ブレッド・オブ・ライフ 08

 


8/29

 実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。 Ⅱ列王24:3~4

 列王記も、もうすぐ終わります。今日の聖書日課24章、そして25章で終わります(月曜日まで)。ユダの王は、エホヤキム→エホヤキン→ゼデキヤと変わっていきますが、みな、「彼は、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行った。」(23:37、9、19)と言われています。
エホヤキムの時代にバビロン捕囚が始まり(BC606 Ⅱ歴代36:6)、エホヤキンもバビロンに引いて行かれ(15)、ゼデキヤの治世においてエルサレムは陥落し、南ユダ王国は滅びました(BC586 25:1~7)。冒頭の聖句は、まだエルサレムが陥落する前のこと。エホヤキム王が主によって遣わされた外国の勢力によって攻められたことについての記述。何度も言いますが、マナセ王だけが悪かったのではありません。イスラエルの罪がマナセにおいて頂点に達したということです。

「主は赦そうとはされなかった」
重たいことばです。赦そうとはされない主が、最終的にエルサレムを滅ぼされたのです。こうして列王記は終わります。と言いたいところですが、なんと列王記は、このように終わります。長いですが全文、記します。
「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて37年目の第12の月の27日、バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。」(25:27~30)なんということでしょう。突然の出来事。しかも絶望の地から一気に引き上げられるという経験。その背景や理由などは書かれていません。ただ、投獄されていたエホヤキン王が釈放され、それだけでなく、その後、彼がバビロン王によって一生保護されたという話。これで本当に終わり。とても不思議です。ちなみに歴代誌はどのように終わっているかというと、ユダの民がバビロン捕囚からの解放されたこと、バビロンを倒したキュロスがユダの民に語ったことばで終わります。

「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。
あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神、主がともにいてくださるように、その者は上って行くようにせよ。』」(Ⅱ歴代36:23)
バビロン捕囚が70年と預言されていたにせよ、やはり、これは突然の出来事。絶望からの回復。
 この時代のイスラエルの歴史は、罪深い主の民が徐々に力をなくし、やがて滅んでいく。
しかし急に息を吹き返していく。そういうものでした。それは、死者の復活を表しています。イスラエルの罪を赦されない主が、民を滅ぼした後、再び国を再興するのです。
 それは、人間の罪を負われたイエス・キリストの十字架の死と三日目のよみがえり。そしてもう死ぬことのないキリストとともに歩むいのちを表わしているのです。これが、すべての人の救いなのです。

 おはようございます。
 明日は主の日。昨日、お知らせしたとおり、礼拝を献げます。よみがえられたイエスさまを、みなでお迎えしましょう。礼拝は、10:30より。早朝礼拝(7:30)もお勧めします。
また、オンラインでも礼拝することができます。私たちの歩みにも復活のいのちが豊かに現わされる一日でありますように。
 今日も英会話クラス。子どもたちの元気な声が響き渡っています。ジェームズ・モナご夫妻のお働きを感謝します。

 シャローム
 純人

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8/28

彼は、すべての先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行った。 Ⅱ列王23:32

 発見された律法の書により「宗教改革」を行ったヨシヤ王。しかし、「それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、主はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。」(26)
マナセ一人が悪かった、ということではありません。それは出エジプト以来、積み重ねられたイスラエルの罪のゆえでした(21:15)。ヨシヤの最期というと、彼はエジプトとの戦いで戦死しました(29~30)。そして、ヨシヤの後を継いだのがその息子エホアハズでした。
冒頭の聖句は、エホアハズについてのくだり。「またか」と思います。あの父にこの子が?もう驚かなかくなった人もいるでしょう。ただ、経緯については聖書から知り、そこから学ぶことができます。
 エホアハズは23歳で王となりました(31)。ヨシヤは39歳で死に(22:1)、彼が戦死して後すぐにエホアハズが即位したならば、39歳のお父さんに23歳の息子、ということになります。ヨシヤが16歳のときにエホアハズは生まれたのです(えらい若いお父さん)。16歳といえば、それはヨシヤにとっての転機でした。「彼の治世の第8年、まだ若いころに、彼は父祖ダビデの神を求めることを始め、」(Ⅱ歴代誌34:3)
ヨシヤは8歳で即位しているので、「第8年」とは16歳のとき。そうです。まだ若い16歳のときに、彼は自覚的な信仰を持ったのです。ヨシヤは16歳で主なる神を求め始め、そのときにエホアハズを授かったのです。エホアハズの23年は、父の信仰の歴史そのものでした。それなのになぜ「主の目に悪であることを行った」のでしょうか?

 いくつかのことが考えられます。
● 父のような自覚的な信仰がなかった
生まれたときから信仰篤い父のもとにいたけれど、エホアハズにとって主とは「父の神」であっても「私の神」ではなかった。

● みことばによって生きていなかった
父ヨシヤは26歳のときに発見された律法の書を、一時的な興奮で終わらせず、その後もこの律法のことばによって歩み続けました。エホアハズもまた、この律法の書のことばを聞き続けたと思われますが、それは、ただの「良いお話」。信仰がないエホアハズにとって、それは堅苦しい自分を縛るものだったかもしれません。
そんな中で、父ヨシヤは39歳の若さで死にます。「あれだけ一生懸命やったのに、これか?」。ただでさえ主を信じていなかったエホアハズは「ダメ押し」を喰らいました。このようにして、エホアハズ王の生き方は形作られていったのです。

 やがてエホアハズはエジプト王ファラオ・ネコに捕らえられ、エジプトに連れて行かれ、そこで死にます。エホアハズの兄エホヤキムは、ファラオ・ネコによって、弟に代わる王とされますが、このエホヤキムもまた、「主の目に悪であることを行った」王でした(37)。
 ヨシヤ家から私たちが得られる教訓、それは、私たちが祈るべきは、子どもたちがみことばによって生きること。どんな嵐が吹いたとしても変わらない主の真実を、みことばの中で確信して歩めるように、祈り、働きかけること。信仰継承は神のあわれみによる、ということを押さえつつ、私たちが取り組むべきことです。

 こんにちは。
 次主日のお知らせです。8/30(日)は午前7:30、10:30より主日礼拝をお献げします。
使徒2:42~47より「交わりから生まれるもの」。午後に予定していた「交わり」についての学び会は延期となりましたが、この日のメッセージをみなさんの持っている交わりの中でぜひ、分かち合い、祈り合ってください。午前8:45からはCS(幼小科)、9:15からは中高生会が行われます。この日の午後も前週に引き続き、四教会合同礼拝のための中高生ミーティングがございます。主の臨在が豊かにありますように。

 シャローム 
 純人

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8/27
 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。こうして、彼は祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。 Ⅱ列王23:24

 ヨシヤ王は律法のことばを実行しました。なぜでしょう?それを読んだからです。どうしてそれを読んだのでしょう?律法の書があったからです。どうして律法の書があったのでしょうか?祭司ヒルキヤが主の宮で見つけたからです。それまでも律法の書はありました。
あったけれど隠れていた。その律法の書が出てきたのです。それでヨシヤは、この書のことばを聞き、衣を引き裂きました(11)。そこに記されていることと今の自分たちの現状があまりにも違っていたからです。今日の聖書日課は、まさにヨシヤが、その書物に記されている律法のことばを実行したことが記されています。

