岸和田聖書教会・栗原牧師が毎日お届けする聖書のお話。日々の生活の中心に神様との交わりと、恵みを味わう時として用いてください。「ブレッド・オブ・ライフ」でのデボーションで与えられた祝福を証し、さらに主に似たものとなるために、お互いに励まし合いましょう。ご質問などHP上からはセキュリテイー上できませんが、教会ブログから行うことが出来ます。記事最下部の「コメント」欄から直接牧師へ送信することが出来ます。メールアドレスの書き込み欄もありますが、任意です。お手数ですが、ご理解・ご協力いただけますよう、お願いいたします。

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ブレッド・オブ・ライフ 08

8/8
(『みことばの光』の聖書日課は、8/7(金):ルカ15:11~24、8(土):ルカ15:25~32ですが、昨日、私は箇所を間違えていました(ルカ15:11~32)。というわけで本日は、『みことばの光』では9(日)の箇所であるルカ16:1~13よりメッセージします。)

 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
 ルカ16:9

 「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。」(8)
いつも首をかしげてしまいます。なんでほめるの?不正じゃないか(1~7)。しかし主人は、この人がしたことを「良いことだ」とほめているのではありません。ほめた後で、再び彼に財産管理の仕事をさせたとも言われていません。実際、このたとえ話はここで終わり。
その後でイエスのメッセージが記されています。
「この世の子らは、自分と同じ世代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。」(8)
「光の子ら」とはクリスチャン、イエスを信じる人。「この世の子ら」とは信仰のない人。
あのたとえ話は、この世の子らは、何としてでも生き抜くために知恵を絞って行動する。その賢さは光の子らをしのいでいる、ということを示しているのです。
 これに続くのが冒頭の聖句。また首をかしげてしまいます。不正の富で友をつくる?その友たちが永遠の住まいに迎えてくれる?ますますわかりません。どういうことでしょうか?
まず「不正の富」とは「不正をして金を稼げ」ということではありません。あとでイエスは、弟子たちに、こうも言われました。
「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか?」(11)
「不正の富」とは「まことの富」すなわち福音に対応して語られています。「不正の富」とは「この世の富」と言い換えることができるでしょう。イエスはこの世の富で自分のために友を作れ、と言います。お金をつらつかせて改宗させよ、ということではありません。神が与えられたこの世の富を上手に用いて、人を信仰に導けということ。「富がなくなったとき」とは、すっからかんになったときではなく、この世におけるなすべきわざをなし終えたとき。永遠の住まいに迎えてくれるのは、神であり、イエスご自身ですが、同時にそのとき、彼が信仰に導いた友たちが、彼のしたことの証しをしてくれるのです。
 このイエスのメッセージのまとめは以下のとおり。
「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(13)
イエスは「神は善で富は悪」と言っているのではありません。「不正の富」と表現しますが、富の積極的な利用を勧めています。ではどういうこと?神は目的で富は手段なのです。
しもべは神という主人に仕えるために、与えられた富を使うのです。中途半端にではなく大胆に。これが逆になると、富が目的で神が手段。これをご利益宗教と言います。しかしまだやっかいなことがあります。主人が何か?中途半端になることです。「二人の主人に仕えることはできません」、「神と富とに仕えることはできません」とは、そのような人の揺れ動く姿を表しているのです。
 あなたは与えられたもの(富や能力)を神さまのために大胆に使っていますか?中途半端になっていませんか?
 何のために生きているのか?働いているのか?勉強しているのか?中途半端になっていませんか?
「この世の子らは、自分と同じ世代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。」(8)
イエスさまは、このような現状に満足されていません。

 おはようございます。
 今日も暑い!あついですねえ。コロナに気をつけつつ、熱中症になりませんように。私はいつも小さい魔法瓶を携帯しています。冷たい麦茶です。
 明日は主の日。昨日お知らせしたとおり礼拝をお献げします。最高の礼拝を献げるために最高の準備をしましょう。
 

 シャローム
 純人

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8/7
 父は彼に言った。「子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」
 ルカ15:31

 これを聞いた兄息子はびっくりしたことでしょう。しかし、たしかにこのように書かれています。あの弟息子が父に財産を要求したとき、「それで、父は財産を二人に分けてやった。」(12)
弟はすぐにその財産を持って遠い国に行き「放蕩息子」となりました。兄は?弟のようなアホなことはしませんでした。しかし彼は気づいていませんでした。父の財産が全部自分のものだということを。弟息子が帰って来たのを喜んで迎えた父に向って彼は言いました。
「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。」(29)
これは本当でしょうか?兄がウソをついているようには思えません。たしかに子やぎ一匹もらったことがなかった。しかしここにはもう一つの真実がありました。彼は子やぎ一匹ください、と願ったことがなかったのです。兄にとってそれは、自分が戒めを破らず、父に仕えることによって勝ち取るべきものでした。しかしそうではないのです。彼はしもべではありません。雇い人ではありません。息子なのです。たしかに弟が父の生前に贈与を要求するのは大変失礼なことでした。しかし「財産を二人に分ける」ことは、この兄弟が父の子であることのはっきりとした証拠でした。

 イエスが語った三つのたとえはすべてこのように始まります。

「あなたがたのうちだれかが羊を百匹持っていて、」(4)

「また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、」(8)

「ある人に二人の息子がいた。」(11)

すべて、主人公が「持っている(ギリシャ語「エコー」)」から始まります
(三番目の話は、直訳「ある人が二人の息子を持っていた(エコー)。」)。
そうなのです。
パリサイ人たち・律法学者たちも、取税人たち・罪人たちも、もともとは神の所有なのです。神の子どもなのです。そして天の父は、「ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(11:13)
パリサイ人たち・律法学者たちは、神の子どもとして大胆に、願い求めることをしていなかった。良きものとは、求めて与えられるのはなく、自分の行為によって神に認められ与えられるものだと思っていたのです。しかし深いところでは満たされていない、欲求不満が募っていました。そんな自分のかたわらで、あのダメな取税人たちや罪人たちが楽しそうにしているのを見て、彼らはイエスを批判したのです。
 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(32)
三つ目のたとえは、このことばで終わります。何か中途半端なエンディングです。「で(このように言われて、兄は)どうしたの?」と問いたくなります。しかし、これで終わり。この続きは、これを聞いていたパリサイ人・律法学者たちが考えることなのです。いや、これを今読んでいるあなたがどのように応答するのか?あなたは神さまに何と答えますか?
 みことばは聞きっぱなしでは終わりません。

 おはようございます。
 岸和田市の小学校は今日が一学期の終業式。約二週間の「夏休み」を経て、24日(月)から二学期が始まります。先生方が少しでも休むことができたらと思います。
 次主日のお知らせ。8/9(日)は午前7:30、10:30より礼拝をお献げします。コロサイ3:1~4「上を向いて歩こう!」。礼拝では水谷渡兄が信仰の証しをしてくださいます(10:30礼拝のみ)。

・オンラインでの礼拝が可能な方は、ライブ礼拝の有効な活用をお勧めします。
・集まっての礼拝は継続しますが、密を避けるために、十分な距離をとって座ってください
(礼拝堂の着席は各椅子に一人ずつと、両サイドの補助いすに座られる人に限定します)。

・早朝礼拝は座席に多少の余裕があるので、こちらへの参加をお勧めします。

今のこのときを祈りつつ、それぞれが信仰をもって決断し、礼拝を献げましょう。
 昨日のブレッドで「今週木・土曜日の英会話クラスもお休みとなりました。」と書きましたが、土曜日はもともとお休みでした。訂正します。次回、英会話クラスの予定は、8/27(木)、29(土)です。引き続き、講師のジェームズ・モナご夫妻のためにお祈りしましょう。

 シャローム
 純人
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ブレッド・オブ・ライフ
8/6
「あなたがたのうちだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」 ルカ15:4

 イエスは言いました。
「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(7)
この結論に至るために、イエスは一つのたとえを話されました。このたとえのクライマックスが、「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」(5~6)
この直後にあの「結論」が語られたのです。ところで「結論」では、「一人の罪人が悔い改めるなら」とありますが、たとえではそれは、羊飼いが「見つけた」ということ。悔い改めるのは人間ですが、見つけるのは羊飼い、すなわちイエス。主語が違います。これはどのように理解すればよいのでしょうか?時間的には「見つける」方が先。人間は神に見つけられ、神に見いだされたことを知ってこそ、悔い改める、神に立ち返るのです。取税人たちや罪人たち(1)は、イエスのうちに神のまなざしを感じたので、彼の話を聞こうとしてイエスの近くにやってきたのです(1)。そして彼らは悔い改めるのです。
 いなくなった羊を見出した喜びが繰り返し語られます。(5,6,7)。しかしそれ以前に、羊飼いは羊の存在を喜んでいました。羊は羊飼いの所有だからです(4)。「だれかが羊を百匹持っていて」ということばに注目。これは次のたとえでも言われていることです「ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、」(8)。パリサイ人たち、律法学者たちにとっては「罪人」であっても、イエスにとっては彼らはご自身の所有でした。なぜなら、彼らはイエス・キリストによって造られたものだからです。
 あなたは今、自分のことを、どのように捉えていますか?あなたの近くにいる人をどのように考えていますか?

 おはようございます。
 お祈りしていただいているジェームズ兄ですが、まだ、目のまわりのかぶれが完全にいやされていません。今週木・土曜日の英会話クラスもお休みとなりました。どうぞ引き続き、ジェームズ兄のいやしのために、ご夫妻のためにお祈りください。

 シャローム
 純人


8/5
こんにちは。
 本日午前に行われた祈祷会で語り合われたことをもとに記します。聖書を開いて考えてください。

ルカ14:25~35
・「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらには自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」(26)
ここで言う「憎む」とはどういう意味でしょうか?最近読んだルカ12:51~53を参考にしてください。
・33節「そういうわけで」は、その前後で言われたことを結びつけることばです。「塔を完成させるために十分な金があるかどうか費用を計算すること」「戦いに際して敵と味方の兵力をしっかり比較すること」と「自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子となることはできません。」(17)は、どのように結びつけられるのでしょうか?
・「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(27)
「自分の十字架を負ってわたしについて来る」とは、いのちをかけてイエスに従うということです。しかしイエスが捕えられ、イエスが十字架を負われたとき、使徒たちはみなイエスを見捨てて逃げて行ってしまいました。自分の十字架を負ってイエスについて行かなかった。行けなかった。しかし、後に彼らはすべて最後に殉教したと言われています。自分の十字架を負ってイエスについて行ったのです。一体何が起こったのでしょうか?今日の聖書日課でイエスがチャレンジしていること、私たちが難しいと考えることに、私たちが従うために必要なこととは何でしょうか?

 晩の祈祷会は午後7:30からです。中高生オンラインミーティングは午後8時からです。
ともに、生けるイエスさまとの交わりのときとなりますように。

 シャローム 
 純人

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8/4
 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。 ルカ14:24

 「あの招待されていた人たち」とは、招待されたけれど断った人たちのこと(18,19,20)。彼らは主人との関係を持っており、特別に招かれた人たちでした。しかし、みな断りました。
「畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。」(18)
「五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。」(19)
「結婚したので、行くことができません。」(20)
それぞれ理由は違いますが「みな同じように断り始めた」(18)と言われています。どこが同じなのでしょうか?彼らは主人よりも、宴会よりも、そこでの食事よりも、畑を牛を配偶者を優先させたのです。なぜでしょう?彼らがそう思ったからです。畑の方が、牛の方が、配偶者の方があの宴会の食事よりも良きものだと思ったからです。彼らは主人と関係を持っていました。もしかしたら、以前にも宴会に招かれ食事をしたことがあったかもしれません。そのおいしさ、楽しさを味わったことがあったかもしれません。しかし、今、天秤にかけたとき、彼らは主人との食事よりも目の前のものの方が自分を満たす、と考えたのです。
 この話はイエスとともに食卓についていて、イエスの話を聞いていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(15)
と言ったことに対するイエスの答えとしてのたとえ話でした。このたとえが示しているのは、神の民として選ばれ招かれているユダヤ人たちであっても、神の恵みではなく、自分のもの、自分の力に拠り頼み、神の恵み、御子イエス・キリストを退ける。拒まれた福音は招かれていなかった人々(異邦人)に届けられ、それに応える人が起こされる(21~22)。ということ。
 「やがて」神の国で食事をする人は幸いだと、尋ねる人(15)に、イエスは「すでに」神の国で食事をしている(イエスとともにその恵みを味わっている)ことの喜びを強調しているのです。
 あなたにとってイエスさまは何にも変えられない喜びでしょうか?かつてはそうだったけど今は違う。なぜでしょう?どうしたらよいでしょうか?答えはあなた自身の中にあります。

 おはようございます。
 今日は8月4日。いつもならば、子どもたちの夏休みのもうすぐ半分が終わるようなころ。しかし今朝も東光小の子どもたちは元気に登校しました。まだ一学期なのです。今は、どの学校も教室にエアコンがあると聞きます。それにしても大変な学期末を過ごしている子どもたち、先生たちの健康が支えられますように。
 明日は水曜日。午前・午後と祈祷会がございます。明日の聖書箇所はルカ14:25~35。みなで読み、考え、疑問・質問、教えられたことを分かち合って、恵みをいただきましょう。
晩の8時からはオンライン中高生会。先週は、はじめて参加者(中高生)がゼロだったそうです。勉強・部活・そしてこの暑さでしんどい思いをしている子どもたちですが、今週の説教ではありませんが、オンラインで居眠りしてでも、神さまの恵みを受けることができますように。

 シャローム
 純人

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8/3
2020年8月2日(日) 主日礼拝
詩篇3:1~6 「よく眠れますか?」

ダビデの歌

今日から詩篇の「本論」に入る。1篇、2篇は「序論」。詩篇150篇を貫くテーマが示されている。それは「みことばと主」。幸いな人とは、①「主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」(1:2)②「すべて主に身を避ける人」(2:12)。この「主」とは主なる神が油注がれた王(メシア)。「子」とも言われている(2:11)。
これから続いていく詩篇を、私たちはたえず、神のみことばと神の子であるメシアを思い描きながら読み進めて行こう。詩篇は五巻に分かれている。第一巻は1~41篇まで。

「本論」
が3篇からとすると、第一巻は全部で39。うち37はダビデの歌。表題と言えるものはヘブル語の聖書では、1節に数えられる。そこにダビデの名が記されているのが37。単にダビデの作であるというものもあれば、その詩の背景、ダビデの状況を示しているものもある。今日の3篇がそれである。

よく眠れますか?
あなたは毎日よく眠れているか?そうならば神に感謝しよう。ダビデはこのことを心から感謝している(5)。眠れないで困っているか?ならば、この詩によってダビデから眠りの秘訣を学ぼう。ダビデはこのとき、精神的に非常に厳しい状況にあった。自分の子アブサロムからいのちを追われ、逃げていた(Ⅱサムエル15章~)。敵は多くなり、敵はダビデにこう言う。「彼には神の救いがない」(2)。しかしダビデは主こそ自分の盾であると言った(2)。
そして彼はこう言った。「私は横たえて眠り、また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。」(5)。とても眠れないような状況で、ダビデはぐっすりと眠っていた。主が彼を支えてくださるから。ところで、ぐっすり眠る名人といえばイエスである(マタイ8:23~27)。イエスはなぜ、こんなにぐっすり眠れたのか?①疲れていたから。イエスの働きは多忙を極めていた。いつだって眠れた。しかし、この場面は嵐!「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった」(26)。なのに「ところがイエスは眠っておられた」。考えられない。イエスは舟に乗り、寝入ると、波をかぶっても起きなかった。なぜ?「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」(26)。②イエスは信じていたので、父なる神を信じていたので、嵐の中でも眠ることができた。ダビデもまた、同じ信仰を持っていた。
「私は身を横たえて眠り、また眼を覚ます。主が私を支えてくださるから。」(5)。敵がどんなに多くても、どんなに多くの敵に囲まれていても、主が私の盾である。
ダビデはそれを祈りにおいて悟った。「私は声をあげて主を呼び求める。すると、主はその聖なる山から私に答えてくださる。」(4)。具体的には、「主よ、立ち上がってください。
私の神よ お救いください。」(7)と祈るダビデに、主が答えてくださる。「あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を砕いてくださいます。」(7)。
このような祈りの交わりの中でダビデは主がともにいてくださることを信じ、いのちを狙われてもなお、ぐっすり眠ることができた。イエスもまた、多忙を極める毎日の中で、「朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)。この祈り中で、あの御声「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(11)を思い起こし、信仰をもって歩まれた。そしてイエスもまた、嵐の中でもぐっすりと眠ることができた。
みなさんにぜひ、デボーションをすることをお勧めする。だれにも邪魔されずに神さまと、イエスさまと一対一で交わるとき。聖書を読み、黙想し、心にあることをはっきりと打ち明けて、神さまがともにおられることをその都度その都度確信して一日を始めよう。

夜眠れない人には?

