「モップがけをしながら」 山里 将之


みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

ウクライナの事がとても心配になる昨今です。特に、軍人ではない非戦闘員、普通の市民が犠牲になり、普通の住宅、アパートが無残にも破壊されている様子を見ると、沖縄出身の私としてはどうしても、かつての地上戦の事がまぶたの奥でシンクロしてしまいます。世代的にはもちろん、戦後生まれの私ですが、戦後の傷跡、戦地だった場所、また不発弾撤去作業・・・これは現在でも継続中・・・の光景はあちこちにあり、戦争の愚かさを噛み締めます。

 


どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
新約聖書 ローマ人への手紙15章33節

話は打って変わるように見えるかも知れませんが、今日は月に一度の教会掃除の当番。寒い間はひかえていたモップがけを、今日は久しぶりに行いました。案の定というか期待通りというか、終わってみると、バケツの水は真っ黒! でも、それだけ床がきれいになったという事でもありますから、嬉しい事です。同じ現実を、どこから見るか。同じ現実の、何を見るか。ふだん、聖書から信徒の皆さんと分かちあってきたメッセージを、自分自身にも当てはめてみて、ささやかな感謝の思いを味わいました。

ふと、神様も、私たち人間の罪を、一生懸命、掃除して下さっているような感じだなぁ、と、モップを手にしながら想像しました。実は、「ブルース・オールマイティ」というコメディ映画で、この事を扱っていたのを思い出したんです。この映画、面白いですよ。ジム・キャリー主演で、モーガン・フリーマンが神様の役を演じていました。神様の全知全能の力に憧れた主人公でしたが、ある時、一時的に、神様から全知全能の力を預けられる事になります。まさにスーパー・パワー、奇跡的な力を得た事に喜ぶ主人公ですが、ある時、この力が、人類を正しく導き、幸せにするためのものである事に気付かされ、いろいろ苦労する事に。自分の願いを叶えるためではなく、人の幸せを実現するために、四苦八苦する主人公ですが、途中、再び神様と出会います。その神様は、ある家のモップがけをし、天井の切れた電球を取り替え、これが、自分の仕事なんだ、と説明します。人間の社会のいろいろな汚れを拭い、世界の中で壊れたところがあれば修理し、人々が幸せに暮らせるように働かれている。それが私だ、と、神様を演じるモーガン・フリーマンの姿に心打たれました。オチで、確か電球に、「光よあれ!」 “Let there be light!”と言ってた気がしますが、はて、主人公だったか・・・モーガン・フリーマン演じる神様だったか・・・ちなみに、「光よあれ」は、創世記に登場する神様のことば、全世界の創造のことばでもあります。

ウクライナで、無残な戦火の様子を見ます。瓦礫の山となってしまった、かつてはそこに、市民の喜怒哀楽が満ちていたであろう、普通の住宅を見ます。戦争を始めるのも大変でしょうけれど、戦争を終え、戦争の片付けをするのはもっと大変です。嘆き、悲しみ、憎しみや怒り、敵意、憤り・・・心と魂の後片付けは、いったい、誰が、どうやってするのでしょうか・・・。

人間の愚かさを、神様も、目の当たりにしています。今日、私たちのもとに起こった事を、神様もともに体験しておられます。私たちだけでは決して、片付かない、片付けられない、片付けられるはずもない、人生の傷、痛み、罪、その全てを、十字架という姿でご自身に、一身に、引き受けてくださったイエス様だけが、私たちの人生に、社会に、心に、魂に巣食っている汚れを拭い去ってくださる。この事を今一度、心に留めながら、祈り心とともに、モップを片付けました。真っ黒になったバケツの水を捨てて。

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

旧約聖書 イザヤ書43章25節

出典元・・@映画 ブルースオールマイティより

 

 


2022年03月20日