法に従い、主の命令と掟を守れと(13)。しかし、北イスラエルは主の警告を蔑み、周囲の異邦の民に倣って歩みました。
「そのため主は(北)イスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から除かれた。」(18)
北イスラエルは約200年存続した後、滅亡したのです。冒頭の聖句はこれらの「まとめ」の「結び」の文章。
 ヤロブアム。この名前を忘れてはいけません。忘れることなどできません。北イスラエル王国最初の王。彼によってこの国の進路は決定したと言っても過言でない。今まで列王記を読み進めている中で、何度もこのフレーズが出てきたことを覚えておられるでしょう。
「彼は主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた罪の道に歩んだ。」(Ⅰ列王15:34)
北イスラエルの王のほぼすべてが、まるで判を押したように「ヤロブアムに道を歩んだ」と言われています。
 ここでもう一度だけ「ヤロブアムの道・罪」について確認したいと思います。ヤロブアムの罪とは、具体的に言えば、金の子牛(の像)を造って民にそれを拝ませたことです。そして、歴代の王が受け継ぎ、民が続けたことも、この金の子牛礼拝です。この「金の子牛」。
一体ではなく二体だったのですが、この金の子牛は異国の、異教の神ではなく、主を示していたことをご存じですか?以下のとおり。ヤロブアムが北イスラエルの民に言いました。
「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」(Ⅰ列王12:28)
この「神々」が二つの金の子牛。それは「あなたをエジプトから連れ上った」もの。そう、
主を表しているのです。しかしヤロブアムはなぜ、こんなことをしたのか?その理由こそが彼の罪でした。以下のとおり。
「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国(北イスラエル)はダビデの家(南
ユダ)に帰るだろう。この民が、(南ユダの都)エルサレムにある主の宮(神殿)でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』」(Ⅰ列王12:27)
この気持ち、よくわかります。たしかに神殿はエルサレムにあるのですから。しかし、ヤロブアムは信じなければななりませんでした。何を?主のことばを。
「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」(Ⅰ列王11:38)
目に見える状況がどんなあやういと思えても、彼が主を信頼し、その命令を守るなら、主はヤロブアムの王国を建て上げられるのです。しかし、それができなかった。不信。これこそが、ヤロブアムが金の子牛を造り、民に拝ませた理由であり、彼の根本的な罪でした。
 偶像礼拝とは、不信(主を信じないこと)の結果であり、主ではない目に見える何かを信じることなのです。悔い改め(立ち返ること)とは、この自分の不信の罪を認め、改めて主なる神を信頼するということなのです。

 こんにちは。
 雨がやんで日が照っていますが、風が気持ちよく吹いているお昼です。本日は午後に英会話クラスがございます。先週から再開しましたが、新しい方も加えられています。今日もジェームズ・モナご夫妻を中心に、みなが楽しく英語を話し、心を通わすことができますように。本日、牧師は夕方「ラヂオきしわだ」の番組「バイブルスタディ」の収録に行きます。駅前の道路の向こう側にあるスタジオで録音します(めっちゃ近い!)。30分番組で、20分以上がメッセージです。聖書のみことばを語り、教会の案内もしっかりやってきます!放送日は8月の予定。ちなみにこの「バイブルスタディ」。毎月第一日曜日は鍛冶兄が担当されています。FM79.7。日曜日の朝8時からです。みなさんもぜひ、お聴きください。これを聴いた方が、その日の10:30の礼拝においでになりますように。
シャローム 純人

--------------------------------------

7/15

こんにちは。
 本日、午前に行われた祈祷会で、分かち合われたこと、語り合ったことは、以下の通りです。

 Ⅱ列王16:1~20
 南ユダ王アハズの話。
・「主の目にかなう」ウジヤ(15:3)、その子の「主の目にかなう」ヨタム(15:34)。
その子のアハズなのになぜ、「主の目にかなうことを行わなかった」(2)のでしょうか?
・アハズは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに言いました。
 「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。」
(7)。本来なら、まったく同じことをアハズは主に言うべきでした。アハズはなぜ、主に
ではなくアッシリアの王にこのように言ったのでしょうか?
・主に頼ることなくアッシリアを頼みとし、それでいながら、
「私は求めません。主を試みません。」(イザヤ7:12)
と一見信仰深そうなことを言うアハズ。けれどもイザヤはアハズの心を見抜いてこう言います。
「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。」(13)
そして、あのことばを語りました。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている、そして男の子を産み、その名をインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ぶ。」(14)
「それゆえ」と言われていますが、「それゆえ」とは「なにゆえ」でしょうか?