『眠られぬ夜のために』カール・ヒルティ
敬虔なキリスト教徒として、神、人間、生、死、愛、などの主題を用いて、現代の預言者とも評されるほどの思想書を書き残した。また、そのようなテーマに深く踏み込んでいながらも、彼の著作には、非現実的な、空想的要素は含まれないという特徴がある。
この本の内容紹介。「眠れない夜はつらい.しかしいたずらに嘆いていないで,我々はそれを,日頃怠りがちな自己反省のための静かな妨げられない時間として活用しようではないか.ヒルティ(一八三三‐一九〇九)は青年に向かってこう語りかける.スイスの法学者・哲学者であった著者が,聖書の言葉を引きつつ人はいかに生きいかに自分を深めてゆくかを諄々(じゅんじゅん)と説く.」
眠れない夜に、神のみことばと主イエス・キリスト臨在に心を傾けていく。私たちは、深い眠りに導かれていくことができるだろう。

説教のときが…

眠る、といえば説教中が一番よく眠れる、という方。どうぞ、平安のうちにお眠りください。神さまへの感謝をもって。
友だちの牧師のお話を紹介する。

ある日曜日、不眠症で悩む人が教会に来ました。牧師の説教が始まると、久しぶりにぐっすり眠ることができました。礼拝後、牧師にお願いしました。「先生、教会堂の椅子を譲ってくれませんか?これさえあれば、毎晩、ぐっすり眠れると思いますので…」。どの教会の会衆にも、讃美歌の時間などは元気なのに、説教が始まった途端、気持ちよさそうに眠ってしまう人がいるものです。しかし、説教が終わるとまた目が覚めるのです。どういう訳でしょうか。牧師になりたての頃の私は、何とか人が眠らないようにと努力したこともありましたが、今は、「この人はお疲れなんだな、ゆっくり休んで疲れがいやされますように」と祈ります。
聖書には、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(詩編127篇2節)と書かれています。眠る人は神に愛されているのです。しかし、「今日は体が疲れているので、先生、教会お休みします」と言って来られる方には、「どうぞ家で休むのではなく、教会に来て、教会で休んで下さい」とお話します。不思議なのですが、教会で眠ったり休むと、心の奥底から疲れがいやされます。現代の人は、心も体を疲れています。あなたは疲れていませんか? 日曜日は、教会に休みに来ませんか?イエスさまは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と語られました。日曜日は教会へ。どうぞいらして下さい。
彼に、この文章を説教で紹介してよろしいか?と尋ねると返事が来た。
「しかし、できるだけいびきをかいたり、隣の人に迷惑をかけないように静かに寝てください、と私は付け加えます。」
主が支えてくださるので眠ることができる。また、眠ることによって「主が私を支えてくださる」ことを知ることもできるのである。

敵をも祝福する

ダビデは、これで終わらない。この詩の最後のことばは、「救いは主にあります。あなたの民に、あなたの祝福がありますように。」。切羽詰まっても、主を信頼し、ぐっすり眠るダビデは、自分だけでなく、他の人のことも祈る余裕があった。ところでこの「民」とはだれか?自分とともにいてくれる民。しかし、今、自分に敵対しているアブサロムも含まれている。「あなたの民」とはイスラエル民族。今、敵対していても、もともとはアブサロムもイスラエル民族。ダビデは敵をも「あなたの民」と言って祝福することができた。なぜ?自分が祝福に満たされていたから。これこそ、苦しみの中でも眠ることができたダビデの行きついたところ。イエスは言われた。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:44~45)。
自分が善人でなく悪人であることに気づき、正しい人ではなく正しくない人であると悟るとき、そして、そんな私に対して恵み深くあられる天の父のあわれみを受けるとき、私たちは敵をも祝福する者とされるのである。神との交わり、デボーションとは、このことに
日々、気づかされ、感謝を新たにする時なのである。

こんばんは。
昨日行った執事会で、今後の主日礼拝について以下のように決めました。

オンラインでの礼拝が可能な兄姉には、ライブ礼拝の有効な活用を勧める。

集まっての礼拝は継続するが、密を避けるために、十分な距離をとって座る
(礼拝堂の着席は各椅子に一人ずつと、両サイドの補助いすに座られる人に限定する)

早朝礼拝の座席に多少の余裕はあるので、こちらへの参加を促す。

プログラムなどの必要な修正は今後考えていく  
・9月の聖餐式は行わない
      
陪餐献金は袋を用意しささげていただく。

以上です。これからも、主の御名が私たちを通してあがめられますように。

昨日まで募りました九州豪雨被害支援献金は77,756円捧げられ、宣教基金から244円足して78000円九州キリスト災害支援センターに送金しました。感謝して報告させて頂きます。
特に人吉聖書教会では会堂、信徒の方々の家が水浸しになり、会堂は床はぎをし、使える場所でなんとか礼拝を守っておられます。ボランティアも熊本県外の受入れは停止しています。必要な支援が届きますように。復旧作業のなかで熱中症やコロナ感染から守られますようにお祈りください。
 

 シャローム
 純人

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2020年7月26日(日) 主日礼拝
マルコ1:12~13 「試練の意味」

聖霊に従う

マルコの福音書でイエスが最初にしたこと、それはバプテスマを受けることであった。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」。罪を犯したことのない神の子が「人となる」ため。
罪人の一人と数えられ、罪人の身代わりとして死ぬため。バプテスマの水からあがられたイエスに聖霊が降った。神の子に聖霊が降る理由。これもまた、イエスが「人となる」ため。
聖霊を受けたイエスの歩み、姿は、神に悔い改め、バプテスマを受け、同じく聖霊を受けた人間のモデルなのである。
バプテスマを受けたイエス。「それからすぐに」(12)。それからすぐに何が起こった?
「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(12)。「追いやる(エクバッロー)」は「投げ出す」という意味。御霊(聖霊)がイエスを荒野にぶん投げた。荒っぽいことをする。ここで大事なのが、「御霊はイエスを」ということ。主語は何か?御霊である。

聖霊を受けたイエスの歩み。その主語は御霊であった。しかし、それはまた、イエスがその御霊のされることに従ったことを表わす。聖霊は強引とも思えることを私たちにされる。しかし聖霊は無理強いしない。イエスが従ったからこそ、荒野に行かれたように、私た
ちも聖霊の導きを選び取るのだ。

試練の意味

聖霊によって荒野に追いやられたイエスは、そこで何をしていたのか?「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。」。四十日:モーセが神に呼ばれシナイ山(ホレブ山)にいたのは四十日。そこであの「十戒」を授かった。エリヤが神に呼ばれホレブ山まで歩いて行った期間が四十日。モーセも、エリヤも、そしてイエスもこの四十日は、孤独であった。実に「荒野(エレーモス)」とは「寂しいところ」という意味(1:35)。この寂しい荒野、孤独の中でイエスは、サタンの試みを受けられたのだ。サタン:悪魔の試み、誘惑を受けた。サタンとは神の敵であり、サタンの試みとは、信じる者を神から引き離そうとする企てである。実にすべての人間は、このサタンの試み、誘惑に負けて、神から引き離されてしまった。しまっている。ここで、サタンは神の子であるイエスに対しても誘惑し、彼を神から引き離そうとした。では、その結果は?誘惑に勝ったのか、負けたのか?私たちは知っている。マタイの福音書、ルカの福音書を読めば、わかる。イエスは、サタンに勝利された。しかし、マルコにはそれが記されていない。なぜか?イエスがサタンの試みを「受けた」。そのことにポイントを置いたからである。しかし、そもそもなぜイエスはサタンの試みに会わなければならなかったのか?神がそんなことを許されるのか?許されたのだ。だってイエスをあの荒野に追いやったのは、神の御霊だったのだから。この試みは、試練であった。試練とは何か?それは、「先がある」ということである。これから先のためにイエスは試練を受けられた。これからいよいよ始まるサタンとの長い闘い、人々を神のもとに取り戻すこの戦いの前に、まず、自分自身がサタンに勝利することが必要であった。このように誘
惑に打ち勝つということを体感する必要があった。
イエスはサタンの試みに打ち勝った。試練を乗り越えて新たな戦いのための備えをした。しかし、聖書にはサタンの試みに負けてしまった人もいる。ペテロは「あなたはイエスの弟子だろう?」と尋ねられて三度も主を否定した。大失敗をした、誘惑に負けたのだ。しかし、これにもまた先があったのだ。彼は自分の力ではサタンに勝利することができないことを知り、よみがえられたイエスに出会い、内に住んでくださる聖霊の力によってのみ勝利することができることを知り、そして本当にそのとおりに、勝利の歩みをすることができた。

イエスを支えたみことば

イエスがこのサタンの試みに勝利することができた中には、みことはの力があった。「人はパンのみによらず、神のことばで生きる」「主を試みてはならない」「主にのみ仕えなさい。」。これはイエスがサタンに対して語った聖書のことばであるが、もう一つ、この場においてイエスを支えたみことばがある。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。バプテスマを受け、聖霊を受けたイエスに父なる神が語られたこのことばは、このサタンの試みの中でもイエスを支え続けた。孤独を私たちは嫌う。しかし孤独とは、神と一対一になる、なれるとき。そこで、私たちもまた、主イエスを信じる者として神のことばを聞く。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。」
荒野に住む恐ろしい獣たち。ひとりぼっちのイエスだけれど、御使いたち、神が特別に遣わされた天使によって守られた。この孤独の中で、その中でこそ、イエスは神の守りを知ったのである。

今、試練の中にいる人。何のためにこんな厳しい目に遭うのか?先があるのだ。その将来のために今、この試練がある。
試みに打ち勝つことができなかったとしても、それを素直に認め、主の赦しを受けるならば、先があるのだ。
試練には意味がある。

シャローム 純人

2020年08月06日

ブレッド・オブ・ライフ 07


ブレッド・オブ・ライフ
2020年7月26日(日) 主日礼拝
マルコ1:12~13 「試練の意味」

聖霊に従う

マルコの福音書でイエスが最初にしたこと、それはバプテスマを受けることであった。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」。罪を犯したことのない神の子が「人となる」ため。
罪人の一人と数えられ、罪人の身代わりとして死ぬため。バプテスマの水からあがられたイエスに聖霊が降った。神の子に聖霊が降る理由。これもまた、イエスが「人となる」ため。
聖霊を受けたイエスの歩み、姿は、神に悔い改め、バプテスマを受け、同じく聖霊を受けた人間のモデルなのである。
バプテスマを受けたイエス。「それからすぐに」(12)。それからすぐに何が起こった?
「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(12)。「追いやる(エクバッロー)」は「投げ出す」という意味。御霊(聖霊)がイエスを荒野にぶん投げた。荒っぽいことをする。ここで大事なのが、「御霊はイエスを」ということ。主語は何か?御霊である。

聖霊を受けたイエスの歩み。その主語は御霊であった。しかし、それはまた、イエスがその御霊のされることに従ったことを表わす。聖霊は強引とも思えることを私たちにされる。しかし聖霊は無理強いしない。イエスが従ったからこそ、荒野に行かれたように、私た
ちも聖霊の導きを選び取るのだ。

試練の意味

聖霊によって荒野に追いやられたイエスは、そこで何をしていたのか?「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。」。四十日:モーセが神に呼ばれシナイ山(ホレブ山)にいたのは四十日。そこであの「十戒」を授かった。エリヤが神に呼ばれホレブ山まで歩いて行った期間が四十日。モーセも、エリヤも、そしてイエスもこの四十日は、孤独であった。実に「荒野(エレーモス)」とは「寂しいところ」という意味(1:35)。この寂しい荒野、孤独の中でイエスは、サタンの試みを受けられたのだ。サタン:悪魔の試み、誘惑を受けた。サタンとは神の敵であり、サタンの試みとは、信じる者を神から引き離そうとする企てである。実にすべての人間は、このサタンの試み、誘惑に負けて、神から引き離されてしまった。しまっている。ここで、サタンは神の子であるイエスに対しても誘惑し、彼を神から引き離そうとした。では、その結果は?誘惑に勝ったのか、負けたのか?私たちは知っている。マタイの福音書、ルカの福音書を読めば、わかる。イエスは、サタンに勝利された。しかし、マルコにはそれが記されていない。なぜか?イエスがサタンの試みを「受けた」。そのことにポイントを置いたからである。しかし、そもそもなぜイエスはサタンの試みに会わなければならなかったのか?神がそんなことを許されるのか?許されたのだ。だってイエスをあの荒野に追いやったのは、神の御霊だったのだから。この試みは、試練であった。試練とは何か?それは、「先がある」ということである。これから先のためにイエスは試練を受けられた。これからいよいよ始まるサタンとの長い闘い、人々を神のもとに取り戻すこの戦いの前に、まず、自分自身がサタンに勝利することが必要であった。このように誘
惑に打ち勝つということを体感する必要があった。
イエスはサタンの試みに打ち勝った。試練を乗り越えて新たな戦いのための備えをした。しかし、聖書にはサタンの試みに負けてしまった人もいる。ペテロは「あなたはイエスの弟子だろう?」と尋ねられて三度も主を否定した。大失敗をした、誘惑に負けたのだ。しかし、これにもまた先があったのだ。彼は自分の力ではサタンに勝利することができないことを知り、よみがえられたイエスに出会い、内に住んでくださる聖霊の力によってのみ勝利することができることを知り、そして本当にそのとおりに、勝利の歩みをすることができた。

イエスを支えたみことば

イエスがこのサタンの試みに勝利することができた中には、みことはの力があった。「人はパンのみによらず、神のことばで生きる」「主を試みてはならない」「主にのみ仕えなさい。」。これはイエスがサタンに対して語った聖書のことばであるが、もう一つ、この場においてイエスを支えたみことばがある。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。バプテスマを受け、聖霊を受けたイエスに父なる神が語られたこのことばは、このサタンの試みの中でもイエスを支え続けた。孤独を私たちは嫌う。しかし孤独とは、神と一対一になる、なれるとき。そこで、私たちもまた、主イエスを信じる者として神のことばを聞く。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。」
荒野に住む恐ろしい獣たち。ひとりぼっちのイエスだけれど、御使いたち、神が特別に遣わされた天使によって守られた。この孤独の中で、その中でこそ、イエスは神の守りを知ったのである。

今、試練の中にいる人。何のためにこんな厳しい目に遭うのか?先があるのだ。その将来のために今、この試練がある。
試みに打ち勝つことができなかったとしても、それを素直に認め、主の赦しを受けるならば、先があるのだ。
試練には意味がある。

シャローム 純人

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7/25
 イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。 ルカ11:37

 このようにして始まった食事会。しかし、そこで語り合われたことは終始穏やかでありませんでした。イエスが食事の前に「きよめの洗い」をしないのを見てパリサイ人は驚きました。それを知ったイエスがパリサイ人、および律法の専門家に語ったことが今日の聖書日課。
・外側はきよめても、内側は強欲と邪悪で満ちている(39~41)。
・規定通りの献げ物はしているが、正義と神への愛はおろそかにしている(42)。
・会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ(43~44)。
・人々には負いきれない荷物を負わせるが(「律法を守れ!」)、自分は、その荷物に指一本触れようとしない(46)。
・「わざわいだ。おまえたちは(旧約の)預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。」(47~48)。
・「わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」(52)
どうですか?穏やかでない。して、その結果は?
「イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問を始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである。」(53~54)
それは、そうなるだろうと思います。このこともまた、イエスが十字架につけられる、そのためのプロセスとなりました。イエスと律法学者・パリサイ人の対立構造がさらに浮き彫りになりました。このときのムードはどんなだったでしょうか?険悪そのもの。しかし、最初はそうではありませんでした。もう一度、冒頭の聖句をご覧ください。最初にイエスを自宅に誘ったのはパリサイ人でした。食事を共にするということは、親しい関係があるか、相手に対して好意を持っている上で行うこと。実はルカの福音書には、パリサイ人がイエスを招く場面が他にもあります。
「さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。」(7:36)
「ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。」(14:1)
14章の方は、明らかにイエスを試そうとしていたことが後でわかります。が、大嫌いで顔も見たくない相手だったら、そもそも食事に招くことなどしないはず。しかしパリサイ人たちはたびたびイエスを招きました。自分たちに対して批判するイエスであっても、彼と交わりたい。そのような願いがあったのです。イエスもまた、パリサイ人の招きに応えます。彼がパリサイ人・律法学者に語ったこと、批判は、すべて本当のことでした。しかしイエスはそれらを真剣であっても意地悪く語らなかったことでしょう。ストレートに語りつつも、関係を切ろうとはしていない。最終的に関係を切り、イエスを十字架につけたのはパリサイ人たちでした。今日の聖書日課、イエスの語りの中に、イエスの彼らへ愛を見出すことができたら、それは深い学びとなります。イエスは、まさに彼らのイエスを拒んだというその罪のために十字架にかかってくださったのです。