彼は、

● ユダのすべての人々に、この契約の書のことばを読み聞かせました。そして、まず自分がこの契約のことばを実行することを主に誓い、民もみなこの契約に加わりました(1~3)
● 国中の偶像とそれに仕える祭司たちを取り除きました。それは南ユダ王国だけにとどまりません。ヨシヤは、かつての北イスラエルの地にあった偶像と祭司たちも一掃しました(4~20)。
● 契約の書に記されているとおり、過越のいけにえを献げました(21~23)。過越についてはこう言われています。
「実に、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代以来、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」(22)
ヨシヤは「書いてあることをちゃんとやる」ではなく、喜びにあふれて主を礼拝したのです。

 これらすべては、律法の書を手にしたヨシヤ王によってなされたことでした。
 「みことばを実行する」。それは、みことばがあってこそなのです。神殿にうずもれていた律法の書が出てきました。あなたの聖書は今、どこにありますか?私たちは「みこころ」を求めます。それは大概、自分にとって特別なトピックについての「みこころ」です。しかし、聖書には神さまがあなたについて持っておられる「みこころ」が書かれています。聖書を読んで神さまのこころを知りましょう。神さまと豊かな交わりを持ちましょう。そのとき、私たちは「みことばを実行する」者となります。

 おはようございます。
 本日から英会話クラスが再開します。木曜は大人のクラス。土曜は子どものクラス。ジェームズ・モナ夫妻を通して、楽しく有意義な学びが続けられますように。ジェームズ兄の左目周辺部も回復しました。みなさんのお祈りを感謝します。 

 シャローム
 純人

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8/26
 こんばんは。
 午前に行われた祈祷会で語り合われたことを記します。いっしょに考えてください。だれかが近くにいたら、いっしょに聖書を開いて、読んで分かち合ってください。

Ⅱ列王23:1~20
・ヒゼキヤのような偉大な信仰者からマナセのような悪王が出てきた。なぜ?
 歴代誌を見ればマナセは主の前に悔い改めた(Ⅱ歴代33章)。それなのにその子のアモンは「その父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、このアモンは罪過を増し加えた。」(Ⅱ歴代33:23)。

なぜ?
 わからない。わからない、というのが答え。私たちが考えるべきは、常に今、自分が主の前にどうあるべきか、ということ。
● かつてヨアシュ王は7歳で王となった。しかし、「祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」(12:2)とあり、エホヤダ亡き後は、主の目にかなわなかったと思われます。一方、8歳で王となったヨシヤは、「彼は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」(2)
その生涯、主の道に歩んだと思われます。今日の聖書日課(22章)から、その秘訣は何であったと言えるでしょうか?

 晩の祈祷会は午後7:30からです。ぜひ、いっしょに祈りましょう。 なお、本日の中高生会オンラインミーティングは中止となりました。中高生たち、スタッフたちに、主の励ましがありますように。

 シャローム
 純人
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8/25
 「それは、彼らの先祖たちがエジプトを出た日から今日まで、わたしの目に悪であることを行って、わたしの怒りを引き起こしたからである。」Ⅱ列王21:15

 信仰継承とは神のあわれみを伝えることです。
 「ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(18:5)と言われたヒゼキヤ王。あらゆる偶像を取り除き、信仰により、祈りによってアッシリアに勝利したヒゼキヤ。
しかしその息子マナセは最悪な王でした。
「彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った。彼は父ヒゼキヤが打ち壊した高き所を築き直し、イスラエルの王アハブがしたように、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像を造り、天の万象を拝んでこれに仕えた。」(2~3)
なぜ、あの父からこんな息子が…。しかし聖書はその理由を語りません。ただ事実だけを述べるのみ。この時、主は預言者たちを通して語られました。これから後のことを。
「わたしは、わたしのゆずりの民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となって奪い取られる。」(14)実際にマナセの時代から約100年後、南ユダは滅ぼされたのです。マナセの悪がどんな影響を及ばしたか、その大きさは計り知れません。しかし、このことばの次に注目!冒頭の聖句です。

 主の目に悪であること。それは今に始まったことではない。マナセが始めたわけではないのです。あのモーセの時代、エジプトを脱出した日から、今に至るまでイスラエルは主の目に悪であることを行い、今に至るまで主の怒りを引き起こしてきたのです。しかし、主はその都度その都度、イスラエルとそのリーダーたちをあわれまれた。モーセやヨシュア、ギデオン、サムソン、サウル、ダビデ、ソロモン、そして南ユダの王たち。いわゆる「善王」と言われる王であっても、みな主の怒りを引き起こした歴史があります。しかし彼らはその罪深い歩みの中で主のあわれみにすがり、主を信頼したのです。信仰継承とは立派さの継承ではありません。主のあわれみを伝えるということ。

 実は歴代誌にはマナセが悔い改めたことが記されています(Ⅱ歴代誌33:10~17)。彼もまた、苦しみの中で主のあわれみにすがり、主を信頼し、救われたのです。がしかし、その息子アモンは、「彼の父祖の神、主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかった。」(22)
歴代誌はこう語ります。
「しかし、(アモンは)その父マナセがへりくだったようには、主に前にへりくだらず、かえって、このアモンは罪過を増し加えた。」(Ⅱ歴代33:23)
私たちは、ヒゼキヤ→マナセよりもマナセ→アモンの方に注目すべきではないでしょうか?
ここまで来て、信仰継承とは、神のあわれみによる以外にない、ということを改めて知るのです。

 こんにちは。
 明日は水曜日。10:30と19:30から祈祷会がございます。今日の続きⅡ列王記22章全部です。ヨシヤ王の話。ぜひ、一度読んでご参加ください。晩の8時からは、中高生会オンラインミーティング。今週の日曜午後の四教会合同のための「作戦会議」では、良いアイデアが出たようです。 今朝、東光小に行きました。前にお話しした「見守り隊」の腕章をいただくために。昨日から二学期が始まりました。見守り隊は月二回。いよいよ9月から始まります。先日は児童からの絵手紙もいただきました。こちらも元気にあいさつしたいと思います。
 本日の晩、牧師は城北小で行われる「ゴスペルワークショップ」に参加します。城北小創立50周年記念「感謝の集い」(11/14(土))で歌う「パパ・ママクワイヤー」に入ります(教職員も入られます)。講師は、かつて忠岡バイブルハウスでゴスペルを教えてくださっていた足立学先生。総勢15名くらいと聞いています。暑い暑い体育館で汗を流して歌ってきます。出会いと交わりが祝されるよう、お祈りください。

 シャローム
 純人
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8/24

2020年8月23日(日) 主日礼拝
マルコ1:14~15 「天国って何?」

福音とは「宣言」
 説明ではない。説得でもない。福音とは宣言。「大きな声で叫ぶ」(「ケーリュッソー」の元の意)こと。
 聖書の中での最初の宣言は:創世記1:1

★福音の中身「神の国が来た」
 時が満ちて:神の計画があった。この時を目指して、時は特にイスラエル民族において積み重ねられた。
 神の国が近づいた:神の支配が来たそれは、「わたし(イエス)が来た」ということ。神の国とは、イエスがおられるところ。
  イエスが人々のところに来たので、「神の国が近づいた」のだ。

★神の支配は強制しない
 「支配」と聞けばみな、良い気持ちがしない。しかし、神の支配は、人間の支配とは違う。神の支配は強制しない。「悔い改め」も、「福音を信じる」ことも命令(形)でありながら、聞いている者が応答するかしないかにかかっている。
 悔い改めは反省ではない。反省は心を変えること、悔い改めは生き方を変えること。
 福音:神の国が来た。イエスを信じるとは、イエスとの関係に入ること。次段落の弟子たちの姿。「イエスについて行った。」(20)。これが 福音を信じるということ。