 こんにちは。
 晩の祈祷会は7:30からです。神さまのみことばを聞いて元気になって週の後半に向かっていきましょう。
 午後8:00からは、中高生会オンラインミーティングも行われます。テスト期間に入っている子どもたちもいます。祈りつつ、勉強がはかどりますように。

 シャローム 純人

--------------------------------------
2020年7月12日(日) 主日礼拝
コロサイ2:1~15 「本物を見よ!」

偽りの教えの存在 

2章に入り、パウロはこの手紙を書いた中心的な目的に触れていく。その目的とは偽りの教え、異端的な教えからコロサイの、あるいは近隣のラオディキアの教会の聖徒たち、まだパウロと会ったことのない人たちを守るためであった(1)。偽りの教えとはどんなものか?
今日の聖書箇所から拾ってみると…。「まことしやかな議論」、「あなたがたを惑わ(4)、「あの空しいだましごとの哲学」、「だれかの捕らわれの身になる」、「人間の言
い伝えによるもの」、「この世のもろもろの霊によるもの」(8)。いろんな言い方をしているけれど、それはまとめて言えば「キリストによるものではありません」(8)。キリストによるもののように見えてそうではない。ここで言われている偽りの教えとは異教ではなく、異端。キリスト教のようでそうではない教え。教会の外ではなく中にあった問題。

本物を見よ!

それで「キリストによるものではない」教えとは何か?「キリストでは足りない」ということ。昔も今も異端とはそういうものである。キリストも大切だけど、それだけでは救われない。議論が必要、哲学が必要、言い伝えが(それを守ることが)、もろもろの霊が、割礼が、儀式が必要なのだ、と言う。しかし、パウロはそれらを否定することよりも、偽物を必死に示すのではなく「本物を見よ!」と激しく迫った。今日の聖書において「キリスト」はどのくらい登場するか?(1章の「御子」同様、原文では代名詞「彼」で受けていることばもあるが)。「キリスト、これで十分、足りないものはない」ということを念頭において確かめよう。1節にはない。しかし2節「神の奥義であるキリスト」、3節「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」4節は偽りの教えのことについてだから、キリストは出てこない。でも5節「キリストに対する堅い信仰」。以降、6~15節まですべての節にキリストが登場する。14節は出てこないけれど、「十字架」とはキリストの十字架のこと。
キリストを、本物を見つめ続けるとき、偽物がわかってくる。私たちはみことばを本物を、学び続けるときに、偽物をはっきりと見極めることができるのだ。

  純人

--------------------------------------
7/11
 「あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」 Ⅱ列王14:10

 今日の聖書日課は、南ユダの王アマツヤのお話。彼の父はヨアシュ。そう、祭司エホヤダが生きているときは主の目にかなっていたけれど、エホヤダの死後、自分を拝むリーダーたちに流されて偶像に仕える者となった人(Ⅱ歴代24章)。同じようにその子アマツヤの治世も、前半と後半に分けることができます。
 前半について。アマツヤはエドム人と戦って勝利しました(7)。歴代誌は、この出来事について詳しく述べています(Ⅱ歴代25:5~13)。初めアマツヤは、この戦いに際して隣国北イスラエルから10万人の勇士を銀百タラントで雇いました。しかし、「神の人が彼のもとに来て言った。『王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせては
なりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです。』」(Ⅱ歴代25:7)。
主に対して不信仰な北イスラエルを中に入れるな、ということです。アマツヤは神の人に言いました。
「では、イスラエルの部隊に与えた百タラントはどうしたらよいのか?」神の人は答えます。
「主は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます。」(Ⅱ歴代25:9)
アマツヤは信仰による決断をしました。高い金を払って雇った北イスラエルの部隊を帰しました。切り離された北イスラエルの兵士たちは、激しく怒り、南ユダの町々を襲い、三千人を打ち殺し、多くの物を略奪しました(Ⅱ歴代25:10、13)。しかし、アマツヤ自身は金で雇った軍隊ではなく、信仰により、主の力によってエドムに勝利したのです(Ⅱ歴代25:11~12)。
 けれども後半。アマツヤはエドム人を討って帰った後、彼らの神々を持って来て、それらを自分の神々として立て、その前で伏し拝み、犠牲を供えました(Ⅱ歴代25:7)。なぜこんなことをしたのでしょうか?自分を負かした相手の神々ではなく、自分が倒した相手の神々です。聖書はその理由については記していません。主は預言者を送ってアマツヤに警告しますが、アマツヤはこれを退けました(Ⅱ歴代25:15~17)。その後、Ⅱ列王記、今日の聖書日課が記しているアマツヤ(南ユダ)とヨアシュ(北イスラエル)の戦いとなります(8~14)。結果から言うと、北イスラエルの大勝利。仕掛けたのはアマツヤでしたが、彼は惨敗したのです。この戦いの前に、北イスラエルのヨアシュ王がアマツヤに語ったことばが冒頭の聖句。ヨアシュはアマツヤの心が高ぶっていることを指摘しました。自分には戦う気がないことを語りますが、高ぶっていたアマツヤはこれを聞き入れず、両者は戦いに突入しました。その結果が北イスラエルの圧勝。
 アマツヤの高ぶりはどこから来たのでしょうか?エドムに対する勝利?それもあったでしょう。しかし、エドムに勝利した後、エドムの神々を持ち込んだこと、それがこの高ぶりの原因となりました。他の神々に心を向けるということが、アマツヤが主の前にへりくだることから遠ざけたのです。主の前にへりくだらないこと、それが高ぶりなのです。