シャローム 純人

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7/23
「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」 ルカ11:13

 イエスが悪霊追い出しをしているのを見た群衆の中のある者たちは、イエスは「悪霊どものかしらベルゼブル」によって悪霊を追い出している、と言いました。これに対してイエスは答えます。
・サタンが仲間割れしたらその国は立ち行かない。(しかしサタンは変わらず猛威を奮っている)(17~18)。
・あなたがたの仲間も悪霊を追い出しているが、それは何によってなのか?彼らは「ベルゼブルによって悪霊を追い出しをしている」などとは決して言わないだろう。彼らこそ、今あなたがたが言っていることばをさばくだろう(19)。
そしてこう言われました。
「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(20)
イエスによって悪霊が追い出され、神の国(神の支配)がやってくる。すべての人はアダムとエバ以来、みなサタンの支配の中に置かれています。イエスを信じて救われるとは、彼によってその人から悪霊が追い出されるということ。それは良いことですが、それだけではいけない、とイエスは言われました。24~26節です。
 汚れた霊が「出て来た自分の家に帰ろう」と考えました(24)。「家」とは人間の心。かつてそこに汚れた霊は住んでいたのですが、イエスによって追い出されてしまいました。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。」(25)
部屋を散らかすのが得意な私などは、これは「良いこと」だと思いますが、この文脈では良くないことなのです。このように続きます。
「そこで出かけて行って、自分より悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」(26)
部屋が片付いていない、散らかっている方が良い、ということではありません。部屋の中に住人がいないことがまずいのです。だれもブロックしないので、悪霊が再び住みつき、前よ
りもっとひどい状態になるというのです。ここでいう「住人」とは何か?聖霊です。人の心から悪霊が追い出され、その人は神によって救われるのですが、その心には新しい住人である聖霊が住まなければならないのです。神の支配を喜び、楽しむよう導かれる聖霊が住んでこそ、救われた喜びを味わうことができるのです。
 冒頭の聖句は昨日の聖書日課の最後のことば。イエスが語られました。あなたが天の父に自分の必要を心から求めるならば、神はあなたに聖霊を与えてくださるのです。どうぞ「しつこく」神さまに祈ってください(8)。あなたの欲しいものを。そうすれば、神さまはあなたに聖霊を与えてくださいます。あなたの心は変えられます。あなたの祈りが変えられます。あなたは聖霊に満たされるのです。悪霊が追い出されたあなたの心を「空っぽ」にしてはいけません。

 おはようございます。
 本日は「海の日」。明日は「スポーツの日」。連休ですね。明日は、東京オリンピックの開会式が行われる予定でした。一年前、まさかこんな(コロナ禍)ことになるとはだれも思っていなかったでしょう。でも祝日は祝日です。みなさんのからだと心が休まりますように。というわけで本日の英会話クラスはお休みです。 
 よい休日をお過ごしください。

 シャローム
 純人

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7/22

こんばんは。
 今日の午前の祈祷会で語り合われたことをもとに3ポイント示します。ぜひ、聖書を開いて考えてください。

 ルカ11:1~13
・あなたの祈りには、イエスの語られたたとえの中に出てきた人の「しつこさ」(8)がありますか?「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」(9)とは、神にしつこく願うことなのです。
・「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(13)
 ここでは「何を」求めるかは言われていません。私たちが、自分の心のうちにある本当の願いをしつこく願い、祈るとき、神さまは私たちに聖霊を与えてくださいます。それは私たちの心が変えられることであり、祈りが変えられることです。
・「祈るときには、こう言いなさい」とイエスが勧められた2~4節「主の祈り」(ルカバージョン)。この祈りはイエス自身が祈ったものでしょうか?イエス自身の祈りではないけれども、弟子たちが祈るべき祈りとしてイエスが教えたものでしょうか?

シャローム
 純人


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7/22
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。 ルカ10:42

 ある律法の専門家とイエスが対話をしました。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」
「律法には何と書いてありますか?あなたはどう読んでいますか?」
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』とあります。
「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
「では、私の隣人とはだれですか?」
そこでイエスが語られたのが、いわゆる「良きサマリア人」の話。
エルサレムからエリコに下る途中のユダヤ人が強盗に襲われ、半殺しにされます。同じくユダヤ人である祭司やレビ人(二人とも宗教的指導者)は、この倒れた男を見ても、すーっと反対側を通り過ぎて行きました。しかし(先週も学びました)ユダヤ人とは犬猿の仲と言われているサマリア人の男が旅の途上でこの傷ついた人を見つけ、手当てをし、連れて行った宿屋の主人にデナリ二枚(二日分の給料に相当)を渡しながらこう言います。
「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
イエスはこの話を語り終えると、律法の専門家に尋ねます。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか?」
専門家は「サマリア人」と言いたくないので、こう答えました。
「その人にあわれみ深い行いをした人です。」
イエスは言われました。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」
「私の隣人とはだれですか?」と尋ねる専門家にイエスは、「だれが隣人になったか?」と尋ね返したのです。
 ところで、このサマリア人、旅をしていたとありますが、どこに向かおうとしていたのでしょうか?彼は宿屋の主人に、「私が帰りに払います」と言いました。そうです。彼はサマリアからエルサレムに向かう途中であのユダヤ人を助け、エルサレムに行った帰り道に足りない分を支払うと約束したのです。エルサレムに何しに行ったのでしょうか?神殿で礼拝するためです。ユダヤ人から見ればサマリア人は混血人種であり、宗教的にも「あやしい」と考えられていました。しかし彼は、エルサレムに主を礼拝しに行く純粋な信仰を持っていたのです。彼は主なる神の招きを受けて、素直に出ていく信仰者でした。そんな彼だからこそ、あの傷ついたユダヤ人を「兄弟」として助けたのです。そうそう、強盗に襲われたユダヤ人も、祭司やレビ人もエルサレムで神殿礼拝をした帰り道でした。「兄弟」をスルーした指導者たちは、礼拝でどんな恵みを受けたのでしょうか?
 神の招きを受けた人として、そしてその招きに答えた人として次のお話では、マリアがとりあげられています。たしかにイエスは客として招かれました。マルタは迎える側としてイエスをもてなすために一所懸命。だから何もしないでただ主の足もとでみことばを聞いているマリアを見て腹を立てます。そしてイエスに、自分の手伝いをするようにマリアに言ってくれ!と願いました。イエスはマルタが心を乱していることを指摘して言いました。冒頭の聖句。マリアが選んだ「良いほう」とは、もちろんイエスのみことばに耳を傾けることです。もてなすことよりもみことばを聞くことが大事だ、と言うことができます。しかし、マリアがみことばを聞いたということは、イエスの招きを受けて、それに答えたということでもありました。イエスは客人でしたが、マリアはイエスに招かれていると自覚し、その招きを喜んだのです。主なる神の招きを受け、それに答えたあのサマリア人がその途中で見つけたユダヤ人を助けたのと同じように、今、イエスの招きを受け、それに答えたマリアもまた、その後、喜んでイエスをもてなしたのではないでしょうか?
 「永遠のいのちを受け継ぐ」ためには「それを実行する」ことだとイエスは言いました。
しかし、なぜ実行できるのか?なぜ神と隣人を愛することができるのか?それが大切です。
なぜですか?神が愛してくださったからです。その招きを受けて、それに答えたから。だから私たちは良い行いをすることができるのです。
シャローム 純人

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2020年7月19日(日) 主日礼拝
コロサイ2:16~23 「偽物の特徴~思い上がり~」

教会の中にあった問題~みんな聞いている~

パウロの手紙は「教科書」ではなかった。「キリスト教はこういうものですよ」という入門書ではない。そこには必ず宛先があった。「コロサイ人への手紙」。小アジアの一都市コロサイにあったキリストの教会、そこにいる聖徒たちに対して語られた。そして、手紙が書かれた目的があった。コロサイ人への手紙であるならば、誤った教え(異端)が教会の中に入ってきたこと。それは、迫害など教会の外からくる問題ではなく、教会の中にあった問題。その問題を聞かされたパウロが書いた手紙。ということは、この手紙が読まれた時その場には「みんな」がいた。みんなの中には、先週の箇所で言えば「まことしやかな議論」をする者たち、「あなたがたを惑わす」者たち(4)、「あのむなしいだましごとの哲学」によって聖徒を捕えようとしている者たち、「人間の言い伝え」「もろもろの霊による」ことを、あっちこっちで言いふらす者たち(8)がいた。「キリストによるものではない」教え、「キリストでは足りない」と言う者たちがいた。この手紙が朗読された時、そこには、これらの異端的なことを語る者たちもいた。このようなことに頭を悩ませている者たちもいた。またこれは、はっきり分けられるようなことではなく、そのような異端的な教えに引き込まれそうになっている者たちもいた。そういうことを言い始めた者たちもいた。「ちゃんと信じている人」だけが聞いていたのではない。異端的な人をのけて、まっとうな人だけが聞いていたのではない。つまり、今日の箇所の最初のことばで言うならば、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。」(16)
の「だれか」が、その中にいたということ。ユダヤ教的な「食べて良いもの、悪いもの」これを守らなければ救われない。日や月や年の儀式をきちんと守ること。これを守らなければ救われない。それが「できてない!」と批判する人たちがその中にいた。
これは非常に緊張感のある場面である。

偽物の特徴~思い上がり~

そのように考えながら読んでいくときに気づく。パウロは、単にこれらの異端、偽物の特徴を示しているのではない。そこには、まさにそのような人たちがいた。
「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、」(18)
そこには、信者を断罪する者がいた。自己卑下とは「謙遜」と訳すことができることば。謙遜そうに見えるけれど、思い上がっている。仲介者である天使や、自分に特別に示された幻に拠り頼んで、自分はそれを持っている、知っていると思い上がって「キリストだけは足りないのだ」と、聖徒の信仰を揺るがす者たちがいた。

本物を見よ!~かしらに結び付け~

「つかむな、味わうな、さわるな」(21)。そうすれば救われる。どうして、こう定めに縛られるのか?そういうことを言う人がいるから。
しかし、パウロは、偽物を異端を示すだけでなく、やはり、こう言う「本物を見よ!」。
「これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(17)
「かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。」
(19)
「もしあなたがたがキリストともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、」
(20)
彼は真理を提示する。「使ったら消滅するもの」(22)。主イエスは言われた。「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることがわからないのですか?」(マタイ15:17)。
「これらの定めは…肉を満足させるだけです。」(23)見た目が良いものなので、「知恵のあることのように見え」るが、人が救われるためには、何の価値もない。それはただの自己満足だ。
これらのパウロのことばは、異端を持ち込む人々への警告であり、また「主イエスのもとに帰ってきなさい」という招きなのである。
 あなたは、今日の聖書のことばを、どの立ち位置で聞くだろうか?あなたは今「キリストだけで十分」と信じていることはたしかである。しかし、もし聖霊がみことばを通してあなたに語っているならば(叱責や警告)、その声に耳を傾け、思い巡らそう。悔い改めることがないだろうか?

シャローム 純人

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7/18
 今日から『みことばの光』の聖書日課は、新約聖書「ルカの福音書」。今回は9章51節から。
「ルカはイエスの三年にも及ぶガリラヤ周辺での活動を記した後、十字架に架かるためのエルサレムへの歩みを、約十章を費やして書き記した。この間の出来事をマタイは二章(マタイ19~20章)、マルコは一章(マルコ10章)しか費やしていないことから、ルカが十字架に架かる前の半年間の出来事に注目していたことが分かる。」(『みことばの光』7月号より)
今日から読むのはこの「約十章」(9:51~19:48)。8月19日(水)まで一カ月、ルカの福音書から学びます。
 今日の聖書日課は、このことばで始まります。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」(51)
まさに三年間のガリラヤ伝道に区切りをつけて、イエスがエルサレムに行く決心をしたことがわかります。「天に上げられる日」とは、昇天のこと。イエスはわかっていました。エルサレムに行き、十字架に架かり→復活し→昇天されることを。イエスが御顔をエルサレムに向けたとは、彼が「腹をくくった」ことを表わしています。
 エルサレムに向かう途中、イエスはサマリアを通って行かれました。昨日まで列王記で学んだあのサマリアです。イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人は仲良くありませんでした。
南ユダと北イスラエルだから、ということではありません。昨日読んだように、アッシリアに滅ぼされたサマリアには多くの外国人が入ってきました。サマリアには雑婚があり、主を礼拝するといっても多くの異教的要素が入っていました。純血を標榜するユダヤ人たちは、このようなサマリア人を軽蔑し、サマリア人もまたユダヤ人を憎んでいました。今日の箇所でサマリアに入ったイエスが、「御顔をエルサレムに向けて進んでいたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。」(53)
とあります。そりゃそうだろうと思います。サマリアに来たのに、サマリアの町、人々には目もくれずエルサレムを見つめ続けているのですから。「おまえたちなど眼中にない」と言いたいのか?イエスもサマリア人に対してはステレオタイプのユダヤ人なのか?しかし、この状況を見て、「主よ。私たちが天から火を下して、彼ら(サマリア人)を焼き滅ぼしましょうか?」(54)
と問いかけるヤコブとヨハネ兄弟に対してイエスは叱られました。福音書においてイエスが「叱る」ということは、数少ないことでした。しかし、たとえイエスがサマリア人を滅ぼすことを考えていなかったとしても、なぜ彼はあえてサマリアに行かれたのか?サマリア人を無視しているような態度を示すために、そしてサマリア人に拒絶されるために、わざわざそこを通って行かれたのか?このイエスのサマリア行きにはどんな意味があったのでしょう
か?
 ありました。やがて十字架に架かり、復活されたイエスは、昇天される直前、弟子たちにこう言われました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
福音はエルサレムから「はねかえって」、もう一度サマリアにやってくるのです。かつて自分たちが拒絶したイエスは、死んでよみがった救い主である。その福音です。再びこの福音がやってきたとき、サマリア人たちはこの出来事を思い返すのです。イエスはエルサレムに顔を向けられ、見つめ続けられました。しかしサマリア人を無視していたのではありません。彼は、これから行こうとしているエルサレム、その向こうにあるサマリアを見つめておられたのです。

 こんにちは。
 今日は日が照っていますね。暑くなってきました。午前は英会話クラス。ジェームズ・モナと子どもたちの歌声が響いていました(もちろん英語の歌)。
 明日は主の日。礼拝を主にある交わりを喜び楽しみましょう。

 シャローム 純人

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 7/17

こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた。 Ⅱ列王17:28

 アッシリアによって滅ぼされた北イスラエル王国。首都サマリアにいた民は捕囚となり、空になったサマリアの町々にはアッシリアが征服した国々の人々が移住してきました。そのときのことです。
「彼らはそこに住み始めたとき、主を恐れなかったので、主は彼らの中に獅子を送り込まれた。獅子は彼らの何人かを殺した。」(25)
偶然ではありません。これは主がされたこと。主を知らない人々ですが、彼らはアッシリアの王に報告しました。これは入ってきた民がこの土地の神についての慣わしを知らないからだ、と。アッシリアの王は北イスラエルの祭司の一人をサマリアに送って、彼らの神(主のこと)についての慣わしを教えさせるよう命じました。これに続くのが冒頭の聖句。結果、獅子はもう出てくることはなかったようです。しかし、
「しかし、それぞれの民は、それぞれ自分たちの神々を造り、サマリア人たちが造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分が住む町々でそのようにした。」(29)
サマリアの町々は偶像のデパートと化してしまったのです。聖書記者はこう説明します。
「彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは主を恐れることなく、主がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。」(34)
国々の民は主を礼拝していましたが、そこに主への恐れはありませんでした。かたちだけの礼拝であり、みことばを聞いて主に従うということがなかったのです。そしてそのような生き方は、彼らの子たち、孫たちにも引き継がれていったのです(41)。
 主は人々に、ただ主だけを恐れ、礼拝し、ほかの神々を恐れてはならない、礼拝してはならないと言われました(34~38)。その報いは何か?
「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」(39)
「すべての敵の手」から救われるのです。しかし彼らは、獅子のわざわい、一時的な苦しみが去ると、かたちだけは残すものの主を恐れ礼拝することをやめてしまいました。
 なぜこのようなことになったのか?その理由が冒頭の聖句に示されています。「サマリア
から捕らえ移された祭司の一人」とはどんな人物か?祭司です。しかし、その祭司とはどんな祭司か?北イスラエルの祭司です。みなさん覚えていますか?かつてヤロブアムが金の子牛をベテルとダンに安置したときのことを。
「それからは彼(ヤロブアム)は高き所の宮を造り、レビの子孫ではない一般の民の中から祭司を任命した。そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。」(Ⅰ列王12:31~32)
南ユダから見れば、北イスラエルの祭司は「偽物」でした。レビの子孫ではないのですから。これらの祭司たちは初めから金の子牛にいけにえを献げました。それがエジプトから彼らを連れ上ったもの、すなわち主を表わしていたとしても、明らかに十戒の第二戒「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」(出エジプト20:4)に対する違反でした。昨日の聖書日課、滅ぼされた北イスラエルについての「まとめ」にはこのように記されています。
「(北イスラエルの民は)彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕え
た。」(16)
金の子牛というのは、それで終わらなかったのです。それに続けて異国の、異教の神が、天の万象が礼拝の対象となりました。それから200年間、北イスラエルの人々は、「ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかった」のです(22)。
この国の祭司なのです。彼が教えたのは主への礼拝でしたが、そこ(ベテル)には金の子牛があり、他の神々があったのです。これを見て聞いた人々(入植された人々)は、「ああそうか、そうやって礼拝するのか」と思ったことでしょう。彼らが主を礼拝しながら、自分たちの神々を礼拝したのは、当然の成り行きだったのです。
 私たちは祭司ではありません。しかし私たち一人一人を通して、その姿を見て、人々は神さまを礼拝することを学ぶのです。恐ろしいことです。「私はこんなんじゃない」と思いたいですが、この祭司のような弱さや罪深さがあります。ならばどうすればよいか?悔い改めるのです。あわれみ深い主に立ち返るのです。そのたびそのたび。私たちが人々に見せることのできるのは、悔い改め、主に変えられ続けるその姿なのです。