★神の国にはたくさんの人がいる
 イエスは「わたしが来た」ではなく、「神の国が近づいた」と言われた。なぜか?神の国にはたくさんの人がいるから。
 「神の国」。地上において、今は罪人の集まり。その中で徐々に成長していく。イエスとともに愛において成長する。
 これからマルコ福音書を読み進めていく中で、イエスの弟子たちを見つめる目をよく見よう。

★天国って何?
 それは人間関係。イエスがそこにいる人間関係。
 自分の理想ではなく、今ここにあるイエスとともにある神の国からスタートしよう。神の国は成長するのだ(4:30~32)。


 おはようございます。
 朝の空気感が少し変わった気がします。日中は暑いですが。小学生は今日から二学期が始まりました。教会学校のお友だちは、昨日は「水鉄砲大会」を楽しんでいました。子どもたちが、コロナ禍でも、いきいきと過ごせますように。

 シャローム
 純人

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8/19

 こんにちは。
 午前の祈祷会で話し合われたことをもとにして、今日の聖書日課ついて書いてみます。
 あなたも今日の箇所を読んで考えてみてください。

ルカ19:41~48
・42~44節でイエスが語られたことはAD70年に成就しました。すなわちローマ帝国によってエルサレム神殿が滅ぼされたということ。「神の訪れの時」を知らない罪(神の子であるイエスを拒んだ罪)のゆえです。しかし、私たちはその約40年前に、このことが「イエスのからだという神殿」に実現したことを知っています。しかしこの出来事とAD70年の出来事には決定な的違いがありました。それは何でしょうか?

・45~46節
 神殿で商売をする(神殿税を払うための両替・遠くからやって来た巡礼者にいけにえを売る)ということは、律法に反する罪ではなく、ユダヤ人がエルサレムで主を礼拝するために必要なことでした。しかしイエスは、商売人たちがいる神殿を「強盗の巣」と言いました。なぜ、そうなってしまったのでしょうか?

 晩の祈祷会は、午後7:30からです。今晩は8時から中高生オンラインミーティングもございます。みことばによって力をいただき、再び神さまが遣わされた地に出て行きましょう。
 出口兄、反中姉へのメッセージ。メールや、手書きのものもいただいています。本日まで、受け付けます。みなさんに、主のいやしがありますように。

 シャローム
 純人
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8/18

こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」
 ルカ19:38

 イエスのエルサレムへの旅。そのゴールが見えてきました。エルサレムの東にあるオリーブ山からエルサレムに向かう道をイエスは子ろばに乗って進んで行かれました。冒頭の聖句は、大勢の弟子たちが、「自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて」(37)言ったことば。
 私たちは知っています。ここでこのようにイエスを王として喜び迎えた人々が、一週間もしないうちに、「十字架だ。(イエスを)十字架につけろ!」(23:21)

と叫んだことを。王であるメシアは、ローマ帝国を滅ぼしイスラエルを救われる者と考えられていました。しかしイエスはエルサレムで武力蜂起しなかった。全くの期待外れ。イエスは単なる神を冒涜する者として、ユダヤ人から見捨てられたのです。
 ところで、冒頭のことばを聞いたパリサイ人たちがイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」(39)と言いました。イエスを信じていない彼らは、弟子たちがイエスを王なるメシアと呼ぶ声に耐えられなかったのです。これに対してイエスはこう言いました。
「わたしは、あなたがたに言います。もし、この人たちが黙れば石が叫びます。」(40)

イエスは何を言おうとしているのでしょうか?「彼らが言っていることは、当たっている」ということです。おかしいと思います。彼らは、もうすぐイエスを捨てるのに…。そんな人々の言うことばが正しいとは?!
 正しいのです。彼らが考えていた通りにはならなかったけれど、たしかにイエスは、「主の御名によって来られる方、王」でした。この方は、敵であるローマを滅ぼすことをしなかったどころか、ローマによって(その権力によって)殺されました。しかし、そのことによってまことの敵である罪を滅ぼし、三日目によみがえることによって同じくまことの敵である死を滅ぼされました。そうです。

この方こそメシア:「主の御名によって来られる方、王」なのです。イエスは軍事力を表す馬ではなく、柔和さを示すろばに乗り、エルサレムにやって来ました。ダビデの子ソロモン(ソロモンは「平和」という意味)は、雌ろばに乗って即位しました(Ⅰ列王1:33、38)。ソロモンの約500年後、預言者ゼカリヤは、メシアについてこう言いました。
「見よ。あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)
そしてその500年後、そのとおり、メシア、王であるイエスは子ろばに乗ってエルサレムにやって来たのです。
 イエスは王。これが福音です。罪と死に打ち勝たれ、すべてを治めておられるこのお方が私たちの王。あなたが生きていることすべてにおいて、この方が王である。これこそが、良い知らせなのです。


 おはようございます。
 昨日募集した「お見舞いメール」。今のところ、4名の方がお二人に励ましのおことばをくださっています。感謝です。早くお送りしたいですが、締め切りは明日まで。
 明日は午前10:30、午後7:30より祈祷会がございます。明日でイエスのエルサレムへの旅が終わります。ルカ19:41~48。みんなで、みことばを深く味わいましょう。明日は、晩の8時から中高生オンラインミーティングもございます。暑いですが、熱い分かち合いができますように。

 シャローム
 純人
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8/17

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。 コロサイ1:10

 おはようございます。
 昨日は、清水担・いずみ宣教師ご夫妻が来会され、私たちの年間主題聖句とその文脈(コロサイ1:9~14)から、メッセージを語ってくださいました。
・みことばによって知った神さまのみこころを、・実際に行うこと、主に従うことで、神さまご自身を知り、・あらゆる苦難の中でも、神の力によって忍耐と寛容をもって歩み、・最後には神に感謝しつつ、喜ぶ。
その秘訣は、すでに十字架で死なれよみがえられた主イエス・キリストによる罪の赦し、キリストの支配にある。 
 励ましを受けました。
 いずみ先生のCSにおけるメッセージも感謝します。画像を用いて、クイズを交えながら、子どもたちの興味を引きつつ語ってくださいました。

 昨日の席上献金は、早朝、10:30礼拝合わせて96,646円でした。みなさんの祈りが込められた献げ物を昨日、清水先生たちにお渡しました。主の働きのために用いられますように。

 一つお願いです。昨日、清水先生ご夫妻の写真を撮られた方がおられたら、牧師にデータを送ってくださいますか?教会ブログにアップします(担先生にOKいただいています)。

 もう一つお願いとお勧め。
 現在、病気などのために礼拝をお休みしておられる方へのメッセージを募集します。
 実際にお見舞いすることができませんが、みなさんの一言が兄姉の励ましとなると思います。

・宛先(お名前)
・ご自身のお名前
・メッセージ

 を書いて、牧師まで送ってください。取りまとめてそれぞれの方に送信します。
 上記二名以外にも、受け付けます。
 もちろん、みなさんがご本人に直接、お手紙やお電話することも喜ばれることでしょう。
 とりあえず、今回は、今日から水曜日(19日)まで受け付けます。

 本当に暑いですね。
 みなさんのおからだも支えられますように。

 シャローム
 純人

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8/15

 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」 ルカ18:42

 聞いていてもわからなかった12弟子(31~34)。その後に、見えなくてもイエスのことを知っていた、信じていた盲人の話が続きます。
 エリコの町にイエスが近づいたとき、道端で物乞いをしていた彼は、群衆が大勢移動するのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねます。ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、彼は大声で言いました。
「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください!」(38)