 おはようございます。
 今週から再開した「英会話クラス」。土曜日は子どもクラス。今日もジェームズ・モナご夫妻が、楽しく教えておられます。笑い声が牧師室まで届いています。主の恵みが今日も子どもたちに届きますように。
  シャローム 純人

--------------------------------------
7/10
神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討
つことになる。」 Ⅱ列王13:19

 13章は北イスラエルの話。エフーの子エホアハズ王(1)、エホアハズの子ヨアシュ王のことが記されています。しかし今日の聖書日課には、もう一つ大きな出来事が記されていま
す。預言者エリシャの死です(20)。また今日の聖書日課にはエリシャが死ぬ前の、当時の北イスラエル王ヨアシュとエリシャの対話が記されています。エリシャはヨアシュ王に二つ
のことを命じました。一つは東側の窓から矢を射ること。その意味は?
「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢、あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」(17)
もう一つは矢を地面に打つこと。ヨアシュは三回打ちますが、それでやめました(18)。
これに続くのが冒頭の聖句。一つ目の命令のことを考えれば、地面に矢を打つ意味はわかっていただろうに、なんで三回でやめるのか!?エリシャの怒りのわけはここにありました。こ
こでヨアシュ王とエリシャの対話は終わり、直後にエリシャが死んだことが述べられます(20)。
そしてヨアシュはエリシャが自分に語ったとおりアラムを三度打ち破ってイスラエルの町々を取り返しました(25)。
 しかしよく考えると、あのヨアシュとエリシャの対話は変ではないでしょうか?エリシャが死の病をわずらっていることを知り、ヨアシュはエリシャのところにかけつけるのです
が、そこで「わが父、わが父、イスラエルの戦者と騎兵たち」(エリヤが天に挙げられるとき、エリシャが言ったのと同じことば(2:12))
と叫ぶのですが(14)、ここでエリシャは彼を無視してもおかしくないはず。ヨアシュは父エホアハズ同様「主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべて
の罪から離れず、なおそれを行い続けた。」(11)
そういう王です。首都サマリアには父が立てたアシェラ像がありました。しかしエリシャはまともに対応し、あの二つの命令をし「不徹底だ!」とヨアシュを叱りました。相手しない
で当然のヨアシュ王に対し、エリシャが向かっていったのはなぜか?ヨアシュが主を知るためです。戦いによって主の力を知るためです。王が頼るべきは主であることを知るためでし
た。
 神さまは従順な者だけでなく、不従順な者に対しても向き合い、チャレンジを与えられます。そのことによって、不従順な者が従順になるためです。神さまはこの私が、今、ご自身
を知るために、今日もみことばを語られるのです。
シャローム 純人

--------------------------------------
7/9
ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。
 Ⅱ列王12:2