 こんにちは。
 次主日のお知らせ。7月17日(日)は、午前7:30、午前10:30より主日礼拝をお献げします。コロサイ2:16~23「偽物の特徴~思い上がり~」。午前8:45からはCS(幼小科)、9:15からは中高生会が行われます。礼拝後は日曜婦人会。栗原弥希姉が証しをします。また中高生会スタッフミーティングもございます。神さまを礼拝するために良い準備をしましょう。そしてこの日を喜び楽しみましょう。
 本日牧師は午後、浜寺聖書幼稚園職員礼拝でメッセージをします。先生たちの姿を通し
て、子どもたちに福音が届きますように。
 今日のバースデー。本日7月17日は中川五夫兄のお誕生日です。おめでとうございます。
五夫さんの上に、新たな一年、主の祝福がありますように。

 シャローム 純人

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7/16
イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったの
で、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。
 Ⅱ列王17:22~23

 第二列王記17章で北イスラエルに関する記述は終わります。この国が滅亡したからです。
すでに北イスラエルはペカ王の時代にアッシリアに攻め込まれ、捕囚は始まっていました(15:29)。しかし本当の終わりが来ました。最後の王はホセア。その治世の第九年
(BC721年)のことです。
「ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。」(6)
首都サマリアが陥落し、さらなる捕囚が進められました。
 今日の聖書日課は、北イスラエルについての「まとめ」と言える記述。
「こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」(7~8)
ソロモンの子レハブアムの時代、統一王国イスラエルが分裂しました(BC933年)。それは、当然北イスラエルだけでなく南ユダの歩みも始まったということ。主は預言者を通して北にも南にも警告されました。悪の道から立ち返り、律法に従い、主の命令と掟を守れと(13)。しかし、北イスラエルは主の警告を蔑み、周囲の異邦の民に倣って歩みました。
「そのため主は(北)イスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から除かれた。」(18)
北イスラエルは約200年存続した後、滅亡したのです。冒頭の聖句はこれらの「まとめ」の「結び」の文章。
 ヤロブアム。この名前を忘れてはいけません。忘れることなどできません。北イスラエル王国最初の王。彼によってこの国の進路は決定したと言っても過言でない。今まで列王記を読み進めている中で、何度もこのフレーズが出てきたことを覚えておられるでしょう。
「彼は主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた罪の道に歩んだ。」(Ⅰ列王15:34)
北イスラエルの王のほぼすべてが、まるで判を押したように「ヤロブアムに道を歩んだ」と言われています。
 ここでもう一度だけ「ヤロブアムの道・罪」について確認したいと思います。ヤロブアムの罪とは、具体的に言えば、金の子牛(の像)を造って民にそれを拝ませたことです。そして、歴代の王が受け継ぎ、民が続けたことも、この金の子牛礼拝です。この「金の子牛」。
一体ではなく二体だったのですが、この金の子牛は異国の、異教の神ではなく、主を示していたことをご存じですか?以下のとおり。ヤロブアムが北イスラエルの民に言いました。
「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」(Ⅰ列王12:28)
この「神々」が二つの金の子牛。それは「あなたをエジプトから連れ上った」もの。そう、
主を表しているのです。しかしヤロブアムはなぜ、こんなことをしたのか?その理由こそが彼の罪でした。以下のとおり。
「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国(北イスラエル)はダビデの家(南
ユダ)に帰るだろう。この民が、(南ユダの都)エルサレムにある主の宮(神殿)でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』」(Ⅰ列王12:27)
この気持ち、よくわかります。たしかに神殿はエルサレムにあるのですから。しかし、ヤロブアムは信じなければななりませんでした。何を?主のことばを。
「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」(Ⅰ列王11:38)
目に見える状況がどんなあやういと思えても、彼が主を信頼し、その命令を守るなら、主はヤロブアムの王国を建て上げられるのです。しかし、それができなかった。不信。これこそが、ヤロブアムが金の子牛を造り、民に拝ませた理由であり、彼の根本的な罪でした。
 偶像礼拝とは、不信(主を信じないこと)の結果であり、主ではない目に見える何かを信じることなのです。悔い改め(立ち返ること)とは、この自分の不信の罪を認め、改めて主なる神を信頼するということなのです。

 こんにちは。
 雨がやんで日が照っていますが、風が気持ちよく吹いているお昼です。本日は午後に英会話クラスがございます。先週から再開しましたが、新しい方も加えられています。今日もジェームズ・モナご夫妻を中心に、みなが楽しく英語を話し、心を通わすことができますように。本日、牧師は夕方「ラヂオきしわだ」の番組「バイブルスタディ」の収録に行きます。駅前の道路の向こう側にあるスタジオで録音します(めっちゃ近い!)。30分番組で、20分以上がメッセージです。聖書のみことばを語り、教会の案内もしっかりやってきます!放送日は8月の予定。ちなみにこの「バイブルスタディ」。毎月第一日曜日は鍛冶兄が担当されています。FM79.7。日曜日の朝8時からです。みなさんもぜひ、お聴きください。これを聴いた方が、その日の10:30の礼拝においでになりますように。
シャローム 純人

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7/15

こんにちは。
 本日、午前に行われた祈祷会で、分かち合われたこと、語り合ったことは、以下の通りです。

 Ⅱ列王16:1~20
 南ユダ王アハズの話。
・「主の目にかなう」ウジヤ(15:3)、その子の「主の目にかなう」ヨタム(15:34)。
その子のアハズなのになぜ、「主の目にかなうことを行わなかった」(2)のでしょうか?
・アハズは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに言いました。
 「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。」
(7)。本来なら、まったく同じことをアハズは主に言うべきでした。アハズはなぜ、主に
ではなくアッシリアの王にこのように言ったのでしょうか?
・主に頼ることなくアッシリアを頼みとし、それでいながら、
「私は求めません。主を試みません。」(イザヤ7:12)
と一見信仰深そうなことを言うアハズ。けれどもイザヤはアハズの心を見抜いてこう言います。
「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。」(13)
そして、あのことばを語りました。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている、そして男の子を産み、その名をインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ぶ。」(14)
「それゆえ」と言われていますが、「それゆえ」とは「なにゆえ」でしょうか?

 こんにちは。
 晩の祈祷会は7:30からです。神さまのみことばを聞いて元気になって週の後半に向かっていきましょう。
 午後8:00からは、中高生会オンラインミーティングも行われます。テスト期間に入っている子どもたちもいます。祈りつつ、勉強がはかどりますように。

 シャローム 純人

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2020年7月12日(日) 主日礼拝
コロサイ2:1~15 「本物を見よ!」

偽りの教えの存在 

2章に入り、パウロはこの手紙を書いた中心的な目的に触れていく。その目的とは偽りの教え、異端的な教えからコロサイの、あるいは近隣のラオディキアの教会の聖徒たち、まだパウロと会ったことのない人たちを守るためであった(1)。偽りの教えとはどんなものか?
今日の聖書箇所から拾ってみると…。「まことしやかな議論」、「あなたがたを惑わ(4)、「あの空しいだましごとの哲学」、「だれかの捕らわれの身になる」、「人間の言
い伝えによるもの」、「この世のもろもろの霊によるもの」(8)。いろんな言い方をしているけれど、それはまとめて言えば「キリストによるものではありません」(8)。キリストによるもののように見えてそうではない。ここで言われている偽りの教えとは異教ではなく、異端。キリスト教のようでそうではない教え。教会の外ではなく中にあった問題。

本物を見よ!

それで「キリストによるものではない」教えとは何か?「キリストでは足りない」ということ。昔も今も異端とはそういうものである。キリストも大切だけど、それだけでは救われない。議論が必要、哲学が必要、言い伝えが(それを守ることが)、もろもろの霊が、割礼が、儀式が必要なのだ、と言う。しかし、パウロはそれらを否定することよりも、偽物を必死に示すのではなく「本物を見よ!」と激しく迫った。今日の聖書において「キリスト」はどのくらい登場するか?(1章の「御子」同様、原文では代名詞「彼」で受けていることばもあるが)。「キリスト、これで十分、足りないものはない」ということを念頭において確かめよう。1節にはない。しかし2節「神の奥義であるキリスト」、3節「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」4節は偽りの教えのことについてだから、キリストは出てこない。でも5節「キリストに対する堅い信仰」。以降、6~15節まですべての節にキリストが登場する。14節は出てこないけれど、「十字架」とはキリストの十字架のこと。
キリストを、本物を見つめ続けるとき、偽物がわかってくる。私たちはみことばを本物を、学び続けるときに、偽物をはっきりと見極めることができるのだ。

  純人

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7/11
 「あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」 Ⅱ列王14:10

 今日の聖書日課は、南ユダの王アマツヤのお話。彼の父はヨアシュ。そう、祭司エホヤダが生きているときは主の目にかなっていたけれど、エホヤダの死後、自分を拝むリーダーたちに流されて偶像に仕える者となった人(Ⅱ歴代24章)。同じようにその子アマツヤの治世も、前半と後半に分けることができます。
 前半について。アマツヤはエドム人と戦って勝利しました(7)。歴代誌は、この出来事について詳しく述べています(Ⅱ歴代25:5~13)。初めアマツヤは、この戦いに際して隣国北イスラエルから10万人の勇士を銀百タラントで雇いました。しかし、「神の人が彼のもとに来て言った。『王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせては
なりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです。』」(Ⅱ歴代25:7)。
主に対して不信仰な北イスラエルを中に入れるな、ということです。アマツヤは神の人に言いました。
「では、イスラエルの部隊に与えた百タラントはどうしたらよいのか?」神の人は答えます。
「主は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます。」(Ⅱ歴代25:9)
アマツヤは信仰による決断をしました。高い金を払って雇った北イスラエルの部隊を帰しました。切り離された北イスラエルの兵士たちは、激しく怒り、南ユダの町々を襲い、三千人を打ち殺し、多くの物を略奪しました(Ⅱ歴代25:10、13)。しかし、アマツヤ自身は金で雇った軍隊ではなく、信仰により、主の力によってエドムに勝利したのです(Ⅱ歴代25:11~12)。
 けれども後半。アマツヤはエドム人を討って帰った後、彼らの神々を持って来て、それらを自分の神々として立て、その前で伏し拝み、犠牲を供えました(Ⅱ歴代25:7)。なぜこんなことをしたのでしょうか?自分を負かした相手の神々ではなく、自分が倒した相手の神々です。聖書はその理由については記していません。主は預言者を送ってアマツヤに警告しますが、アマツヤはこれを退けました(Ⅱ歴代25:15~17)。その後、Ⅱ列王記、今日の聖書日課が記しているアマツヤ(南ユダ)とヨアシュ(北イスラエル)の戦いとなります(8~14)。結果から言うと、北イスラエルの大勝利。仕掛けたのはアマツヤでしたが、彼は惨敗したのです。この戦いの前に、北イスラエルのヨアシュ王がアマツヤに語ったことばが冒頭の聖句。ヨアシュはアマツヤの心が高ぶっていることを指摘しました。自分には戦う気がないことを語りますが、高ぶっていたアマツヤはこれを聞き入れず、両者は戦いに突入しました。その結果が北イスラエルの圧勝。
 アマツヤの高ぶりはどこから来たのでしょうか?エドムに対する勝利?それもあったでしょう。しかし、エドムに勝利した後、エドムの神々を持ち込んだこと、それがこの高ぶりの原因となりました。他の神々に心を向けるということが、アマツヤが主の前にへりくだることから遠ざけたのです。主の前にへりくだらないこと、それが高ぶりなのです。

 おはようございます。
 今週から再開した「英会話クラス」。土曜日は子どもクラス。今日もジェームズ・モナご夫妻が、楽しく教えておられます。笑い声が牧師室まで届いています。主の恵みが今日も子どもたちに届きますように。
  シャローム 純人

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7/10
神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討
つことになる。」 Ⅱ列王13:19

 13章は北イスラエルの話。エフーの子エホアハズ王(1)、エホアハズの子ヨアシュ王のことが記されています。しかし今日の聖書日課には、もう一つ大きな出来事が記されていま
す。預言者エリシャの死です(20)。また今日の聖書日課にはエリシャが死ぬ前の、当時の北イスラエル王ヨアシュとエリシャの対話が記されています。エリシャはヨアシュ王に二つ
のことを命じました。一つは東側の窓から矢を射ること。その意味は?
「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢、あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」(17)
もう一つは矢を地面に打つこと。ヨアシュは三回打ちますが、それでやめました(18)。
これに続くのが冒頭の聖句。一つ目の命令のことを考えれば、地面に矢を打つ意味はわかっていただろうに、なんで三回でやめるのか!?エリシャの怒りのわけはここにありました。こ
こでヨアシュ王とエリシャの対話は終わり、直後にエリシャが死んだことが述べられます(20)。
そしてヨアシュはエリシャが自分に語ったとおりアラムを三度打ち破ってイスラエルの町々を取り返しました(25)。
 しかしよく考えると、あのヨアシュとエリシャの対話は変ではないでしょうか?エリシャが死の病をわずらっていることを知り、ヨアシュはエリシャのところにかけつけるのです
が、そこで「わが父、わが父、イスラエルの戦者と騎兵たち」(エリヤが天に挙げられるとき、エリシャが言ったのと同じことば(2:12))
と叫ぶのですが(14)、ここでエリシャは彼を無視してもおかしくないはず。ヨアシュは父エホアハズ同様「主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべて
の罪から離れず、なおそれを行い続けた。」(11)
そういう王です。首都サマリアには父が立てたアシェラ像がありました。しかしエリシャはまともに対応し、あの二つの命令をし「不徹底だ!」とヨアシュを叱りました。相手しない
で当然のヨアシュ王に対し、エリシャが向かっていったのはなぜか?ヨアシュが主を知るためです。戦いによって主の力を知るためです。王が頼るべきは主であることを知るためでし
た。
 神さまは従順な者だけでなく、不従順な者に対しても向き合い、チャレンジを与えられます。そのことによって、不従順な者が従順になるためです。神さまはこの私が、今、ご自身
を知るために、今日もみことばを語られるのです。
シャローム 純人

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7/9
ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。
 Ⅱ列王12:2