彼はここで初めてイエスを信じたのではありません。それまでに聞いて、知っていた、信じていたのです。「ナザレ人イエスはダビデの子(メシア)である」ということを。このお方はあらゆる苦難からイスラエルを救ってくださる方だ、ということを。信じていたゆえに、周りの人たちが黙らせようとしても、ますます激しく叫びました。
「ダビデの子よ、私をあわれんでください」(39)そしてイエスとの対面が許されました。

「わたしに何をしてほしいのですか?」
「主よ。目が見えるようにしてください。」(41)
これに対するイエスの答えが冒頭の聖句。すると、「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。」(43)

ところで彼が見えるようになったとき、最初に見たものはなんだったでしょうか?イエスです。彼の目が開かれた時、最初にその視界に入ったのはイエスでした。そして彼は、ツァラアトがいやされて祭司のところに行った9人のようではなく、あのひとりのサマリア人のようイエスについて行きました(17:11~19)。そもそも彼が見たかったものとはなんだったか?それはイエスでした。彼は見えなくても聞いていました。そして見えなくても信じていました。信じていたからイエスを見たかったのです。
「目が見えるようにしてください」とは、「私が見上げる(アナブレポー)ことができるように」と訳すことができます。イエスを見た彼がすぐについて行ったのは「恩返し」ではありませんでした。「見えるようになれ(あなたは見上げよ)」と言われた時、イエスはすでに彼のご自身への信仰を認めておられたのです。
 私たちも彼と同じように、イエスを見ないで信じた者です。そして彼のように信じてイエスを見るのです。そのお姿を見るのは再臨のときまでおあずけですが、主のみわざをはっきりと見上げる今日一日でありますように。そしてさらに、このお方について行くのです。

 おはようございます。
 先日「よく眠れますか?」という説教をしました。違う意味で「よく眠れますか?」。暑くて寝苦しいですね。エアコンつけて寝て起きたら、体がだるいとか、のどが痛いとかありませんか?みなさんのおからだが支えられますように。早くよく眠れる晩となりますように。

 明日は主の日。おとといお知らせしたとおり、午前7:30、10:30より礼拝をお献げします。清水担・いずみ宣教師が語ってくださるみことばのメッセージを期待します。
 明日の午前8:00~30、ラヂオきしわだ「バイブルスタディー」のメッセージは栗原牧師です。二回の結婚式のことから教えられたことをお話ししました。地域の方々に福音が届けられ、教会に集う方が起こされますように。

 本日は終戦記念日。75年たった今、私たちは平和の尊さをかみしめます。そのためにも戦争について読み、聞き、学ぶことができますように。またキリストのあるまことの平和を、小さな私たちの家族、教会から広げ、分かち合うことができますように。
 

 シャローム
 純人

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8/14
 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」 ルカ18:27

 「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが優しいのです。」(25)
「それでは、だれが救われることができるでしょう?」(26)
この問いに対する答えが冒頭の聖句。この直前、まさに大変な金持ちの指導者が、金持ちであるがゆえに、イエスのことば(22)に従うことができず、非常に悲しんで身許を去って行きました。しかし、私たちはその後、ひとりの大金持ちがイエスにこのように言ったことを聞くのです。
「主よ。ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。」(19:8)
だれですか?そう、ザアカイです。そうです。金持ちが神の国に入るのは難しい(25)。しかし不可能ではない。このことをザアカイの物語(19:1~10)は私たちに教えてくれます。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(19:5)
イエスは嫌われ者ザアカイのところに、自らすすんで会いに行かれました。何を食べたか?
何をしゃべったか?ということはいっさい書かれていません。ただ、イエスがザアカイに声をかけ、ザアカイはイエスを喜んで迎えた。それが、あのザアカイの約束を生み出しのです。
 「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。」(22)
あの金持ちの指導者はイエスのこのことばにつまずきました。しかし、それが永遠のいのち(18)の条件ではありませんでした。
「そのうえで、わたしに従ってきなさい。」(22)
これがイエスが言いたかったこと。ザアカイはイエスとともにいる中で、このお方に従うことを決心したので、だれに命令されたのでもなく財産を施す約束をしたのです。これこそ「人にはできないことが、神にはできる」ということでした。
 永遠のいのち(18)=神の国(24)=救われる(26)
 これらはすべて、イエスとの関係の中で見出されるものなのです。そしてイエスさまはいつもあなたの方に歩み寄ってくださるのです。

 おはようございます。
 今日、今まで何回「暑い」と言いましたか?外に出るときはマスクと同様、必ず水筒をご持参ください。みなさんのからだが支えられますように。

 シャローム
 純人
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8/13
 「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
 ルカ18:14

 「義と認められる」とはどういうことでしょうか?それは神との正しい関係にあると認められるということです。パリサイ人の祈り(11~12)は、祈りのかたちをとっていますが、それは独り言のようなものでした。取税人の、「神様、罪人の私をあわれんでください。」(13)
という一言は、まさに、今自分が、神との正しい関係にないことを表わす告白でした。イエスは、この人が義と認められて家に帰ったと言います。それは、彼が、このとき自分が神との正しい関係に入れられたことを自覚したということです。取税人は祈りの答えを受けたのです。ではパリサイ人は?彼は、そもそも祈りの答えを求めていませんでした。自分は律法をしっかりと守っていると自覚していましたが、生きた神との交わりを持っていませんでした。取税人は「自分を低くする者が高くされる」ことを知りましたが、パリサイ人は「自分を高くする者が低くされる」ことがわかりませんでした。高くされるとか低くされるとかではない。「ちゃんとやってるんだけど満たされていない自分」。これが彼が常日ごろ感じていたことでした。
 あなたは祈っていますか?神さまとの生きた交わりを求めていますか?パリサイ人はいつまでたっても独りぼっちでした。しかし神殿に行った帰り道、取税人の横には神さまがおられたのです。

 おはようございます。 
 本日も、午後2:00~4:00まで、福音交友会ティーンズオンラインキャンプがございます。二日目の今日も、hi-b.a.スタッフの北口美喜師が語ってくださいます。僕も参加したい!(でも、おじさんはダメ)。今日も、中高生たちがイエスさまと出会う恵みの場となりますように。
 次主日のお知らせ。16日(日)は、清水担・いずみ宣教師ご夫妻が来会され、担先生が礼拝説教を、いずみ先生がCSメッセージをしてくださいます。心から歓迎します。みことばを待ち望みましょう。なお、次主日の礼拝席上献金(早朝、10:30礼拝)は全額、清水宣教師にお渡しします(今回のコロナ禍による緊急帰国に際しての費用に充てていただきます)。祈りつつご用意ください。

 シャローム
 純人
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8/12
こんにちは。現在、福音交友会ティーンズオンラインキャンプが行われています。このこともお祈りした午前の祈祷会で、語り合われたことから書き記します。どうぞ考えてみてください。

ルカ17:20~37
・「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(21)
 ここで言われている「あなたがた」は、このときイエスを目の前にしていました。そうです。神の国とは、イエスとともにいる人々のただ中にあるのです。
・「死体のあるところ、そこに禿鷹(はげたか)が集まります。」(37)
 イエスの再臨のとき、身許に引き上げられる人と、そうでない人がいるということ(34~35)を聞いた弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか?」(37)と尋ねたことに対するイエスの答え。野ざらしになっている人間の死体を禿鷹がついばんでいる情景を思い描いてください。それは、ここか?そこか?ということではなく、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、」(33)と言われている人がいるところはどこででも、という意味。
・今日の聖書日課において、最初に「(神の国は)いつ来るのか?」と問うたパリサイ人、「(人間の救いと滅びが)どこで起こるのか?」と問うた弟子たちにイエスは答えられました。イエスとともにいるならば、いつでもそこは神の国であり、イエスとともにいないならば、いつでもそこは禿鷹が群がる死体なのです。