 主を恐れる祭司エホヤダとその妻エホシェバ(Ⅱ歴代22:11)。また、その仲間たちの祈りと忍耐と信仰による決断・行動によって、再び南ユダに主に油注がれた王ヨアシュが立てられました(11:12)。ヨアシュが即位したのは7歳のとき(11:21)。この幼い王を教え導いたのは祭司エホヤダでした。冒頭の聖句のとおり。12章は①ヨアシュ王がエホヤダが教えていた間に主の目にかなったことを行ったこと一つ(4~16)、②エホヤダが死んでしまってから(Ⅱ歴代24:17)ヨアシュが主の目にかなわないことをしたこと一つ(17~18)が記されています。
 ①について。ヨアシュは主の宮(神殿)の修復工事をしました。初めヨアシュは祭司たちに、民の献げ物の中から神殿修復のためのお金を取り分けるよう指示しました。しかしこの方法では修復のためのお金はたまらなかったようです。祭司たちを養うのに手いっぱいで、神殿のために使うお金がなかったと思われます。そこでヨアシュは考えを変えました。「指定献金」を募ったのです。すなわち献げられたお金はすべて神殿修復のために使うことを民に告知したのです(12)。民はこれに応え、神殿修復のために多くの献げ物をしました。修復は成功しました。なおかつ祭司たちの生活も守られたようです(16)。このヨアシュの方向転換にも、祭司にして教師であるエホヤダが関わっていたことがわかります(9)。
 ⓶について。エホヤダが死んだ後のことです。アラムの王ハザエルが南ユダの都エルサレムを攻めに来た時、ヨアシュは、
「自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」(18)
強い相手をいなすための一つの知恵である、とも言えます。しかし主に献げられた物、聖別された物をこのように取り扱うのは、主の目にかなうことではありませんでした。歴代誌にはエホヤダの死後、南ユダに起こった大きな出来事が記されています。
「エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを受け入れた。彼らは父祖の神、主を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。」(Ⅱ歴代24:17~18)
どうしてこんなことになったのでしょうか?首長たちは自分たちの意のままに王を動かすために彼を「伏し拝みました」。しかし礼拝する心などありません。最も大きい責任はヨアシュ王にありました。王は首長たちのこの振る舞いを退けるべきだったのです。いったいこれまでのエホヤダの教えは何だったのか?と思います。ヨアシュは結局「人の言うことを聞いていただけ」でした。
 7歳で王になり、それ以来絶えずヨアシュを教え、励ましたエホヤダ。それは、王がひとり主の前に立ち、主のみこころを知り、主に従い仕えるためでした。しかし結果は、大変残念なことになりました。このような出来事があった後、いや、このような生き方を選び取った結果が、あの主への献げ物を自分の都合の良いように使うということだったのです。
 「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」
エホヤダが死んだ後、ヨアシュがいつも主の目にかなうことを行う、主への信仰によって主体的にみこころに従う、そのために、ヨアシュはエホヤダに教えを受け続けたのです。
シャローム 純人

--------------------------------------
7/8
こんにちは。
 本日、午前の祈祷会で分かち合われたことをもとに記します。
 本文を読んだ後、以下の点に注目し、もう一度本文を読んでください。読んで考えてみてくださいね。

Ⅱ列王11:1~21
①アタルヤが王の一族を全員滅ぼしたのは、北イスラエルではエフーがバアルを根絶やしにし(10章)、その「波」が南ユダに来るのを防ぐためでした。アタルヤはアハブの娘でした
(8:18)。アタルヤは南ユダにおけるバアル礼拝を死守しようとしたのです。
②しかし一人だけ、殺されずに守られた人がいました。幼子ヨアシュです。最終的にこのヨアシュが、アタルヤに代わる王となります。ヨアシュを守ったエホシェバと、かくまってか
ら七年目にヨアシュを王にした祭司エホヤダの関係は?(Ⅱ歴代22:11)。
長い間、この二人の間において積み上げられた祈りを思い巡らしましょう。
③4節を読んでください。エホヤダが百人隊の長たちに7歳のヨアシュを見せ、彼を王にするということは、大きな「賭け」でした。長たちが、これまでどおりアタルヤについたな
ら、自分が殺されるのです。しかし、エホヤダは信仰によって決断し、行動に出ました。
結果、バアルではなく、心の中では主を礼拝していた長たちは主の宮において契約を結び、ヨアシュを王としました。