 主を恐れる祭司エホヤダとその妻エホシェバ(Ⅱ歴代22:11)。また、その仲間たちの祈りと忍耐と信仰による決断・行動によって、再び南ユダに主に油注がれた王ヨアシュが立てられました(11:12)。ヨアシュが即位したのは7歳のとき(11:21)。この幼い王を教え導いたのは祭司エホヤダでした。冒頭の聖句のとおり。12章は①ヨアシュ王がエホヤダが教えていた間に主の目にかなったことを行ったこと一つ(4~16)、②エホヤダが死んでしまってから(Ⅱ歴代24:17)ヨアシュが主の目にかなわないことをしたこと一つ(17~18)が記されています。
 ①について。ヨアシュは主の宮(神殿)の修復工事をしました。初めヨアシュは祭司たちに、民の献げ物の中から神殿修復のためのお金を取り分けるよう指示しました。しかしこの方法では修復のためのお金はたまらなかったようです。祭司たちを養うのに手いっぱいで、神殿のために使うお金がなかったと思われます。そこでヨアシュは考えを変えました。「指定献金」を募ったのです。すなわち献げられたお金はすべて神殿修復のために使うことを民に告知したのです(12)。民はこれに応え、神殿修復のために多くの献げ物をしました。修復は成功しました。なおかつ祭司たちの生活も守られたようです(16)。このヨアシュの方向転換にも、祭司にして教師であるエホヤダが関わっていたことがわかります(9)。
 ⓶について。エホヤダが死んだ後のことです。アラムの王ハザエルが南ユダの都エルサレムを攻めに来た時、ヨアシュは、
「自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」(18)
強い相手をいなすための一つの知恵である、とも言えます。しかし主に献げられた物、聖別された物をこのように取り扱うのは、主の目にかなうことではありませんでした。歴代誌にはエホヤダの死後、南ユダに起こった大きな出来事が記されています。
「エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを受け入れた。彼らは父祖の神、主を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。」(Ⅱ歴代24:17~18)
どうしてこんなことになったのでしょうか?首長たちは自分たちの意のままに王を動かすために彼を「伏し拝みました」。しかし礼拝する心などありません。最も大きい責任はヨアシュ王にありました。王は首長たちのこの振る舞いを退けるべきだったのです。いったいこれまでのエホヤダの教えは何だったのか?と思います。ヨアシュは結局「人の言うことを聞いていただけ」でした。
 7歳で王になり、それ以来絶えずヨアシュを教え、励ましたエホヤダ。それは、王がひとり主の前に立ち、主のみこころを知り、主に従い仕えるためでした。しかし結果は、大変残念なことになりました。このような出来事があった後、いや、このような生き方を選び取った結果が、あの主への献げ物を自分の都合の良いように使うということだったのです。
 「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」
エホヤダが死んだ後、ヨアシュがいつも主の目にかなうことを行う、主への信仰によって主体的にみこころに従う、そのために、ヨアシュはエホヤダに教えを受け続けたのです。
シャローム 純人

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7/8
こんにちは。
 本日、午前の祈祷会で分かち合われたことをもとに記します。
 本文を読んだ後、以下の点に注目し、もう一度本文を読んでください。読んで考えてみてくださいね。

Ⅱ列王11:1~21
①アタルヤが王の一族を全員滅ぼしたのは、北イスラエルではエフーがバアルを根絶やしにし(10章)、その「波」が南ユダに来るのを防ぐためでした。アタルヤはアハブの娘でした
(8:18)。アタルヤは南ユダにおけるバアル礼拝を死守しようとしたのです。
②しかし一人だけ、殺されずに守られた人がいました。幼子ヨアシュです。最終的にこのヨアシュが、アタルヤに代わる王となります。ヨアシュを守ったエホシェバと、かくまってか
ら七年目にヨアシュを王にした祭司エホヤダの関係は?(Ⅱ歴代22:11)。
長い間、この二人の間において積み上げられた祈りを思い巡らしましょう。
③4節を読んでください。エホヤダが百人隊の長たちに7歳のヨアシュを見せ、彼を王にするということは、大きな「賭け」でした。長たちが、これまでどおりアタルヤについたな
ら、自分が殺されるのです。しかし、エホヤダは信仰によって決断し、行動に出ました。
結果、バアルではなく、心の中では主を礼拝していた長たちは主の宮において契約を結び、ヨアシュを王としました。

 晩の祈祷会は午後7:30からです。みことばを学び、聖霊に満たしていただき、祈りを献げましょう。
 午後8:00からは中高生会オンラインミーティングもございます。主の恵みが分かち合われますように。スタッフの働きを感謝します。

 シャローム 純人


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7/8
 しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。 Ⅱ列王10:31

 「ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。」(Ⅰ列王19:17)
かつて預言者エリヤに語られた主のことばは、人間の理解を超えて成就しました。エリヤの時代ではなく、後継者エリシャの時代にハザエルは登場し(8章)、そしてエフーも登場します。エフーについての記述が9~10章です。北イスラエル王ヨラムの家来であったエフーは、あるとき、エリシャに遣わされた預言者によって油を注がれます(今週の説教を思い出してください。任職です)。王ではないけれど、王に任命されたのです。ハザエル同様、エフーも自分の主君に謀反を起こしました。エフーはヨラム王の胸を射抜き(9:34)、ヨラムとともにいた南ユダ王アハズヤにも傷を負わせ、アハズヤも死にました(9:27)。続いてエフーはアハブの妻イゼベルを殺します(9:30~37)。それで終わりません。エフーはサマリアにいたアハブの子ども70人すべてを殺しました。昨日の聖書日課は読んでいて気分が悪くなった方もいると思います。しかし、こうしてかつて主がエリヤを通してアハブに語られたみことばが成就したのです。
「今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童(こわっぱ)から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、」(Ⅰ列王21:21)
 今日の聖書日課は、まだまだ続くエフーの「根絶やし」。アハブの子孫のあとは、アハブが慕っていた偶像バアル、その預言者たちです。エフーは、自分はアハブよりもさらに熱心にバアルに仕えるつもりだ、と嘘をつき、バアルの預言者を一人残らずバアル神殿に集め、それを確認するやいなや家来たちに彼らをすべて討ち取らせました。
「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。」(28)
エフーは主のことばに徹底的に従いました。しかし聖書はまた、エフーの別の一面も記します。
「ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。」(29)
なぜ、エフーは金の子牛礼拝から離れなかったのでしょうか?その理由が冒頭の聖句にあります。
「しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、」
エフーは、かつてエリヤに語られた、またエリシャに受け継がれたアハブ家に対する主のことばに忠実に従いました。しかし、日々の歩みの中で、主の律法、主のおしえ、そのみことばに歩もうと心がけることがなかったのです。ゆえにエフーは、それまで北イスラエルの民が続けていた金の子牛礼拝から離れることができなかったのです。その結果、主はエフーを含めて四代までの王権を約束されました。つまりその後は王は途絶えるということ(30)。
 「熱心な信仰」を私たちは求めます。特別なことに熱心に取り組みます。しかし大切なのは「歩み」。歩くこと。毎日の平凡と言える歩み。そこにみことばがあるかどうか。みことばで教えられ、みことばに従っているか?私たちの信仰の姿勢は、このような地味な歩みの中で徐々に確立されていくのです。
 主のみことばに歩みましょう。

 おはようございます。
 牧師就任式のお知らせ。次主日7/12(日)午後3:30より、岸和田聖書教会礼拝堂で、栗原純人牧師就任式が行われます。司式を福音交友会会長で京都聖書教会牧師の閨谷欣也師がしてくださいます。就任式では、牧師と信徒がそれぞれ主の前に誓約するときがあります。
本日、午後にお送りするプログラムと誓いのことば(当日も印刷物を配布します)をよく読んで式に臨んでください。
 明日は水曜日。午前10:30、午後7:30から祈祷会が行われます。明日は今日の続き、列王記第二11章を読み、学びます。久しぶりに南ユダ王国のお話です。みことばに期待して集まりましょう。

 シャローム 純人
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7/6
2020年7月5日(日) 主日礼拝
詩篇2:1~12 「幸いな人~その3 すべて主に身を避ける人~」

詩篇を貫くメッセージ~幸いな人~

詩篇1篇、2篇は、詩篇の序論のようなものだと言われている。これから150篇まで続く詩の基礎であるとも言える。これから始まる詩を読むときに覚えておくべきことがここに記されている。注目すべきは「幸い」。1篇は「幸いなことよ」で始まり、2篇は「幸いなことよ」で終わる。1篇の「幸いな人」は、「こうではない」という言い方であるならば1節「悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」。「こういう人」という積極的な言い方であるならば2節。「主のおしえを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ(思い巡らす)人」。1篇の「幸い」は、主のおしえ、すなわちみことばにある。
では2篇の「幸い」は?「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」(12)。幸いは主にある。幸いな人とは、①神が語られ、記されたみことばを喜んで聞き、黙想し、口ずさむ人であり、②また幸いな人とは人格である「主」に身を避ける、頼る人。「みことばと生ける主」。これが150の詩篇を貫く、いや聖書全体を貫くテーマである。

主に油注がれた者とは?

ところで、2篇の最後で「主」と言われている、これはだれか?2節を見ればわかる。「なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか 主と 主に油注がれた者に対して。」(2)。12節の「主」は2節の「主」ではなく、同じ2節の「主に油注がれた者」。これはヘブル語で「メシア」。ギリシャ語の聖書では「キリスト」。「何?キリスト?じゃあイエスさま?」。これに対する答えは二つ。一つは「違います」。もう一つは「そのとおり」。
「違います」について。油注がれた者とは、旧約時代の王や祭司や預言者のこと。任職のときに油を頭に注ぐ儀式をした。この2篇では、実際に存在したイスラエルの王(だれかは確定できないが)。「主と 主に油注がれた王」ということ。2篇はその時代の出来事を語っている。主と主に油注がれた王に向かって、国々(外国)の王たちが背く。これに対する主のさばきが語られているのが詩篇2篇。その方法は?油注がれた王である。4~6節を見るとわかる。この王はどんな人か?王自身が語っていることばを聞こう(7~9節)。このお方は、主なる神の「子」と呼ばれる。そして力の強い恐ろしい王(9)。10~12節は、主に背く外国の王たちへのことば。警告とも言えることば。「恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ震え、子に口づけせよ。」(11)。再び「子」ということばが出てくる。この力ある恐ろしい王の前にへりくだるようにという勧め。12節の「主」は原文では「彼」すなわち11節の「子」。
「彼が怒り、おまえたちが道で滅びないために。御怒りが、すでに燃えようとしているからだ。」(12)。「幸いなことよ すべて彼(原文)に身を避ける人は」(12)。この力ある王、恐るべき王に身を避けるのはなんと幸いか。

幸いな人~すべての主イエスに身を避ける人~

先ほどの質問。「メシア?キリスト?じゃあイエスさま」のもう一つの答え。「そのとおり」。使徒4:25~28。詩篇2篇の「主に油注がれた者」とは、その当時、神が立てられた王であり、またその後にあらわれるメシア:キリスト:イエスのことである。旧約聖書の預言の中には、預言者の目の前にいる人々に語られ、預言者も知りえない未来に向けて語られた、そういうものが少なくない。
私たちは今日、新約の時代に生きる者として、このみことばを味わいたい。
「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」このお方、キリストであるイエスは、力で敵を倒さなかった。ご自分の死とよみがえりによってまことの敵であるサタンを滅ぼされた。だから使徒4:29~30。人を救うみことばと人を救う不思議。
また、このみことばは、私たちの救いを確信させてくださる。なぜなら、神への背き、罪を完全にさばかれる、神の子。恐ろしいお方が、その罪の罰を受けてくださったのだから。さばき主が救い主となってくださった。私たちが罪の赦しを、救いを疑う余地はこれっぽっちもないのである。ヨハネ8章。唯一、石を投げることのできるお方が、彼女の身代わりに石打ち、いや十字架にかかってくださった。

幸いな人。神のことばを聞き、黙想し、口ずさむ人。
幸いな人。すべて主イエスに身を避ける人。
みことばと主。みことばと主。いつも、どんなときにも、ここに帰り、ここから始めて行こう。

 こんにちは。
 土曜日は水谷渡・ひかりご夫妻の結婚式、日曜日は主日礼拝と、喜びと感謝の礼拝がささげられました。主の御名をあがめます。結婚式のために祈り、奉仕してくださったみなさんに感謝します。水谷ご夫妻の新たな歩みに主の恵みが豊かにありますように。

 シャローム 純人

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7/4

 預言者エリシャは預言者の仲間たちの一人を呼んで言った。「腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。そこに行ったら、ニムシの子ヨシャファテの子エフーを見つけなさい。家に入って、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、 Ⅱ列王9:1~2

 かつて主はエリヤに、こう言われました。
「主は彼に言われた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。』」(Ⅰ列王19:16~17)
 油を注ぐ、とは任職のしるし。みなさん、これを読んでエリヤが油を注ぐ順番は、どのようだと考えますか?ハザエル→エフー→エリシャ。文脈を見ても、そう考えるのが普通だと思います。しかし、実際はそうではありませんでした。このことばの直後に、エリヤはエリシャに会い、自分の外套をエリシャにかけました(Ⅰ列王19:19)。以来、エリヤはエリシャを連れまわったと考えられます。では、ハザエル、エフーは?出てきません。エリヤの物語を最後まで追っても、この二人の名は登場しないのです。しかし今日の聖書日課に。出てきました。ハザエル!当時、アラム王の家来であったハザエルにエリシャが言いました。
「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」(13)
これを聞いたハザエルは主君であるベン・ハダドを暗殺し、自ら王となりました(15)。
 エフーは?明日の聖書日課になりますが、出てきました。冒頭の聖句。続きはこうです。
「油の壺を取って、彼の頭の上に油を注いで言いなさい。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする。』それから、戸を開け、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」(9:3)
このことばのとおり、預言者仲間の一人が、当時、北イスラエル軍の一隊の隊長であったエフーに油を注ぎイスラエル王に任命しました(9:6)。当時の北イスラエルの王はヨラムであったにもかかわらず。
 もう一度、主がエリヤに語られたことばを記します。
「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。」
これは、そのとおりになったのでしょうか?なっていません。エリヤはハザエル、エフーに会えませんでした。ただエリシャに会って、自分に代わる預言者としただけです。しかし、そのエリシャが、エリヤが昇天した後、ダマスコに行き、ハザエルを王に指名しました。また、エフーはエリシャではなく、エリシャの預言者仲間の一人に油を注がれました。
 あの主のエリヤへのことばは、そのとおりになったのでしょうか?なったのです。順番も違えば、それに携わる人も変わっています。が、主が立てられた計画はそのとおりになったのです。はじめにエリヤが主のことばを聞いた時、彼にできることは、エリシャに会いに行き声をかけることでした。エリヤは最後までハザエル、エフーに会うことすらできませんでした。しかし、おそらくエリヤはエリシャに、ハザエル、エフーを、それぞれアラムと北イスラエルの王にする、という主の命令を伝えたことでしょう。そしてエリシャはハザエルを王に指名し、エフーに対しては、自分は行けないけれど、仲間の預言者を遣わして主の命令どおり油を注ぎました。
 結局、ハザエル・エフー・エリシャの中で、「エリヤが」「油を注いで」任職した人は、一人もいませんでした。しかし、主が立てられた計画・そのみことばは、ことごとく成就したのです。
 このことから教えられること。それは、神さまが一人の人に語られたみことばは、多くの人をとおして成就するということ。順番や方法が違うように思えても、みことばは語られたお方の、こころのままに成し遂げられるのです。そして、みことばを聞いた、受けた人は、今、自分ができることをすぐに行う。自分ができなくても、次の世代に語り継ぐ。次の世代もまた、みことばを受けて、自分のできることをする。そのようにして、みことばの、神の計画の全体像が表れていくのです。 
みことばに従う。しかし、その従い方があるのです。私がすべてやるのではない。もちろん、今、自分がなすべき責任を果たします。けれど大切なことは「私の働き」ではなく、「私たち」を通してなされる「主の計画の実現」です。「御名があがめられますように」。
これが、あなたの優先順位の最初に来ていますか?