 晩の祈祷会は、午後7:30からです。ティーンズオンラインキャンプは明日も午後2:00~4:00まで行われます。引き続き、講師の北口美喜師(hi-b.a.スタッフ)のメッセージが用いられるよう、お祈りしましょう。教師やスタッフのみなさんのご労を感謝します。

 シャローム
 純人

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8/11

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)

 ここに、しもべとされた喜び、感謝があるなら、このことばはしっくりきます。この後に記されている話とともに考えましょう。イエスのことばを信じてツァラアト(重い皮膚病)がきよめられた(癒された)10人のうち、ただ一人のサマリア人だけが、引き返してイエスの足もとにひれ伏し感謝しました。ほかの九人(おそらくユダヤ人)はどうしたのか?イエスが命じた通り、癒されたからだを祭司に見せたと思われます(14)。そして社会復帰したことでしょう。決して自分勝手な悪いことではありません。彼らはイエスによって癒されたことを心から喜びました。しかしあのサマリア人は癒されたことを喜び、癒してくださったイエスのもとに行って感謝したのです。彼は癒しを通して自分が仕えるべきはこのお方であると知ったのです。この方によって生かされてている。この方に仕えることが人生である。
彼ならば、心を込めてこう言うことができたでしょう。
「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」しもべとされた喜び、感謝があるからです。
 信仰とは大きい・小さいではありません。多いか・少ないかでもありません(5)。あるか・ないかです。
「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。」(6)
取るに足りない、いや、存在自体がわざわいを引き起こすような者(1~2)が神に選ばれ、そのしもべとなった。なることができた。その喜びと感謝、小さくても確かな信仰の中で主人の心を知るなら、このしもべを通して奇蹟は起こるのです。
 「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
無価値な者は偉そうなことを言わず、やることやって低姿勢でいなさい。ということではありません。しもべとされた喜びと感謝をはっきり現わし、ひたすらに主に仕えましょう。
「それからイエスはその人(あのサマリア人)に言われた。『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』」(19)
シャローム
 純人
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8/10
2020年8月9日(日) 主日礼拝
コロサイ3:1~4 「上を向いて歩こう!」

上を向いて歩こう

「上を向いて歩こう」。あの歌では「涙がこぼれないように」。悲しみをこらえるために。
しかし、パウロが「上にあるものを求めなさい」というとき、その理由は「そこではキリストが神の右の座についておられます。」

キリストが昇られた天

今日はみなさんに、空を、天を見上げることをお勧めする。三つのことを考えながら。一つ目。この天はイエス・キリストが昇られた天。2,000年前、よみがえられたイエスは弟子たちの見ている前で天に昇られた(使徒1:9)。

キリストがおられる天

二つ目。この天は、キリストがおられる天。彼は今、天で神の右の座についておられる。そこでイエスはふんぞり返っているのではなく、「すべての支配、権威、権力、主権の上に」おられ(エペソ1:20~21)、まさにこの地を支配しておられる。「上にあるものを求める・上にあるものを思う・地にあるものを思わない」とは、神のことだけを考え、地上の営みについては全く考えない、ということではない。天からこの地を俯瞰しておられるキリストに尋ね求めること。私たちの限られた視界に頼るのではなく、この地についてのキリストの見方を伺い、それを示していただくこと。それが「上にあるものを求める」ことである。このような思いを持って私たちは、いつもみことばを聞いてゆこう。

キリストが現れる天

三つ目。この天は、キリストがやがて現れる天。今、キリストは「隠されている」(3)。天におられ、目に見えない。しかし彼はやがて現れる。再臨されるのだ。そして私たちもその時「栄光のうちに現れます」(4) 。栄光、偉大さとともにキリストとともに現れるのだ。

キリストが、かつて昇られた天、今おられ働いておられる天、やがて現れる天。この天を見上げてほしい。このことを覚えながら、コロサイ3章以降、信仰の実践についてのおしえを聞いてゆこう。
シャローム
 純人
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8/8
(『みことばの光』の聖書日課は、8/7(金):ルカ15:11~24、8(土):ルカ15:25~32ですが、昨日、私は箇所を間違えていました(ルカ15:11~32)。というわけで本日は、『みことばの光』では9(日)の箇所であるルカ16:1~13よりメッセージします。)

 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
 ルカ16:9

 「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。」(8)
いつも首をかしげてしまいます。なんでほめるの?不正じゃないか(1~7)。しかし主人は、この人がしたことを「良いことだ」とほめているのではありません。ほめた後で、再び彼に財産管理の仕事をさせたとも言われていません。実際、このたとえ話はここで終わり。
その後でイエスのメッセージが記されています。
「この世の子らは、自分と同じ世代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。」(8)
「光の子ら」とはクリスチャン、イエスを信じる人。「この世の子ら」とは信仰のない人。
あのたとえ話は、この世の子らは、何としてでも生き抜くために知恵を絞って行動する。その賢さは光の子らをしのいでいる、ということを示しているのです。
 これに続くのが冒頭の聖句。また首をかしげてしまいます。不正の富で友をつくる?その友たちが永遠の住まいに迎えてくれる?ますますわかりません。どういうことでしょうか?
まず「不正の富」とは「不正をして金を稼げ」ということではありません。あとでイエスは、弟子たちに、こうも言われました。
「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか?」(11)
「不正の富」とは「まことの富」すなわち福音に対応して語られています。「不正の富」とは「この世の富」と言い換えることができるでしょう。イエスはこの世の富で自分のために友を作れ、と言います。お金をつらつかせて改宗させよ、ということではありません。神が与えられたこの世の富を上手に用いて、人を信仰に導けということ。「富がなくなったとき」とは、すっからかんになったときではなく、この世におけるなすべきわざをなし終えたとき。永遠の住まいに迎えてくれるのは、神であり、イエスご自身ですが、同時にそのとき、彼が信仰に導いた友たちが、彼のしたことの証しをしてくれるのです。
 このイエスのメッセージのまとめは以下のとおり。
「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(13)
イエスは「神は善で富は悪」と言っているのではありません。「不正の富」と表現しますが、富の積極的な利用を勧めています。ではどういうこと?神は目的で富は手段なのです。
しもべは神という主人に仕えるために、与えられた富を使うのです。中途半端にではなく大胆に。これが逆になると、富が目的で神が手段。これをご利益宗教と言います。しかしまだやっかいなことがあります。主人が何か?中途半端になることです。「二人の主人に仕えることはできません」、「神と富とに仕えることはできません」とは、そのような人の揺れ動く姿を表しているのです。
 あなたは与えられたもの(富や能力)を神さまのために大胆に使っていますか?中途半端になっていませんか?
 何のために生きているのか?働いているのか?勉強しているのか?中途半端になっていませんか?
「この世の子らは、自分と同じ世代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。」(8)
イエスさまは、このような現状に満足されていません。

 おはようございます。
 今日も暑い!あついですねえ。コロナに気をつけつつ、熱中症になりませんように。私はいつも小さい魔法瓶を携帯しています。冷たい麦茶です。
 明日は主の日。昨日お知らせしたとおり礼拝をお献げします。最高の礼拝を献げるために最高の準備をしましょう。
 

 シャローム
 純人

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8/7
 父は彼に言った。「子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」
 ルカ15:31