 晩の祈祷会は午後7:30からです。みことばを学び、聖霊に満たしていただき、祈りを献げましょう。
 午後8:00からは中高生会オンラインミーティングもございます。主の恵みが分かち合われますように。スタッフの働きを感謝します。

 シャローム 純人


--------------------------------------
7/8
 しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。 Ⅱ列王10:31

 「ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。」(Ⅰ列王19:17)
かつて預言者エリヤに語られた主のことばは、人間の理解を超えて成就しました。エリヤの時代ではなく、後継者エリシャの時代にハザエルは登場し(8章)、そしてエフーも登場します。エフーについての記述が9~10章です。北イスラエル王ヨラムの家来であったエフーは、あるとき、エリシャに遣わされた預言者によって油を注がれます(今週の説教を思い出してください。任職です)。王ではないけれど、王に任命されたのです。ハザエル同様、エフーも自分の主君に謀反を起こしました。エフーはヨラム王の胸を射抜き(9:34)、ヨラムとともにいた南ユダ王アハズヤにも傷を負わせ、アハズヤも死にました(9:27)。続いてエフーはアハブの妻イゼベルを殺します(9:30~37)。それで終わりません。エフーはサマリアにいたアハブの子ども70人すべてを殺しました。昨日の聖書日課は読んでいて気分が悪くなった方もいると思います。しかし、こうしてかつて主がエリヤを通してアハブに語られたみことばが成就したのです。
「今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童(こわっぱ)から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、」(Ⅰ列王21:21)
 今日の聖書日課は、まだまだ続くエフーの「根絶やし」。アハブの子孫のあとは、アハブが慕っていた偶像バアル、その預言者たちです。エフーは、自分はアハブよりもさらに熱心にバアルに仕えるつもりだ、と嘘をつき、バアルの預言者を一人残らずバアル神殿に集め、それを確認するやいなや家来たちに彼らをすべて討ち取らせました。
「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。」(28)
エフーは主のことばに徹底的に従いました。しかし聖書はまた、エフーの別の一面も記します。
「ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。」(29)
なぜ、エフーは金の子牛礼拝から離れなかったのでしょうか?その理由が冒頭の聖句にあります。
「しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、」
エフーは、かつてエリヤに語られた、またエリシャに受け継がれたアハブ家に対する主のことばに忠実に従いました。しかし、日々の歩みの中で、主の律法、主のおしえ、そのみことばに歩もうと心がけることがなかったのです。ゆえにエフーは、それまで北イスラエルの民が続けていた金の子牛礼拝から離れることができなかったのです。その結果、主はエフーを含めて四代までの王権を約束されました。つまりその後は王は途絶えるということ(30)。
 「熱心な信仰」を私たちは求めます。特別なことに熱心に取り組みます。しかし大切なのは「歩み」。歩くこと。毎日の平凡と言える歩み。そこにみことばがあるかどうか。みことばで教えられ、みことばに従っているか?私たちの信仰の姿勢は、このような地味な歩みの中で徐々に確立されていくのです。
 主のみことばに歩みましょう。

 おはようございます。
 牧師就任式のお知らせ。次主日7/12(日)午後3:30より、岸和田聖書教会礼拝堂で、栗原純人牧師就任式が行われます。司式を福音交友会会長で京都聖書教会牧師の閨谷欣也師がしてくださいます。就任式では、牧師と信徒がそれぞれ主の前に誓約するときがあります。
本日、午後にお送りするプログラムと誓いのことば(当日も印刷物を配布します)をよく読んで式に臨んでください。
 明日は水曜日。午前10:30、午後7:30から祈祷会が行われます。明日は今日の続き、列王記第二11章を読み、学びます。久しぶりに南ユダ王国のお話です。みことばに期待して集まりましょう。

 シャローム 純人
--------------------------------------
7/6
2020年7月5日(日) 主日礼拝
詩篇2:1~12 「幸いな人~その3 すべて主に身を避ける人~」

詩篇を貫くメッセージ~幸いな人~

詩篇1篇、2篇は、詩篇の序論のようなものだと言われている。これから150篇まで続く詩の基礎であるとも言える。これから始まる詩を読むときに覚えておくべきことがここに記されている。注目すべきは「幸い」。1篇は「幸いなことよ」で始まり、2篇は「幸いなことよ」で終わる。1篇の「幸いな人」は、「こうではない」という言い方であるならば1節「悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」。「こういう人」という積極的な言い方であるならば2節。「主のおしえを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ(思い巡らす)人」。1篇の「幸い」は、主のおしえ、すなわちみことばにある。
では2篇の「幸い」は?「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」(12)。幸いは主にある。幸いな人とは、①神が語られ、記されたみことばを喜んで聞き、黙想し、口ずさむ人であり、②また幸いな人とは人格である「主」に身を避ける、頼る人。「みことばと生ける主」。これが150の詩篇を貫く、いや聖書全体を貫くテーマである。

主に油注がれた者とは?