 おはようございます。
 雨が降っています。今日は涼しいですね。次主日のお知らせ。7/5(日)は午前7:30より早朝礼拝、午前10:30より礼拝がございます。詩篇2:1~12「幸いな人~その3 すべて主に身を避ける人~」。午前8:45から教会学校(幼稚科・小学科)、9:15から中高生会が行われます。午後1:30からは執事会。主を礼拝するために、今自分のできる準備をしましょう。
 そして明日4日(土)は午後2時より、教会礼拝堂で水谷渡兄・吉澤ひかり姉の結婚式が行われます。明日は晴れの予想。みなさん、ぜひいらしてください。主を礼拝し、お二人を祝福しましょう。水谷家・吉澤家のみなさんを喜んでお迎えします。
 明日のブレッド・オブ・ライフはお休みします。次回は月曜日です。

 シャローム 純人

 

2020年07月31日

ブレッド・オブ・ライフ  06


6/30

そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
 Ⅱ列王6:17

 預言者エリシャの物語は続きます。1~7節では、自分たちの家を建てるために木材を切りにヨルダン川のほとりに行った預言者仲間の話(そこにエリシャもいました)。そのうちの一人が、借り物の斧の頭を川の中に落としてしまうという大ピンチに陥ります。助けを求める彼にエリシャは叱ることもせず、落ちた場所を確かめ、そこに一本の木の枝を投げ、斧の頭を浮かばせ拾い上げさせました。奇蹟です。
 8節以降は、明日の聖書日課まで続く一連の物語。北イスラエルと戦おうと、アラム軍は陣を敷く計画を立てるのですが、それらがことごとく見破られてしまいます。なぜかというと、エリシャがそれを知り、イスラエルの王に伝えたからです。このことを家来から知らされたアラムの王は、エリシャを捕まえようと、馬と戦車と大軍をエリシャのいるドタンに送りました。5章には、アラム軍の長ナアマンがエリシャによってツァラアト(重い皮膚病)を癒されたことが記されています。アラムの王もこのことを聞いてエリシャに感謝したことでしょう。しかし「それとこれとは別のこと」。エリシャのいるドタンの町は包囲されました。エリシャの召使いの若者のひとりが、朝起きて外を見ると、なんと馬と戦車と軍隊が町を囲っていました。彼は言います。
「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」(15)
エリシャは答えました。
「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(16)
これに続くのが冒頭の聖句。エリシャは、若者が見えていなかったものを見ていました。
 この後、エリシャは主に祈ります。
「どうか、この民を打って目をくらませてください。」(18)
アラム軍の兵士たちはみな目をくらまされました。エリシャは兵士たちをその状態のまま、北イスラエル王(当時はヨラム)のいるサマリアまで連れて行きます。そしてサマリアで祈りました。
「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」(20)
主が、アラムの兵士たちの目を開かれると、なんと彼らはイスラエル軍に包囲されていました。イスラエルの王はエリシャに尋ねます。
「私が殺しましょうか。私が殺しましょうか。わが父よ。」(21)
しかしエリシャはそれを許さず、かえって彼らを盛大にもてなして、主君のもとに帰らせました。あのエリヤの時代にアハブ王が聖絶しなかったのとは正反対のようです(Ⅰ列王20章)。しかしこれが、このときの主のみこころでした。その結果は?
「それ以来、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」(23)
この気持ち、わかりますか?絶体絶命、完全に皆殺し!それが全員、命が助かるどころか、大盤振る舞いのおおごちそう!で、無事に帰還。そこでやり返しますか?「そんなこと、ようせんわ」。アラムは「二度とイスラエルの地に侵入しなかった」のです。
 揺れ動く人の心。預言者仲間の一人、アラム王、召使いの若者、アラム軍の兵士たち。みな状況に振り回されて右往左往します。しかしエリシャはその中で動じない。いや、心配はあったことでしょう。しかし預言者は、いつでも主にストレートに祈り、みことばをいただくのです。落ち着いて主のわざに励むのです。ここにも聖霊に満たされ、いつもみことばに帰っていく主イエスの姿を見ることができます。エリシャも、イエスさまも、私たち信仰者の生きたモデルなのです。

おはようございます。
 今日は映画のご紹介。「赦しの力」。アメリカ映画です。キリスト教のメッセージを「さりげなく」ではなく「ストレートに」伝える作品。夫と妻、父と子、祖母と孫などなど、いろいろな関係において「赦し」がどのような力を発揮するのか、具体的に知ることができます。シネ・リーブル梅田にて(大阪駅徒歩10分。「空中庭園」のそば)。
https://eiga.com/movie-area/91730/27/270102/(もしかして、上映はあと数日かも)

純人 シャローム

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2020年6月28日(日) 主日礼拝
マルコ1:9~11 「あなたはわたしの愛する子」

イエスが受けたバプテスマ~何のため?~

「イエス・キリストの福音のはじめ」(1)、それはバプテスマのヨハネであった。ヨハネは「主の道を用意」する者としてイエスよりも先に活動した(2~8)。前回学んだ。「あなたに会えてよかった」。そしていよいよイエスが登場する。マルコの福音書でイエスが一番初めにされたことは何か?バプテスマである。バプテスマを授けたのではない。バプテスマを受けたのである。ヨハネからバプテスマを受けられた。ヨハネのバプテスマとは何か?それは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」(4)。イエスは悔い改めなければならない罪人だったのか?そうではない。この方は「神の子、イエス・キリスト」(1)。罪人であるはずがない。ならば、なぜイエスはバプテスマを受けられたのか?しかもその伝道活動の初めに。人になるためである。
イエスはその時点で30歳の人間であった(ルカ3:23)。人として30年生きてきた。神の子はすでに人となっていた。しかし、ここでイエスは別の意味で「人になった」のである。バプテスマとは「私は神の前に罪ある者です」と表明すること。イエスがバプテスマを受けるとは、イエスが「私は神の前に罪ある者です」と表明すること。罪は犯していないのだけれど、罪人として数えられるようになったということ。イエス・キリストの十字架は「身代わりの死」と言われる(Ⅰペテロ3:18)。罪を犯した人が死んでも神の前では身代わりにならない。また、人間でなければ人間の身代わりにならない。罪人の身代わりに死ぬということは、人となられた神でしか果たせないことであった。イエスの受けたバプテスマとは、十字架というゴールに向かって前進する旅の始まり、スタートだったのである。

イエスが受けた聖霊~何のため?~

イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたとき、水の中から上がると、天が裂けて、御霊すなわち聖霊が鳩のようにイエスに降った。イエスはそれを見た。と、ここでも疑問が起こる。イエスは聖霊を受ける必要があったのか?神の子が、神であるお方が、聖霊を受けなければならないのか?パウロは御霊(聖霊)に敵対するのは肉である、と言った(ローマ8章)。ここでいう肉とは、人間の生まれながらの性質。神を信じないで自己中心に生きる性質。イエスが聖霊を受けたのは、肉の支配から御霊の支配に生きるため、変えられるためであったのか?そうではない。何度も言うがイエスは罪を犯したことがなかった。肉
の支配の中にいたのではない。では、なぜ聖霊を受けられたのか?これもまた「人となるため」であった。イエスは聖霊を受け、聖霊に導かれる人のモデルになるために、まず初めにご自身が聖霊を受けられた。福音書の中では「イエスさまは神さまだから…」という理屈は通用しない。神の子が人となって、人間としてサタンの誘惑を受ける。「イエスさまは神さまだから、そんな誘惑、何でもない」のではないのだ。イエスは人として誘惑を受ける。そして聖霊を受けた者として、聖霊に導かれて誘惑に打ち勝つ。聖霊を受けたイエスの歩み、姿は、神に悔い改め、バプテスマを受け、同じく聖霊を受けた人間のモデルなのである。ここから始まるイエスの物語、出来事、イエスのことばや振る舞いの一つ一つを見て「私には関係ない。イエスさまは神さまだから」と言ってはいけない。あなたのうちにもイエスに降られた聖霊が住んでおられる。パウロは言った。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)。ここで言われている「生きる」「死ぬ」とは、霊的な生と死。神の前で生きているか死んでいるか、ということ。このみことばを理解したいならば、福音書に示されている誘惑に打ち勝つイエスの姿を見ることをお勧めする。そしてそのイエスの勝利とは私たちと何の関係もない勝利ではなく、まさに私たちが勝ち取るべき勝利なのである。

あなたはわたしの愛する子~このみことばで生きる~

バプテスマを受け、聖霊を受けたイエスに、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(11)。その声の主は?父なる神である。父が御子に向かって語られたのである。父・子・聖霊。三位一体の神。その三つのご人格のうちにある交わりは、この世界が始まる前からあったもの。父が御子に言われる。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。これは前から御子が知っていたこと。天地が創造される前から御子は御父の愛する子であり、御父は御子を喜んでおられた。しかしここで、この場面でこのことばが語られたことに注目してほしい。すなわち御子はこのとき、バプテスマを受
け、自分が罪人として数えられるという御父のみこころ、願いを知り、聖霊に導かれて生きるというみこころを知り、そのみこころに従った。でも、「だから、あなたはわたしの愛する子」なのではない。「やっぱり、あなたは私の愛する子」なのである。「だから、今日から私はあなたを喜ぶ」のではなく、「そんなあなたをわたしは喜ぶ」なのである。
ところで、父がイエスに語られたこのことば「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。これを、今日、私たちは神さまが私に語られていることばとして受け止めたい。
そんなおこがましい、と思われるだろう。これは神さまがイエスさまに語られたことば。私には関係ない。と思われるだろう。たしかにここで言われている「あなた」とは、御子イエスのこと。私ではない。しかしここで、イエスが罪人、人となるためにバプテスマを受けられ、聖霊に導かれる人となるために御霊を受けられたのであれば、そしてそのように神のみこころに従ったイエスにこのことばが語られたのならば、今、神の前に罪人であることを認め、神に立ち返るという神のみこころに従った、神を信じた私にもまた神は、こう言われるのである。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。
「わたしはあなたを喜ぶ」。これは本当にすばらしいことば。喜び。これは人が生きていく中でなくてはならないもの。喜びを求めて私たちは生きている。しかし、ここで言われているのは、あなたが、私が「喜んでいるかどうか」、ということではない。神があなたを喜んでおられる、ということ。愛された人は愛する者になる。自分が喜ばれていると知るから私たちは喜ぶのである。罪人であって、とても喜ばれるような者ではない私だけれど、私のためにバプテスマを受けてくださり、私のために十字架で死なれ、よみがえられた主イエスを信じるとき、このことばを真正面から受け止めることができるのだ。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。神さまが私のことを喜んでおられる。私は喜ばれている。
このことば。天から語られたこの短いことば。バプテスマを受け、聖霊を受け、これから行われる伝道を前にして、最初に語られたことば。イエスにとって、このことばはいのちであった。イエスはいつでもこのことばに帰って行った。始まりのことばであるこのみことばに。そして、私たちにとっても、このことばは初めであり、帰るべきところ、いのちである。イエスが聞いたみことば。私たちもこのみことばで生きるのである。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」

純人 シャローム

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6/27
女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。」
 Ⅱ列王4:9

 預言者エリヤの後継者エリシャ。エリヤについてのくだりも少なくなかったですが、エリシャの記事はそれ以上です(ざっと見渡してください。2章から始まって3章、4章、5章…まだまだ続く)。エリシャの記事は、彼と出会った人々の信仰や変化が随所に表わされています。旧約版イエスの物語とでも言いたくなります。
 今日の聖書日課4章には、二人の女性とエリシャの出会いが描かれています。一人はエリシャの預言者仲間の妻。つい最近、彼女は夫に先立たれました。夫の死後、債権者がやって来て負債を返すことができないとわかると、二人の息子を奴隷として連れて行こうとしました。彼女はこの状況を必死にエリシャに訴えました(1)。彼女はエリシャに言います。
「あなたのしもべ(私の夫)は主を恐れていました。」(1)
預言者であった夫もそうでしたが、妻である彼女自身もまた主を恐れ、主に頼る信仰者でした。エリシャの言う通り、彼女は息子を使って空の器を近所の皆からかき集め、たった一つ油が入っていた自分の壺からそれらの器に油を入れました。入れ続けました。奇蹟です。油はなくなりません。どんどんたまる器。入れる器がなくなったとき、油も止まりました。
「彼女が神の人(エリシャ)に知らせに行くと、彼は言った。『行ってその油を売り、あなたの負債を支払いなさい。その残りで、あなたの子どもたちは暮らしていけます。』」(7)
 もう一人は裕福な女性。エリシャがふだん通りかかるシュネムの町に住んでいました。
あるとき彼女はエリシャを食事に引き止めました。
「それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。」(8)。
これに続くのが冒頭の聖句。彼女には夫がいました。彼女はエリシャのことを「神の聖なる方」と呼び、続けて夫に言いました。
「ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」(10)
素晴らしい提案!与えられている財を主のために、その働き人のために惜しみなく献げる。エリシャはこの夫婦の厚意を受け、存分に預言者としての働きを続けました。
 二人の女性。置かれている境遇は違いますが、主を信じ、主に叫び、主に献げ、主のみわざにあずかる(シュネムの女の話はまだまだ続きます)。イエスの物語においても、マルタとマリア、マグダラのマリアなど女の弟子たちが登場し、イエスと出会い、変えられていきました。日本の教会は、圧倒的に女の弟子が多いですね。これは素晴らしいこと。
私たちの教会においても姉妹方おひとりおひとりの信仰と祈りに主が答えてくださり、さらに神の栄光を拝することができますように。

純人 シャローム

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6/26
 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」
 Ⅱ列王3:14

 エリヤの後継者として立ったエリシャ。その時代の北イスラエル王はアハブの子ヨラムでした(1)。ヨラムは父アハブの死後、イスラエルに背いたモアブと戦おうとしました。
しかし単独ではなく、南ユダ、そしてエドムに呼びかけ、三つの国でモアブとの戦いに臨みました。しかし戦略がうまくいきません。兵士と連れ来た動物のための水が底をつきました。ヨラムは、まるで子どものようにこう言います。
「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」(10)。
これを聞いたヨシャファテは、以前、アハブにも尋ねたように、こう言います。
「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか?」(11)
前回呼び出されたのは預言者ミカヤでしたが(Ⅰ列王22:8)、今回はエリシャでした。エリシャは、けんもほろろにヨラムに対してこう言いました。
「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか?あなたの父(アハブ)の預言者たちや、母(イゼベル)の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」(13)
これを聞いたヨラムは、またまた駄々っ子のように言います。
「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」(13)
これに対してエリシャが語ったのが冒頭の聖句。エリシャはヨラムを見捨てませんでした。この後、エリシャは三人の王に、主がモアブを彼らの手に渡すというみことばを語り(18)、そのとおり、この連合軍はモアブに勝利しました。
 エリシャがヨラムを見捨てなかった理由は何か?それはヨシャファテの存在でした。ヨラムは、かつての父アハブや母イゼベルほどの悪は行わず、バアルの石の柱を取り除きました(2)。が、依然として「ヤロブアムの罪」(3)、すなわち金の子牛礼拝はやめませんでした。一方、南ユダ王ヨシャファテは、「その父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行った。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。」(Ⅰ列王22:43)
弱さがありましたが、「主の目にかなう」王でした。エリシャは、このヨシャファテのゆえに、主が彼がヨラムを助けると言ったのです。そして、そのとおり、ヨシャファテのおかげでヨラムは助けられたので。
 私たちはこのように祈ります。
「イエス・キリストの御名によって」
これは、イエス・キリストのおかげで、という意味。そうです。私たちのために死んでよみがえってくださったお方のおかげで、私たちは神に近づき、その恵みをいただくことができるのです。イエス・キリストの御名抜きでは、私たちもまたヨラムのように、神に干され、見捨てられるべき存在なのです。単なる定型句ではない、これ抜きでは祈りにならない、そんな思いを込め、心を込めて今日も祈りましょう。
 イエス・キリストの御名で アーメン
シャローム 純人

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6/25
彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。
 Ⅱ列王2:14

 第二列王記2章は、預言者エリヤが主によって天に挙げられ、後継者エリシャが立っていく。その様子が描かれています。長いですが通して読んでください。
 冒頭の聖句は、エリヤが竜巻に乗って天に上って行った(11)直後のこと。エリシャはエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、ヨルダン川の岸辺に立ちました(13)。
つい先ほど天に上る前にエリヤ自身がしたアクション。エリヤが外套でヨルダン川の水を打つと、水は分かれ、エリヤとエリシャは乾いた土の上を渡りました(8)。
今度はエリシャが同じことをしたのです。
「エリヤの神、主はどこにおられるのですか?」
エリシャはこれまでエリヤについてきました。別れ際にエリシャがエリヤに求めたことは、「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」(9)
エリヤの賜物の二倍分。それぐらいなければ、エリヤのような働きはできないと考えたのでしょう。そして、ここでも彼は、「エリヤの神」と呼びかけるのです。
しかし、大切なことはエリシャ自身が主に向かって、「どこにおられるのですか?」と尋ねること。そして、エリシャ自身が主からその答えをいただくこと。冒頭の聖句をよく見てください。エリシャは主に呼びかけ、その後、もう一度水を打ったと考えられます。そのとき水は分かれました。
もう「エリヤの神」ではありません。あの外套に何か力があったのではない。エリヤの神は私の神。私の声を聞き、私に答えてくださる神。「二倍の分」も必要ありません。
ここに預言者エリシャの新たな歩みがスタートしたのです。
 「○○の神」。エリシャにとってそれはエリヤの神でした。あなたにとっては誰でしょうか?信仰に導かれる際に、また信仰を持ってからも神さまがあなたに与えてくださった信仰の先輩がいます。その人を通して神さまを見、教えられてきた。しかし、「○○の神」と呼びつつも、あなたが尋ね、あなたが祈り、あなた自身がその御声を聞く。そういう時を神さまは用意しておられます。
「エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。」
原文では、
「彼が水を打つと、水が両側に分かれ、エリシャはそこを渡った。」
エリシャはそこを渡った。エリシャが渡りました。エリシャの新たな歩みのスタートです。
あなたも渡るのです。

純人 シャローム

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6/24
 こんばんは。
 今日の午前中の祈祷会で話し合われたことをもとに、考えたことをお分かちします。今日もぜひ、本文を読んで学んでください。

 Ⅱ列王1:1~18
①5節:なぜ、アハズヤ王の使者たちは、命令通りにバアル・ゼブブに伺いを立てず、王のもとに戻ったのでしょうか?
②15節:はっきり語り続けるエリヤでしたが、彼の中にも恐れがあったことを思い巡らしましょう。
③16節:「主はこう言われる。『あなたが使者をエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」アハズヤ王はエリヤが語った主のことばのとおりに死にました(17)。
しかし、このことばは、最後まで主のアハズヤに対する悔い改めへ呼びかけであったことに注意してください。