 これを聞いた兄息子はびっくりしたことでしょう。しかし、たしかにこのように書かれています。あの弟息子が父に財産を要求したとき、「それで、父は財産を二人に分けてやった。」(12)
弟はすぐにその財産を持って遠い国に行き「放蕩息子」となりました。兄は?弟のようなアホなことはしませんでした。しかし彼は気づいていませんでした。父の財産が全部自分のものだということを。弟息子が帰って来たのを喜んで迎えた父に向って彼は言いました。
「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。」(29)
これは本当でしょうか?兄がウソをついているようには思えません。たしかに子やぎ一匹もらったことがなかった。しかしここにはもう一つの真実がありました。彼は子やぎ一匹ください、と願ったことがなかったのです。兄にとってそれは、自分が戒めを破らず、父に仕えることによって勝ち取るべきものでした。しかしそうではないのです。彼はしもべではありません。雇い人ではありません。息子なのです。たしかに弟が父の生前に贈与を要求するのは大変失礼なことでした。しかし「財産を二人に分ける」ことは、この兄弟が父の子であることのはっきりとした証拠でした。

 イエスが語った三つのたとえはすべてこのように始まります。

「あなたがたのうちだれかが羊を百匹持っていて、」(4)

「また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、」(8)

「ある人に二人の息子がいた。」(11)

すべて、主人公が「持っている(ギリシャ語「エコー」)」から始まります
(三番目の話は、直訳「ある人が二人の息子を持っていた(エコー)。」)。
そうなのです。
パリサイ人たち・律法学者たちも、取税人たち・罪人たちも、もともとは神の所有なのです。神の子どもなのです。そして天の父は、「ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(11:13)
パリサイ人たち・律法学者たちは、神の子どもとして大胆に、願い求めることをしていなかった。良きものとは、求めて与えられるのはなく、自分の行為によって神に認められ与えられるものだと思っていたのです。しかし深いところでは満たされていない、欲求不満が募っていました。そんな自分のかたわらで、あのダメな取税人たちや罪人たちが楽しそうにしているのを見て、彼らはイエスを批判したのです。
 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(32)
三つ目のたとえは、このことばで終わります。何か中途半端なエンディングです。「で(このように言われて、兄は)どうしたの?」と問いたくなります。しかし、これで終わり。この続きは、これを聞いていたパリサイ人・律法学者たちが考えることなのです。いや、これを今読んでいるあなたがどのように応答するのか?あなたは神さまに何と答えますか?
 みことばは聞きっぱなしでは終わりません。

 おはようございます。
 岸和田市の小学校は今日が一学期の終業式。約二週間の「夏休み」を経て、24日(月)から二学期が始まります。先生方が少しでも休むことができたらと思います。
 次主日のお知らせ。8/9(日)は午前7:30、10:30より礼拝をお献げします。コロサイ3:1~4「上を向いて歩こう!」。礼拝では水谷渡兄が信仰の証しをしてくださいます(10:30礼拝のみ)。

・オンラインでの礼拝が可能な方は、ライブ礼拝の有効な活用をお勧めします。
・集まっての礼拝は継続しますが、密を避けるために、十分な距離をとって座ってください
(礼拝堂の着席は各椅子に一人ずつと、両サイドの補助いすに座られる人に限定します)。

・早朝礼拝は座席に多少の余裕があるので、こちらへの参加をお勧めします。

今のこのときを祈りつつ、それぞれが信仰をもって決断し、礼拝を献げましょう。
 昨日のブレッドで「今週木・土曜日の英会話クラスもお休みとなりました。」と書きましたが、土曜日はもともとお休みでした。訂正します。次回、英会話クラスの予定は、8/27(木)、29(土)です。引き続き、講師のジェームズ・モナご夫妻のためにお祈りしましょう。

 シャローム
 純人
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ブレッド・オブ・ライフ
8/6
「あなたがたのうちだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」 ルカ15:4

 イエスは言いました。
「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(7)
この結論に至るために、イエスは一つのたとえを話されました。このたとえのクライマックスが、「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」(5~6)
この直後にあの「結論」が語られたのです。ところで「結論」では、「一人の罪人が悔い改めるなら」とありますが、たとえではそれは、羊飼いが「見つけた」ということ。悔い改めるのは人間ですが、見つけるのは羊飼い、すなわちイエス。主語が違います。これはどのように理解すればよいのでしょうか?時間的には「見つける」方が先。人間は神に見つけられ、神に見いだされたことを知ってこそ、悔い改める、神に立ち返るのです。取税人たちや罪人たち(1)は、イエスのうちに神のまなざしを感じたので、彼の話を聞こうとしてイエスの近くにやってきたのです(1)。そして彼らは悔い改めるのです。
 いなくなった羊を見出した喜びが繰り返し語られます。(5,6,7)。しかしそれ以前に、羊飼いは羊の存在を喜んでいました。羊は羊飼いの所有だからです(4)。「だれかが羊を百匹持っていて」ということばに注目。これは次のたとえでも言われていることです「ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、」(8)。パリサイ人たち、律法学者たちにとっては「罪人」であっても、イエスにとっては彼らはご自身の所有でした。なぜなら、彼らはイエス・キリストによって造られたものだからです。
 あなたは今、自分のことを、どのように捉えていますか?あなたの近くにいる人をどのように考えていますか?

 おはようございます。
 お祈りしていただいているジェームズ兄ですが、まだ、目のまわりのかぶれが完全にいやされていません。今週木・土曜日の英会話クラスもお休みとなりました。どうぞ引き続き、ジェームズ兄のいやしのために、ご夫妻のためにお祈りください。

 シャローム
 純人


8/5
こんにちは。
 本日午前に行われた祈祷会で語り合われたことをもとに記します。聖書を開いて考えてください。

ルカ14:25~35
・「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらには自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」(26)
ここで言う「憎む」とはどういう意味でしょうか?最近読んだルカ12:51~53を参考にしてください。
・33節「そういうわけで」は、その前後で言われたことを結びつけることばです。「塔を完成させるために十分な金があるかどうか費用を計算すること」「戦いに際して敵と味方の兵力をしっかり比較すること」と「自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子となることはできません。」(17)は、どのように結びつけられるのでしょうか?
・「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(27)
「自分の十字架を負ってわたしについて来る」とは、いのちをかけてイエスに従うということです。しかしイエスが捕えられ、イエスが十字架を負われたとき、使徒たちはみなイエスを見捨てて逃げて行ってしまいました。自分の十字架を負ってイエスについて行かなかった。行けなかった。しかし、後に彼らはすべて最後に殉教したと言われています。自分の十字架を負ってイエスについて行ったのです。一体何が起こったのでしょうか?今日の聖書日課でイエスがチャレンジしていること、私たちが難しいと考えることに、私たちが従うために必要なこととは何でしょうか?