ところで、2篇の最後で「主」と言われている、これはだれか?2節を見ればわかる。「なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか 主と 主に油注がれた者に対して。」(2)。12節の「主」は2節の「主」ではなく、同じ2節の「主に油注がれた者」。これはヘブル語で「メシア」。ギリシャ語の聖書では「キリスト」。「何?キリスト?じゃあイエスさま?」。これに対する答えは二つ。一つは「違います」。もう一つは「そのとおり」。
「違います」について。油注がれた者とは、旧約時代の王や祭司や預言者のこと。任職のときに油を頭に注ぐ儀式をした。この2篇では、実際に存在したイスラエルの王(だれかは確定できないが)。「主と 主に油注がれた王」ということ。2篇はその時代の出来事を語っている。主と主に油注がれた王に向かって、国々(外国)の王たちが背く。これに対する主のさばきが語られているのが詩篇2篇。その方法は?油注がれた王である。4~6節を見るとわかる。この王はどんな人か?王自身が語っていることばを聞こう(7~9節)。このお方は、主なる神の「子」と呼ばれる。そして力の強い恐ろしい王(9)。10~12節は、主に背く外国の王たちへのことば。警告とも言えることば。「恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ震え、子に口づけせよ。」(11)。再び「子」ということばが出てくる。この力ある恐ろしい王の前にへりくだるようにという勧め。12節の「主」は原文では「彼」すなわち11節の「子」。
「彼が怒り、おまえたちが道で滅びないために。御怒りが、すでに燃えようとしているからだ。」(12)。「幸いなことよ すべて彼(原文)に身を避ける人は」(12)。この力ある王、恐るべき王に身を避けるのはなんと幸いか。

幸いな人~すべての主イエスに身を避ける人~

先ほどの質問。「メシア?キリスト?じゃあイエスさま」のもう一つの答え。「そのとおり」。使徒4:25~28。詩篇2篇の「主に油注がれた者」とは、その当時、神が立てられた王であり、またその後にあらわれるメシア:キリスト:イエスのことである。旧約聖書の預言の中には、預言者の目の前にいる人々に語られ、預言者も知りえない未来に向けて語られた、そういうものが少なくない。
私たちは今日、新約の時代に生きる者として、このみことばを味わいたい。
「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」このお方、キリストであるイエスは、力で敵を倒さなかった。ご自分の死とよみがえりによってまことの敵であるサタンを滅ぼされた。だから使徒4:29~30。人を救うみことばと人を救う不思議。
また、このみことばは、私たちの救いを確信させてくださる。なぜなら、神への背き、罪を完全にさばかれる、神の子。恐ろしいお方が、その罪の罰を受けてくださったのだから。さばき主が救い主となってくださった。私たちが罪の赦しを、救いを疑う余地はこれっぽっちもないのである。ヨハネ8章。唯一、石を投げることのできるお方が、彼女の身代わりに石打ち、いや十字架にかかってくださった。

幸いな人。神のことばを聞き、黙想し、口ずさむ人。
幸いな人。すべて主イエスに身を避ける人。
みことばと主。みことばと主。いつも、どんなときにも、ここに帰り、ここから始めて行こう。

 こんにちは。
 土曜日は水谷渡・ひかりご夫妻の結婚式、日曜日は主日礼拝と、喜びと感謝の礼拝がささげられました。主の御名をあがめます。結婚式のために祈り、奉仕してくださったみなさんに感謝します。水谷ご夫妻の新たな歩みに主の恵みが豊かにありますように。

 シャローム 純人

--------------------------------------
7/4

 預言者エリシャは預言者の仲間たちの一人を呼んで言った。「腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。そこに行ったら、ニムシの子ヨシャファテの子エフーを見つけなさい。家に入って、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、 Ⅱ列王9:1~2