純人 シャローム

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6/23
さて、ヨハネが言った。「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
 ルカ9:49

 今日の聖書日課には、四つの場面が出てきます。
①悪霊を追い出せなかった弟子たち(37~43)
 イエスは一人の人の息子から悪霊を追い出されました。実は父親は、イエスが来る前に弟子たちに悪霊追い出しをお願いしましたが、弟子たちにはできませんでした。イエスは彼らのことを嘆かれました。
「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあながたがと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(41)
「悪霊を制して病気を癒す力と権威」を主から授けられたのに(1)、どうして弟子たちは、それができなかったのか?並行箇所では、このように言われています。
「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコ9:29)
ということは弟子たちのこの失敗は、祈りの不足ということになります。
②尋ねるのを恐れた弟子たち(43~45)
 悪霊追い出しの奇蹟を見て人々が驚いているその脇でイエスは弟子たちにこう言われました。
「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」(44)
すでにイエスはこのことを彼らに語っていました(22)。二回目です。しかし、「しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。」(45)
なぜキリストが?(20~21)、王の王が人々の手に渡され、苦しめられなければならないのか?弟子たちには理解できませんでした。それでいて、「彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。」(45)
気になることなのだけれど、ことばにすることをためらいました。恐かったからです。
③聞かれたくないことを議論していた弟子たち(46~48)
 気になることがあるけれどイエスに言えない弟子たち。一方で彼らの話題は、「だれが一番偉いか?」(46)
ということでした。これはまた、違った意味でイエスに言えないことでした。しかし今度はイエスが、黙っている彼らの心の考えを見抜かれ、一人の子どもをそばに立たせてこう言われました。
「だれでも、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受けれ入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」(48)
④イエスに語り、答えられた弟子たち 最後の場面。ヨハネが言いました。
「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」(49)
しかし、
「しかし、イエスは彼に言われた。『やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。』」(50)
彼らは主の考えを理解したことでしょう。
 四つの場面、すべてにそれぞれメッセージがあります。しかし、今日はこれらすべてを「祈り」という切り口で考えてみたいと思います。
①の場面:弟子たちはずばり、祈りの不足を指摘されました。
②の場面:弟子たちは、わからないこと、イエスに尋ねるべきこと、祈るべきことを持っていました。が、ことばにすることができませんでした。祈れませんでした。
③の場面:弟子たちはイエスに聞かれたくない、けれど、とても気になることがありました。本当の気持ちですが、祈れないことがありました。
④の場面:弟子たちはイエスに現実を語り(冒頭の聖句)、答えていただきました。祈り、答えられたのです。
これらすべては、私たちの信仰生活、祈りの生活の現実です。
理想は④の場面です。けれど私たちは、とっさに起きる出来事の中で祈ることを忘れてしまいます(①)。
祈るべきだとわかっているけれど祈りから逃げていることがあり(②)、とても祈りにはできないと思うことがあるのです(③)。
でも、主イエスはすべてにおいて、ことばにしてお話しする私たちの祈りを、退けることなく聞いてくださり、答えてくださるのです。
みなさんよくご存じの「いつくしみ深き」の原曲(What a friend We havein Jesus)の、日本語訳(直訳)は以下のとおり。

なんというすばらしい友を、イエスのうちに私たちは持っているのだろうか!
なんというすばらい特権!祈りのうちにすべてのことを神に持って行けるとはおお、なんとしばしば私たちは平和を失うのか!おお、なんと不必要な痛みを私たちは抱くのか!
祈りによって神にすべてのことを持って行くことをしないばかりに。

「すべてのことを持って行く」のです。それができるのです。特権なのです。私たちがイエス・キリストの御名によって神に祈るとは、そういうことなのです。

純人 シャローム

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2020年6月21日(日) 主日礼拝
コロサイ1:21~29 「信じてたって悩んじゃう」

信じてたって悩んじゃう~救われたからこそ~

人生の中で悩みを持ち、教会の門をたたいた方は少なくないだろう。そして教会で語られる神のことばを聞き、自分の罪を知り、神と御子イエス・キリストを信じ、悩みから解放されたことだろう。パウロが言う通り。「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(22)
キリストの十字架による罪の赦し。神との和解。悩みからの解放はここにある。
しかし、それで悩みがなくなるのではない。信じてたって悩んじゃう。どういうこと?かつての悩みとは質の違う悩み。神と和解した、救われたからこそ持つ悩みである。先ほどの22節は続きがある。神が御子の十字架の死によって私たちをご自分と和解させたことには理由があると言う。
すなわち「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」(22)。と、ここで考えてもらいたい。あなたは、今、このような者ですか?今、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者ですか?答えはNo!です。聖でない、きよくない。傷がある。心が責められることがたびたびある。
でも、不安にならなくてよい。それは救われていないからではなく、救われたからこそ持つ悩み。神と和解したからこそ、罪赦されたからこそ持つ悩み。パウロは、神がこのように信じる者を聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるそのために、23節「ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。」。このように勧める。「信仰にとどまる」とはどういうことか?神を信じ続けるということ。しかし、信じ切れずにずれて行ってしまったならば、そこから悔い改める、神に立ち返る。すぐに向きを変える。これが「信仰にとどまる」ということ。信仰生活とは、ある意味、悩みの中で生きることである。罪が赦されていないのではない。救われていないのではない。信じているからこそ、救われているからこそ、現実の自分の不信仰に悩むのだ。

信じてたって悩んじゃう~何のための苦しみか?~

今日の箇所では、もう一つ「信じてたって悩んじゃう」がある。いや「信じてたって苦しんじゃう」と言った方が適切。いや、これもまた、「信じてるからこそ、苦しむ」ということ。それはパウロのことである。パウロとはどんな人か?23節の続き。「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。」(23)。
1:1も見てほしい。パウロは自分のことをこう言った。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」。「使徒」とは「送り出された者」。自分で始めたのではなく、神がみこころによって、私を送り出された。非常に光栄なこと。感謝なこと。しかし、パウロは続ける。
24節。「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」。二つのことばが目に留まる。一つは「苦しみ」。信じたから、信じて、選ばれて従う者となったので受ける苦しみ。これはパウロがイエスに出会ったときにすでに言われていたこと。「しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人(パウロ)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしのためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。』」(使徒9:15~16)。
もともと、クリスチャンを激しく苦しめてきたパウロ(当時はサウロ)。その自分が、今度はキリストをはっきり宣べ伝えるなら、そこに何が待っているか、彼ほど予想がつく人間はいなかった。そして、そのとおり、信じているからこそ、おとなしく黙っているのではなく、大胆に語るからこそ、パウロは激しい苦しみに遭い続けた。この24節で言われている「苦しみ」とは、おそらく、特に今、彼がローマの牢獄にいることであろう。信じているからこその苦しみがここにある。
しかし、24節に出てくるもう一つ、注目すべきことば。「喜び」。「苦しみを喜びとしています」。あまりにも苦しくて頭がおかしくなったのか?そうではない。パウロは苦しみを喜ぶ前に、苦しみの意味を知っていた。「わたしはキリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」
(24)。ここでも引っかかることばがある。「キリストの苦しみの欠けたところ」。キリストの苦しみに欠けがあったのか?イエスの十字架では不十分だから、自分がその続きに苦しんでいると言っているのか?そうではない。繰り返すが22節。「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(22)。
御子の十字架は完全な贖いの代価であった。パウロが「キリストの苦しみの欠けを満たす」
と言うとき、それは同じく22節。神が「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められることのない者として御前に立たせる」そのプロセスにおいて、天に昇られたイエスに代わって自分が苦しみを受ける、ということ。当然受ける苦しみ。先週私たちは学んだ。キリストは永遠から存在し、創造主であり、救い主であり、教会のかしらである、と。今日の箇所で言うならば27節「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」。この方をはっきりと宣べ伝えるときに、迫害される、投獄されるのは当然である。
だからパウロはこの苦しみを喜ぶのだ。みことばを宣べ伝え、24節「キリストのからだ、すなわち教会」、聖徒のひとりひとりが建て上げられていくからこそ、この苦しみを喜ぶのだ。その中には、まだ会ったことのないコロサイの聖徒たちも含まれている。だからパウロは「あなたがたのめに受ける苦しみ」と言った。「なんのためか?」それがはっきりしているので、彼は自分の受ける苦しみを喜んだ。この「なんのため?」を一番端的に表しているのが28節。「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(28)。「すべての人」と繰り返しているのは、かつては「イスラエル人だけが神の民である」と考えられていたが、今や、イエス・キリストはすべての人(異邦人(私たち日本人も異邦人))の救い主であることを強調したいため。
すべての人をキリストにあって成熟した者として立たせるため。この「立たせる」と同じことば(パリステーミ)が22節にも出てくる。すなわち「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせる」(22)。
これである。神がそのようにしてくださる、その一端を自分が担っている。不完全な自分であるけれど。だからパウロはこの苦しみを喜びつつこう言う。「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(29)。「労苦する(コピアオー)」とは、あの「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタイ11:28)の「疲れた」と同じことば。労苦するとは、疲れることなのだ。しかし、その疲れが、なんのために疲れるのか、よくわかっている。「このために」。
「すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるため」(28)
「あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるため」(22)
パウロの疲れは、苦しみは、悩みはこれからも続く。

信じてたって悩んじゃう。
信じて救われた私であっても、いや救われているからこそ、自分の罪に、不信仰のために悩んでしまう。みことばにより、示されたとき、すぐに悔い改める、神さまに向きを変える。
信じてたって悩んじゃう。信じてたって苦しんじゃう。いや、信じているからこそ苦しむ。
神さまに従って歩むその道には必ず、苦しみがある。私も含めた、教会、聖徒たち、ひとりひとりがキリストにある成熟した者となる、そのために私はこの苦しみの中で喜ぶのである。

純人 シャローム

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6/20
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そ
うすれば、娘は救われます。」
 ルカ8:50

 今日の箇所には、二人の女性に対する主の奇蹟が記されています。
 一人は12年間長血をわずらった女の人。一人は12歳ぐらいの娘。
 一人はイエスの衣の房に触れ、出血が止まった。一人は死んでしまったけれど、イエスに生き返らせていただいた。
 イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。
安心して行きなさい。」(48)
 イエスは言われました。「恐れないでただ信じていなさい。そうすれば、娘は救われます。」(50)
 対照的な二人。しかし今日の箇所の対照は、実はこの二人ではありません。冒頭の聖句、「恐れないでただ信じていなさい」イエスが語ったその相手は誰?12歳の娘ではありません。その父親、会堂司のヤイロでした(41)。死にそうな娘を助けてほしくてイエスを呼びに行き、イエスが自宅まで来てくれることになったのに、足止めを食らい、そのうちに娘が死んでしまった。その知らせを聞いたとき、ヤイロのの顔からは血の気が引いたことでしょう。その時です。
「これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないでただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。』」
イエスはヤイロに語られました。娘は死んでしまいました。もう彼女が信じることはできません。しかしイエスはその父に言われたのです。
「恐れないでただ信じなさい。」
 さて、ヤイロはこのとき、イエスを信じたのでしょうか?聖書にははっきりと書かれていません。しかし彼は信じたことでしょう。娘は救われたのだから。イエスのことばどおりになったのです。起き上がった娘に食べる物を与えるように命じられたイエス(55)。そのとき、「両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」(56)
なぜでしょう?この出来事は娘の救いであると同時に、親の信仰のレッスンだったからです。だれかれ人に話すことではなく、あのとき自分がイエスを信じた。主は娘を救ってくださった。そのことをヤイロは深く思い巡らせる必要があったのです。
 恐れないでただ信じていなさい何を信じるのですか?イエスを信じるのです。「主は良いお方」と、ただその一点に集中するのです。最悪の事態になっても、恐れが絶望が自分を取り巻いても、あなたがすることはただ一つ。ただイエスを信じること。これがあなたが愛する家族のためにできることです。

 シャローム 純人

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6/19
見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。
 ルカ8:36

 嵐をおさめたイエスと弟子たちは、ゲラサ人の地に舟をつけました。ユダヤ人ではない異邦人の地です。ここでイエスは一人の男から、彼にとりついている悪霊を追い出されました。どのように?彼にとりついている悪霊を豚にのり移らせたのです。その霊はひとりではなく、大勢を意味する「レギオン」(30)。なので、レギオンがのり移ったのは一匹の豚ではなく、たくさんの豚の群れでした(32)。
「悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。」(33)
すさまじい光景!豚を飼っていた人たちは突然の出来事に驚き、逃げて行き、町や里でこのことを伝えました(34)。これを聞いた人々はイエスのところに行きました。イエスの足もとに、あの悪霊がとりついていた男が正気に返って座っているのを見ました。彼は、素っ裸で墓場に住んでいた「有名人」。あの男が服を着て穏やかにしている!どういうこと?これに続くのが冒頭の聖句。これを聞いた人々の反応は?
「ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。」(37)
彼らはなぜ、イエスに離れてほしいと願ったのでしょうか?何を恐れていたのでしょうか?
「こんなこと続けられたら商売あがったりだ!」
豚は彼らの財産でした(ちなみにユダヤ人は豚を食べないので、ここが異邦人の地であることがはっきりわかります)。それが一瞬にしてパーになったのです。だれのせい?イエスのせいです。彼らの恐れとは、イエスの不思議な力に対する恐れであり、それだけでなくイエスが居続けたときに自分たちが被る不利益を思っての恐れでした。
 イエスは言われるままに舟に乗って帰ろうとされました(37)。が、あの悪霊を追い出していただいた男は、イエスのお供をしたいと強く願いました。しかしイエスはこう言って彼を帰されます。
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」(39)
それで彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めました(39)。
 同じ一つの出来事でも違う反応がある。「お供をしたい」と願う人もいれば、「出て行ってくれ」と言う人もいる。それぞれの立場を考えれば、致し方ありません。そんな中で冒頭の聖句をもう一度、注目してください。この「見ていた人たち」は、この出来事の一部始終を見ていました。彼らはそれを見て、あの男が「救われた」のを知り、彼の「救い」を人々に知らせました。しかし、多くの人々は、たしかにこの知らせを聞いたけれども、目の前のことだけを見て、イエスがしたことが自分にとってどんな意味(利益・不利益)があるのか?それしか考えなかったのです。だから「出て行ってくれ」と願ったのです。
 私たちも、この「見ていた人たち」のようになりたいと思います。人をよく見たいと思います。一部分ではなく、よく見て、ひとりの人に対して神さまがされる「救い」を見出すものとなりたいと思います。そして、それを知らせるものとなりたいと思います。

  よい週末を!
 シャローム 純人

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6/18
 しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」 ルカ8:21

 イエスは自分の肉親をないがしろにしているのではありません。しかし、ここでイエスは「母・兄弟たち」ということばを用いて、神のことばを聞いて行うことがどれほど大切であるかを示されたのです。それでは「神のことばを聞いて行う」とはどういうことでしょうか?それが次の場面において明らかにされます。
 突風が吹き、舟は水をかぶり危険になりました(23)。弟子たちはイエスに訴えます。
「先生、先生、私たちは死んでしまいます。」(24)
眠っていたイエスは、起き上がり、風と荒波を叱りつけられます。
「すると静まり、凪(なぎ)になった。」(24)
直後にイエスは、弟子たちにこう言われました。
「あなたがたの信仰はどこにあるのですか?」(25)
ここでイエスが言われた「信仰」とは何に対する信仰だったのでしょうか?
「湖の向こう岸へ渡ろう」(22)
これです。イエスが弟子たちに語られたことば。これを聞いて弟子たちは舟を出したのです。しかし、湖に吹き付けた突風のゆえに、このことばも弟子たちの心の中から吹っ飛んでしまったのです。しかし、たしかにイエスは言われたのです。
「湖の向こう岸へ渡ろう」
イエスがこう言われたのだから、向こう岸に行くのです。行けるのです。そして、これが「神のことばを聞いて行う」ことなのです。「神のことばを聞いて行う」とは、そのことばを忘れない、離さない、握りしめる。信じ続けることなのです。弟子たちはこれに失敗しました。
昨日は、
「忍耐して実を結びます」(15)
という主のことばを学びました。信じること、信じ続けることは忍耐の要ることです。「神のことばを聞いて行う」ということは、実に忍耐の要ることなのです。イエスはご自身の語ったみことば(神のみこころ)を信じ続けました。だから嵐の中でもクークー眠っていられたのです(相当疲れていたのもあったと思いますが)。
 イエスに叱られた弟子たちはどうしたでしょうか?
「お命じになると、風や水までもが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか?」(25)
「そっちかい!」とツッコミいれたくなります。彼らは自分たちの信仰の薄さ、みことばを信じ続ける忍耐の欠けに目を留めるのではなく、目の前で行われたイエスの力あるみわざにくぎ付けにされたのです。これが弟子たちの信仰の現状であり、これからもさらに彼らは成長し続けていくのでした。