 晩の祈祷会は午後7:30からです。中高生オンラインミーティングは午後8時からです。
ともに、生けるイエスさまとの交わりのときとなりますように。

 シャローム 
 純人

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8/4
 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。 ルカ14:24

 「あの招待されていた人たち」とは、招待されたけれど断った人たちのこと(18,19,20)。彼らは主人との関係を持っており、特別に招かれた人たちでした。しかし、みな断りました。
「畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。」(18)
「五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。」(19)
「結婚したので、行くことができません。」(20)
それぞれ理由は違いますが「みな同じように断り始めた」(18)と言われています。どこが同じなのでしょうか?彼らは主人よりも、宴会よりも、そこでの食事よりも、畑を牛を配偶者を優先させたのです。なぜでしょう?彼らがそう思ったからです。畑の方が、牛の方が、配偶者の方があの宴会の食事よりも良きものだと思ったからです。彼らは主人と関係を持っていました。もしかしたら、以前にも宴会に招かれ食事をしたことがあったかもしれません。そのおいしさ、楽しさを味わったことがあったかもしれません。しかし、今、天秤にかけたとき、彼らは主人との食事よりも目の前のものの方が自分を満たす、と考えたのです。
 この話はイエスとともに食卓についていて、イエスの話を聞いていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(15)
と言ったことに対するイエスの答えとしてのたとえ話でした。このたとえが示しているのは、神の民として選ばれ招かれているユダヤ人たちであっても、神の恵みではなく、自分のもの、自分の力に拠り頼み、神の恵み、御子イエス・キリストを退ける。拒まれた福音は招かれていなかった人々(異邦人)に届けられ、それに応える人が起こされる(21~22)。ということ。
 「やがて」神の国で食事をする人は幸いだと、尋ねる人(15)に、イエスは「すでに」神の国で食事をしている(イエスとともにその恵みを味わっている)ことの喜びを強調しているのです。
 あなたにとってイエスさまは何にも変えられない喜びでしょうか?かつてはそうだったけど今は違う。なぜでしょう?どうしたらよいでしょうか?答えはあなた自身の中にあります。

 おはようございます。
 今日は8月4日。いつもならば、子どもたちの夏休みのもうすぐ半分が終わるようなころ。しかし今朝も東光小の子どもたちは元気に登校しました。まだ一学期なのです。今は、どの学校も教室にエアコンがあると聞きます。それにしても大変な学期末を過ごしている子どもたち、先生たちの健康が支えられますように。
 明日は水曜日。午前・午後と祈祷会がございます。明日の聖書箇所はルカ14:25~35。みなで読み、考え、疑問・質問、教えられたことを分かち合って、恵みをいただきましょう。
晩の8時からはオンライン中高生会。先週は、はじめて参加者(中高生)がゼロだったそうです。勉強・部活・そしてこの暑さでしんどい思いをしている子どもたちですが、今週の説教ではありませんが、オンラインで居眠りしてでも、神さまの恵みを受けることができますように。

 シャローム
 純人

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8/3
2020年8月2日(日) 主日礼拝
詩篇3:1~6 「よく眠れますか?」

ダビデの歌

今日から詩篇の「本論」に入る。1篇、2篇は「序論」。詩篇150篇を貫くテーマが示されている。それは「みことばと主」。幸いな人とは、①「主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」(1:2)②「すべて主に身を避ける人」(2:12)。この「主」とは主なる神が油注がれた王(メシア)。「子」とも言われている(2:11)。
これから続いていく詩篇を、私たちはたえず、神のみことばと神の子であるメシアを思い描きながら読み進めて行こう。詩篇は五巻に分かれている。第一巻は1~41篇まで。

「本論」
が3篇からとすると、第一巻は全部で39。うち37はダビデの歌。表題と言えるものはヘブル語の聖書では、1節に数えられる。そこにダビデの名が記されているのが37。単にダビデの作であるというものもあれば、その詩の背景、ダビデの状況を示しているものもある。今日の3篇がそれである。

よく眠れますか?
あなたは毎日よく眠れているか?そうならば神に感謝しよう。ダビデはこのことを心から感謝している(5)。眠れないで困っているか?ならば、この詩によってダビデから眠りの秘訣を学ぼう。ダビデはこのとき、精神的に非常に厳しい状況にあった。自分の子アブサロムからいのちを追われ、逃げていた(Ⅱサムエル15章~)。敵は多くなり、敵はダビデにこう言う。「彼には神の救いがない」(2)。しかしダビデは主こそ自分の盾であると言った(2)。
そして彼はこう言った。「私は横たえて眠り、また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。」(5)。とても眠れないような状況で、ダビデはぐっすりと眠っていた。主が彼を支えてくださるから。ところで、ぐっすり眠る名人といえばイエスである(マタイ8:23~27)。イエスはなぜ、こんなにぐっすり眠れたのか?①疲れていたから。イエスの働きは多忙を極めていた。いつだって眠れた。しかし、この場面は嵐!「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった」(26)。なのに「ところがイエスは眠っておられた」。考えられない。イエスは舟に乗り、寝入ると、波をかぶっても起きなかった。なぜ?「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」(26)。②イエスは信じていたので、父なる神を信じていたので、嵐の中でも眠ることができた。ダビデもまた、同じ信仰を持っていた。
「私は身を横たえて眠り、また眼を覚ます。主が私を支えてくださるから。」(5)。敵がどんなに多くても、どんなに多くの敵に囲まれていても、主が私の盾である。
ダビデはそれを祈りにおいて悟った。「私は声をあげて主を呼び求める。すると、主はその聖なる山から私に答えてくださる。」(4)。具体的には、「主よ、立ち上がってください。
私の神よ お救いください。」(7)と祈るダビデに、主が答えてくださる。「あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を砕いてくださいます。」(7)。
このような祈りの交わりの中でダビデは主がともにいてくださることを信じ、いのちを狙われてもなお、ぐっすり眠ることができた。イエスもまた、多忙を極める毎日の中で、「朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)。この祈り中で、あの御声「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(11)を思い起こし、信仰をもって歩まれた。そしてイエスもまた、嵐の中でもぐっすりと眠ることができた。
みなさんにぜひ、デボーションをすることをお勧めする。だれにも邪魔されずに神さまと、イエスさまと一対一で交わるとき。聖書を読み、黙想し、心にあることをはっきりと打ち明けて、神さまがともにおられることをその都度その都度確信して一日を始めよう。

夜眠れない人には?

『眠られぬ夜のために』カール・ヒルティ
敬虔なキリスト教徒として、神、人間、生、死、愛、などの主題を用いて、現代の預言者とも評されるほどの思想書を書き残した。また、そのようなテーマに深く踏み込んでいながらも、彼の著作には、非現実的な、空想的要素は含まれないという特徴がある。
この本の内容紹介。「眠れない夜はつらい.しかしいたずらに嘆いていないで,我々はそれを,日頃怠りがちな自己反省のための静かな妨げられない時間として活用しようではないか.ヒルティ(一八三三‐一九〇九)は青年に向かってこう語りかける.スイスの法学者・哲学者であった著者が,聖書の言葉を引きつつ人はいかに生きいかに自分を深めてゆくかを諄々(じゅんじゅん)と説く.」
眠れない夜に、神のみことばと主イエス・キリスト臨在に心を傾けていく。私たちは、深い眠りに導かれていくことができるだろう。

説教のときが…

眠る、といえば説教中が一番よく眠れる、という方。どうぞ、平安のうちにお眠りください。神さまへの感謝をもって。
友だちの牧師のお話を紹介する。

ある日曜日、不眠症で悩む人が教会に来ました。牧師の説教が始まると、久しぶりにぐっすり眠ることができました。礼拝後、牧師にお願いしました。「先生、教会堂の椅子を譲ってくれませんか?これさえあれば、毎晩、ぐっすり眠れると思いますので…」。どの教会の会衆にも、讃美歌の時間などは元気なのに、説教が始まった途端、気持ちよさそうに眠ってしまう人がいるものです。しかし、説教が終わるとまた目が覚めるのです。どういう訳でしょうか。牧師になりたての頃の私は、何とか人が眠らないようにと努力したこともありましたが、今は、「この人はお疲れなんだな、ゆっくり休んで疲れがいやされますように」と祈ります。
聖書には、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(詩編127篇2節)と書かれています。眠る人は神に愛されているのです。しかし、「今日は体が疲れているので、先生、教会お休みします」と言って来られる方には、「どうぞ家で休むのではなく、教会に来て、教会で休んで下さい」とお話します。不思議なのですが、教会で眠ったり休むと、心の奥底から疲れがいやされます。現代の人は、心も体を疲れています。あなたは疲れていませんか? 日曜日は、教会に休みに来ませんか?イエスさまは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と語られました。日曜日は教会へ。どうぞいらして下さい。
彼に、この文章を説教で紹介してよろしいか?と尋ねると返事が来た。
「しかし、できるだけいびきをかいたり、隣の人に迷惑をかけないように静かに寝てください、と私は付け加えます。」
主が支えてくださるので眠ることができる。また、眠ることによって「主が私を支えてくださる」ことを知ることもできるのである。