 かつて主はエリヤに、こう言われました。
「主は彼に言われた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。』」(Ⅰ列王19:16~17)
 油を注ぐ、とは任職のしるし。みなさん、これを読んでエリヤが油を注ぐ順番は、どのようだと考えますか?ハザエル→エフー→エリシャ。文脈を見ても、そう考えるのが普通だと思います。しかし、実際はそうではありませんでした。このことばの直後に、エリヤはエリシャに会い、自分の外套をエリシャにかけました(Ⅰ列王19:19)。以来、エリヤはエリシャを連れまわったと考えられます。では、ハザエル、エフーは?出てきません。エリヤの物語を最後まで追っても、この二人の名は登場しないのです。しかし今日の聖書日課に。出てきました。ハザエル!当時、アラム王の家来であったハザエルにエリシャが言いました。
「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」(13)
これを聞いたハザエルは主君であるベン・ハダドを暗殺し、自ら王となりました(15)。
 エフーは?明日の聖書日課になりますが、出てきました。冒頭の聖句。続きはこうです。
「油の壺を取って、彼の頭の上に油を注いで言いなさい。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする。』それから、戸を開け、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」(9:3)
このことばのとおり、預言者仲間の一人が、当時、北イスラエル軍の一隊の隊長であったエフーに油を注ぎイスラエル王に任命しました(9:6)。当時の北イスラエルの王はヨラムであったにもかかわらず。
 もう一度、主がエリヤに語られたことばを記します。
「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。」
これは、そのとおりになったのでしょうか?なっていません。エリヤはハザエル、エフーに会えませんでした。ただエリシャに会って、自分に代わる預言者としただけです。しかし、そのエリシャが、エリヤが昇天した後、ダマスコに行き、ハザエルを王に指名しました。また、エフーはエリシャではなく、エリシャの預言者仲間の一人に油を注がれました。
 あの主のエリヤへのことばは、そのとおりになったのでしょうか?なったのです。順番も違えば、それに携わる人も変わっています。が、主が立てられた計画はそのとおりになったのです。はじめにエリヤが主のことばを聞いた時、彼にできることは、エリシャに会いに行き声をかけることでした。エリヤは最後までハザエル、エフーに会うことすらできませんでした。しかし、おそらくエリヤはエリシャに、ハザエル、エフーを、それぞれアラムと北イスラエルの王にする、という主の命令を伝えたことでしょう。そしてエリシャはハザエルを王に指名し、エフーに対しては、自分は行けないけれど、仲間の預言者を遣わして主の命令どおり油を注ぎました。
 結局、ハザエル・エフー・エリシャの中で、「エリヤが」「油を注いで」任職した人は、一人もいませんでした。しかし、主が立てられた計画・そのみことばは、ことごとく成就したのです。
 このことから教えられること。それは、神さまが一人の人に語られたみことばは、多くの人をとおして成就するということ。順番や方法が違うように思えても、みことばは語られたお方の、こころのままに成し遂げられるのです。そして、みことばを聞いた、受けた人は、今、自分ができることをすぐに行う。自分ができなくても、次の世代に語り継ぐ。次の世代もまた、みことばを受けて、自分のできることをする。そのようにして、みことばの、神の計画の全体像が表れていくのです。 
みことばに従う。しかし、その従い方があるのです。私がすべてやるのではない。もちろん、今、自分がなすべき責任を果たします。けれど大切なことは「私の働き」ではなく、「私たち」を通してなされる「主の計画の実現」です。「御名があがめられますように」。
これが、あなたの優先順位の最初に来ていますか?

 おはようございます。
 雨が降っています。今日は涼しいですね。次主日のお知らせ。7/5(日)は午前7:30より早朝礼拝、午前10:30より礼拝がございます。詩篇2:1~12「幸いな人~その3 すべて主に身を避ける人~」。午前8:45から教会学校(幼稚科・小学科)、9:15から中高生会が行われます。午後1:30からは執事会。主を礼拝するために、今自分のできる準備をしましょう。
 そして明日4日(土)は午後2時より、教会礼拝堂で水谷渡兄・吉澤ひかり姉の結婚式が行われます。明日は晴れの予想。みなさん、ぜひいらしてください。主を礼拝し、お二人を祝福しましょう。水谷家・吉澤家のみなさんを喜んでお迎えします。
 明日のブレッド・オブ・ライフはお休みします。次回は月曜日です。

 シャローム 純人

 

2020年07月31日