敵をも祝福する

ダビデは、これで終わらない。この詩の最後のことばは、「救いは主にあります。あなたの民に、あなたの祝福がありますように。」。切羽詰まっても、主を信頼し、ぐっすり眠るダビデは、自分だけでなく、他の人のことも祈る余裕があった。ところでこの「民」とはだれか?自分とともにいてくれる民。しかし、今、自分に敵対しているアブサロムも含まれている。「あなたの民」とはイスラエル民族。今、敵対していても、もともとはアブサロムもイスラエル民族。ダビデは敵をも「あなたの民」と言って祝福することができた。なぜ?自分が祝福に満たされていたから。これこそ、苦しみの中でも眠ることができたダビデの行きついたところ。イエスは言われた。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:44~45)。
自分が善人でなく悪人であることに気づき、正しい人ではなく正しくない人であると悟るとき、そして、そんな私に対して恵み深くあられる天の父のあわれみを受けるとき、私たちは敵をも祝福する者とされるのである。神との交わり、デボーションとは、このことに
日々、気づかされ、感謝を新たにする時なのである。

こんばんは。
昨日行った執事会で、今後の主日礼拝について以下のように決めました。

オンラインでの礼拝が可能な兄姉には、ライブ礼拝の有効な活用を勧める。

集まっての礼拝は継続するが、密を避けるために、十分な距離をとって座る
(礼拝堂の着席は各椅子に一人ずつと、両サイドの補助いすに座られる人に限定する)

早朝礼拝の座席に多少の余裕はあるので、こちらへの参加を促す。

プログラムなどの必要な修正は今後考えていく  
・9月の聖餐式は行わない
      
陪餐献金は袋を用意しささげていただく。

以上です。これからも、主の御名が私たちを通してあがめられますように。

昨日まで募りました九州豪雨被害支援献金は77,756円捧げられ、宣教基金から244円足して78000円九州キリスト災害支援センターに送金しました。感謝して報告させて頂きます。
特に人吉聖書教会では会堂、信徒の方々の家が水浸しになり、会堂は床はぎをし、使える場所でなんとか礼拝を守っておられます。ボランティアも熊本県外の受入れは停止しています。必要な支援が届きますように。復旧作業のなかで熱中症やコロナ感染から守られますようにお祈りください。
 

 シャローム
 純人

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2020年7月26日(日) 主日礼拝
マルコ1:12~13 「試練の意味」

聖霊に従う

マルコの福音書でイエスが最初にしたこと、それはバプテスマを受けることであった。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」。罪を犯したことのない神の子が「人となる」ため。
罪人の一人と数えられ、罪人の身代わりとして死ぬため。バプテスマの水からあがられたイエスに聖霊が降った。神の子に聖霊が降る理由。これもまた、イエスが「人となる」ため。
聖霊を受けたイエスの歩み、姿は、神に悔い改め、バプテスマを受け、同じく聖霊を受けた人間のモデルなのである。
バプテスマを受けたイエス。「それからすぐに」(12)。それからすぐに何が起こった?
「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(12)。「追いやる(エクバッロー)」は「投げ出す」という意味。御霊(聖霊)がイエスを荒野にぶん投げた。荒っぽいことをする。ここで大事なのが、「御霊はイエスを」ということ。主語は何か?御霊である。

聖霊を受けたイエスの歩み。その主語は御霊であった。しかし、それはまた、イエスがその御霊のされることに従ったことを表わす。聖霊は強引とも思えることを私たちにされる。しかし聖霊は無理強いしない。イエスが従ったからこそ、荒野に行かれたように、私た
ちも聖霊の導きを選び取るのだ。

試練の意味

聖霊によって荒野に追いやられたイエスは、そこで何をしていたのか?「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。」。四十日:モーセが神に呼ばれシナイ山(ホレブ山)にいたのは四十日。そこであの「十戒」を授かった。エリヤが神に呼ばれホレブ山まで歩いて行った期間が四十日。モーセも、エリヤも、そしてイエスもこの四十日は、孤独であった。実に「荒野(エレーモス)」とは「寂しいところ」という意味(1:35)。この寂しい荒野、孤独の中でイエスは、サタンの試みを受けられたのだ。サタン:悪魔の試み、誘惑を受けた。サタンとは神の敵であり、サタンの試みとは、信じる者を神から引き離そうとする企てである。実にすべての人間は、このサタンの試み、誘惑に負けて、神から引き離されてしまった。しまっている。ここで、サタンは神の子であるイエスに対しても誘惑し、彼を神から引き離そうとした。では、その結果は?誘惑に勝ったのか、負けたのか?私たちは知っている。マタイの福音書、ルカの福音書を読めば、わかる。イエスは、サタンに勝利された。しかし、マルコにはそれが記されていない。なぜか?イエスがサタンの試みを「受けた」。そのことにポイントを置いたからである。しかし、そもそもなぜイエスはサタンの試みに会わなければならなかったのか?神がそんなことを許されるのか?許されたのだ。だってイエスをあの荒野に追いやったのは、神の御霊だったのだから。この試みは、試練であった。試練とは何か?それは、「先がある」ということである。これから先のためにイエスは試練を受けられた。これからいよいよ始まるサタンとの長い闘い、人々を神のもとに取り戻すこの戦いの前に、まず、自分自身がサタンに勝利することが必要であった。このように誘
惑に打ち勝つということを体感する必要があった。
イエスはサタンの試みに打ち勝った。試練を乗り越えて新たな戦いのための備えをした。しかし、聖書にはサタンの試みに負けてしまった人もいる。ペテロは「あなたはイエスの弟子だろう?」と尋ねられて三度も主を否定した。大失敗をした、誘惑に負けたのだ。しかし、これにもまた先があったのだ。彼は自分の力ではサタンに勝利することができないことを知り、よみがえられたイエスに出会い、内に住んでくださる聖霊の力によってのみ勝利することができることを知り、そして本当にそのとおりに、勝利の歩みをすることができた。

イエスを支えたみことば

イエスがこのサタンの試みに勝利することができた中には、みことはの力があった。「人はパンのみによらず、神のことばで生きる」「主を試みてはならない」「主にのみ仕えなさい。」。これはイエスがサタンに対して語った聖書のことばであるが、もう一つ、この場においてイエスを支えたみことばがある。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。バプテスマを受け、聖霊を受けたイエスに父なる神が語られたこのことばは、このサタンの試みの中でもイエスを支え続けた。孤独を私たちは嫌う。しかし孤独とは、神と一対一になる、なれるとき。そこで、私たちもまた、主イエスを信じる者として神のことばを聞く。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。」
荒野に住む恐ろしい獣たち。ひとりぼっちのイエスだけれど、御使いたち、神が特別に遣わされた天使によって守られた。この孤独の中で、その中でこそ、イエスは神の守りを知ったのである。

今、試練の中にいる人。何のためにこんな厳しい目に遭うのか?先があるのだ。その将来のために今、この試練がある。
試みに打ち勝つことができなかったとしても、それを素直に認め、主の赦しを受けるならば、先があるのだ。
試練には意味がある。

シャローム 純人

2020年08月29日