 シャローム 純人

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6/17
水曜祈祷会。今日も、午前の聖書研究で語り合われたことをお分かちします。あなたも聖書本文を読んで考えてみてください。

 ルカ8:1~15
①イエスがたとえで語られたのは、わかりやすくするためではありませんでした。それは「彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように」するためだと言われます(10)。このことと、イエスがたとえの最後語られた「聞く耳のある者は聞きなさい」(8)とは、どういう関係があるでしょうか?(イエスはやはり、群衆が理解することを願っておられたようです)
②「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(15)
実を結ぶための条件に「忍耐」があります。これをどう思いますか?
③このたとえは「四つの種」というよりも「四つの土壌」。それはみことばを受ける人の心を表しています。これを教会(聖徒の集まり)にも適用してみてください。教会が「良い地」であるとは、どんな状態のことを言うのでしょうか?
「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(15)

 もうすぐ、晩の祈祷会がございます。どうぞ、おいでになれる方はぜひ、いらしてください。ともに神さまに願いましょう。本日も、午後8;00
より中高生会オンラインミーティングが行われます。今週から、通常通りの授業になった中高生も多いです。さらに、みことばの励ましが彼らにありますように。

 シャローム 純人

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6/16
 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
 ルカ7:48

 「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されていることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(47)
「彼女は多くを愛した」とは、「一人の罪深い女」(37)が、イエスの足もとに近づき、泣きながら御足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗ったことです(38)。しかし間違えてはいけません。彼女がこのようなことをしたから、多くの罪を赦していただいたのではありません。そうではなく、彼女は多くの罪を赦していただいたから、このようなことをしたのです。イエスを多く愛したのです。しかし、そのあとでイエスは彼女に言いました。冒頭の聖句。
 「あなたの罪は赦されています」
わかっていることではないでしょうか?それを知ったからこそ、彼女は泣くほど感謝を込めてイエスの足に香油を塗ったのではないでしょうか?なぜイエスは、あえて彼女にこのことばを語られたのか?このことばは、イエスが彼女に対して語った最初のことばでした。イエスは同じメッセージを、罪の赦しをこれまでも語ってきました。彼女はそれを聞き、信じました(50)。しかし、かつて語られたイエスのメッセージは、人々へ語られたものでした。しかし、今、イエスは初めて彼女に対して、彼女に向けてこれを語られたのです。一対一のメッセージです。信じたイエスが、改めて自分にはっきりと語ってくれたのです。喜びはさらに深く心に広がったことでしょう。
 礼拝の説教は会衆に語られます。しかし6月の第一主日で聞いたように「幸いな人」(詩篇1:1)とは、ひとりの人。「あなた」に語られています。この視点はとても大切なこと。これが一番はっきりするのがデボーション(静思の時)。神さまと一対一。そこで読む、聞くメッセージは、この私に語られているのです。イエスが一人の罪深い女に対して語られたように。
「あなたの罪は赦されています」
前にも聞いたことがあることば。知っていることば。それを信じて多くイエスを愛しました。しかしイエスは、今日、ほかの誰でもないあなたに語っておられるのです。

 シャローム 純人

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6/14
2020年6月14日(日) 主日礼拝
コロサイ1:13~20 「世界で一番安全な場所」

祈りの土台

パウロは、まだ会ったことのないコロサイの教会の聖徒たちへ、しかし同じ福音を聞き、信じている者として彼らの信仰の助けとなる手紙を書いた。1:9~12は、パウロのコロサイの聖徒たちのための祈り。その前は「祈る理由」。そして今日の箇所1:13~20は「祈りの土台」ということができる。この上に立って私はあなたがたのために祈ります、とパウロは語っているのだ。

御子、御子、御子…

この「祈りの土台」において大切な二つのことば。一つは「御父」。最初(13)と最後(19~20))に登場する(19節の「神」は、父なる神を表している)。もう一つ大切なことばは?「御子」。この短い箇所に何回登場する?14回。実に今日の聖書箇所の八つの節すべてに登場する。
17、18節には二回、16、20節には三回出てくる。寝ても覚めても御子、御子、御子。御子イエス・キリストのこと。たくさんのことが語られているが、大きくまとめると四つのこと。
1. 御子は永遠の存在
御子は、見えない神のかたち(エイコーン:イメージ)。すべての造られたものより先に生まれた方(15)。万物に先立って存在している(17)→ヨハネ8:58)
2. 御子の創造のみわざ
すべてのもの:天と地にある、見えるもの見えないもの、すべてのものは、御子にあって、御子によって、御子のために造られた(16)。
3. 御子の救いのみわざ
私たちは御子にあって贖い:罪の赦しを得ている(14)。御子の十字架の血で私たちは神と和解した(19~20)。死者の中から最初に生まれた(よみがえられた)方(18)。
4. 御子はそのからだである教会のかしら(18)
この御子に感謝し、御子を恐れることが生きる基本。祈りの、信仰生活の土台。

世界で一番安全な場所~御子の支配(王国)~

実は、日本語の聖書でこれだけ出てくる「御子」であるが、今日の箇所の原文で「御子(ヒュイオス:息子)」はたったの一回。あとは全部「彼」。そのたった一回の「御子」は13節。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(13)。
この「愛する御子」の「御子」だけ「ヒュイオス」。パウロの「祈りの土台」は、一言でいえば「御子の支配」。永遠の存在であり、創造者にして、救い主、そして教会の頭である御子イエス・キリストの支配。この「支配」はギリシヤ語で「バシレイア」。本来は「王国」を意味する。私たちは暗闇の力(サタンの支配)から御子の支配される、御子の王国に移されたのだ。ここは、世界で一番安全な場所である。自分の国の中でいのちを狙われている人が外国に亡命する。そこは世界で一番安全な場所。いのちを狙う指導者や国家の支配から脱し、その国の支配・権威・権力のもとに身を置いているから。
では、私たちにとって「世界で一番安全な場所」とはどこか?先週の祈祷会で学んだのは、このみことば。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」(ルカ6:20)。
なぜ貧しい人が幸いなのか?「神の国はあなたがたのものだから」。どういうこと?この「神の国」の「国」が「バシレイア」。「神の国」とは、死んでから行く天国ではなく(それも間違ってはないが)、今、神が支配しているところ。しかし、神は無理やり私たちを支配しようとはされない。貧しい人はどうするか?足りないので求める。必死になって神に求める。すると、神がその人にとって一番良いことをしてくださる。それが、そこが神の国、神の支配なのだ。「支配されるなんてやだ」ではなく、「神さまが私を治めてくださり感謝します」という応答の祈りが沸き上がるのだ。イエスは言われた「貧しい人・今飢えている人・今泣いている人は幸いだ」と。みな、神に求める。「助けてください!」と。その人は満ち足り、笑うようになる。神の国、神の支配に生きるようになるのだ。苦しくて、悲しくて、泣きたくなるような心こそ「世界で一番安全な場所」である。求めるあなたに神さまが答えてくださるから。「御子」イエス・キリストは、今も、今日も生きておられ、あなたとともにいてくださる。

シャローム 純人

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6/13
 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」 ルカ7:9

 まず、聖書本文を読んでください。今日も短い箇所です。

 イエスさまを驚かす。すごいと思いません?!主が振り向いて興奮気味にみんなに言うんですよ。
「これほどの信仰を見たことがありません」って。どんな人?百人隊長。異邦人(ユダヤ人ではない外国人)。どこらへんに驚かれたのでしょうか?
「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。」(7)
ユダヤ人が異邦人と交わるのは良しとされていないかった。地位のあるローマ帝国の軍人であっても、会堂を建てるほどユダヤ人を愛している者であっても、聖書を教えるイエスに対してこのように考えた。しかしこれは謙遜であっても信仰ではありません。イエスを驚かせたのは次のことば。
「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。」(7)
これです。これにイエスは驚いたのです。百人隊長は日ごろ部下たちに「行け」、「来い」、
「これをしろ」と命令する。そして部下たちはまったくそのとおりにする(8。でも、人間が人間に命令するのと、人間が病気に命令するのとは違います。そもそも病気に命じるなんてナンセンス。しかし百人隊長は考えた。イエスは病気に対しても、いや、すべてのものに対して権威を持っておられ、彼が語ればすべてそのとおりになる、と。まるで「光、あれ」と神が命じたら光があったように(創世記1:3)。だから、
「ただ、おことばを下さい」
これが信仰です。イエスを驚かせた信仰。百人隊長が送った人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていました(10)。
 信仰とは何でしょうか?イエスを信じることです。神であるこのお方と、そのみことばを信じること。
 あなたもイエスさまを驚かせたいと思いませんか?

 シャローム 純人

2020年06月13日
ブレッド・オブ・ライフ
6/12
 あなた自身、自分の目にある梁(はり)が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。
 ルカ6:42

 梁とは家を建てるために使う丸太のこと。ちりとは、木屑のこと(41節注)。目の中に丸太があったら、ほとんど何も見えません。ましてや他の人の目の中のちりなど見れるわけがありません。しかし、よく見てください。イエスはここで「人のあら捜しをするな」と言っているのではないのです。最終的には、「兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます」。
イエスの弟子たちは、互いに目のちりを取り除き合う仲間なのです。そのために、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい」。
他の人が取り除くのではありません。自分が取り除かなければならないのです。梁もちりも、ともに事実を表わしています。自分の事実、他の人の事実。しかしまず、自分自身の事実をしっかり認め、それを自らが神の前に告白するのです。そのとき、目の中の梁を取り除くとき、初めて兄弟の目の中のちり(事実)をその人に伝えること、それを主にあって取り除くことができるのです。その場に平安が生まれるのです。
 「偽善者よ」とイエスは言われます。厳しいですが、自分の事実を想い、主の御声から耳をそらさないように。
 今、あなたが取り取り除くべき「梁」とは何ですか?

 おはようございます。
 次主日のお知らせ。6/14(日)は、午前7:30より早朝礼拝、午前10:30より礼拝が行われます。コロサイ1:13~20「世界で一番安全な場所」。先週は早天礼拝に24名の方がおいでになりました。引き続き、可能であるならば、早天に出席されることをお勧めします(密を避けるため)。
 お知らせ。私たちの教会と親しい交わりをいただいている「デュオ高瀬」のニューアルバム「LUFTPAUSE・ルフトパウゼ」がリリースされました。以下、デュオ高瀬のFacebookページから抜粋。

「(ルフトパウゼとはドイツ語で)「静止」これは日本語のタイトルで副題。ちょっとまて「車は」急には止まれない。という有名な交通標語?がありますが、「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。聖書」をコンセプトに録音したアルバム。録音場所は、日本の中心「岸和田」にある岸和田聖書教会の礼拝堂をお借りして、生演奏録音方式で編集なしの一発録りで臨みました。その節はお世話になりました。」
そうなんです!私たちの教会の礼拝堂で収録されました。ジャケットにも、しっかりと記してあります。
「Tracks recorded at Kishiwada Bible Church」って。
収録曲
「善き力に守られ」、「美しく青きドナウに」、「情熱大陸」、「雨だれ」ほか。
一枚2,000円(税込み)。もう、これは買うしかありません!
次主日から教会で販売します。お楽しみに。

シャローム 純人

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6/11
 あなた自身、自分の目にある梁(はり)が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。 ルカ6:42

 梁とは家を建てるために使う丸太のこと。ちりとは、木屑のこと(41節注)。目の中に丸太があったら、ほとんど何も見えません。ましてや他の人の目の中のちりなど見れるわけがありません。しかし、よく見てください。イエスはここで「人のあら捜しをするな」と言っているのではないのです。最終的には、「兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます」。
イエスの弟子たちは、互いに目のちりを取り除き合う仲間なのです。そのために、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい」。
他の人が取り除くのではありません。自分が取り除かなければならないのです。梁もちりも、ともに事実を表わしています。自分の事実、他の人の事実。しかしまず、自分自身の事実をしっかり認め、それを自らが神の前に告白するのです。そのとき、目の中の梁を取り除くとき、初めて兄弟の目の中のちり(事実)をその人に伝えること、それを主にあって取り除くことができるのです。その場に平安が生まれるのです。
 「偽善者よ」とイエスは言われます。厳しいですが、自分の事実を想い、主の御声から耳をそらさないように。
 今、あなたが取り取り除くべき「梁」とは何ですか?

 シャローム 純人

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6/10
毎週水曜日は祈祷会。その日の聖書日課をみんなで読み、考え、語り合い、教えられます。午前の祈祷会で話し合われたことをもとに、いくつかの問を立てました。ぜひ、あなたも聖書本文を読んで、考えてみてください。

ルカ6:20~26
①「貧しい人たち・今飢えている人たち・今泣いている人たち」が「幸い」とは、どうも納得いきません。どういうことなのでしょうか?(このような人たちは、その結果どうするのでしょうか?)
②「富んでいる・今満腹している・今笑っている」ということは、それ自体が悪なのでしょうか?イエスが言いたかったことは何だったのでしょうか?
③「天においてあなたがたの報いは大きい」(23)と言われます。「天」とは、いわゆる来世におけるのことだけを指しているのでしょうか?20節の「神の国」も、いつのことを指しているのでしょうか?

 素直に読んだら理解できないことばかりですね。でも、「神の支配の中」で素直に読むと、違った景色が見えて来るでしょう。

 祈祷会は、今晩7:30からもございます。お仕事の帰りに、一日の終わりに、ぜひ、いらしてください。心を合わせて主を賛美し、主に向かって祈りましょう。

 シャローム
 純人

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6/9
そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。
 ルカ6:13

 『みことばの光』の聖書日課は、昨日から新約聖書「ルカの福音書」になりました。今回は6章から。今日の聖書日課は、12弟子(使徒)が選ばれた場面。何十人、何百人といたであろうイエスにつき従っていた人々の中から、イエスはあえて12人を選ばれました。その目的は、「彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教させ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコ3:15)
しかし「この12人」を選ばれた理由は、どの福音書にも書かれていません。信仰篤いとか、能力が高いとか、そんなことは書かれていないのです。ただ、イエスが夜を明かして祈った結果、彼らは選ばれたのです(12)。今日の聖書日課には、群衆が病気を治してもらうため、悪霊を追い出してもらうため、イエスにさわろうとした、とありますが(19)、この12人は、いつもそばにいて、イエスにさわることができたのです。まさに使徒ヨハネが言った通り。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば(イエス・キリストのこと)について」(Ⅰヨハネ1:1)
これは大変な特権でした。
 しかし、またこれは大変な重荷でもありました。12使徒は伝承によれば、みな殉教したと言われています。一度は全員、逮捕されたイエスを見捨てて逃げてしまいますが(マタイ26:56)、後によみがえらえたイエスに会い、昇天されたイエスから聖霊を受け、死の苦しみをも甘んじて受ける宣教者となったのです。もっともこの時点では、彼らは、自分たちがそんな道を歩むなど思ってもみなかったでしょうが。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、またあなたがたがわたしの名によって父の求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)
 私たちは使徒ではありません。しかし、主は私たちにもこのみことばを語っておられます。大きな特権と大きな重荷。しかし、これらすべてが神の恵みなのです。パウロは言いました。
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(ピリピ1:29)

 シャローム 純人

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6/7
2020年6月7日(日) 主日礼拝 
詩篇1:1~6 「幸いな人~その2 明日もきっと大成功~」

幸いな人とはだれ?

詩篇1篇が取り上げる「幸いな人と悪しき者」。これは二人ではない。一人と一グループである。
「幸いな人」は単数形。「悪しき者」は複数形。つまり「悪しき者たち・罪人たち・嘲る者たち」。なぜ「幸いな人たち」ではないのか?詩人は一人の人=幸いな人=「彼」に注目しているからである。その「彼」とはだれか?あなたである。この詩を読んでいるあなたである。ここで語られている幸いな人とはあなた一人のことである。あなた一人だけではないが、聞くべきは「私たち」ではなく「私」、この私なのである。

明日もきっと大成功

前回は、幸いな人も悪しき者たちもその特徴が口、ことばにあることを学んだ。「嘲る者(たち)」と「主のおしえを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人」。幸いな人とは、主のおしえ、みことばが喜びであり、みことばを聞いているので、思わずその恵みのことばがぽろっと出てしまう人。今日はその続きを見て行こう。その人は木のよう。流れのほとりに植えられている木。人工の水路にあえて植えられている木。計算されつくされている木。三つのことが語られている。「時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」。普通ではありえないこと。しかし、主のおしえを喜びとし 昼も夜もいつでもそのおしえを思い巡らし口ずさむ人は、いつでもどこでも栄える(成功する)のだ。あなたが成功するのではない。あなたの思い通りになるのではない。神のことばが、あなたを通して成就するのである。これに対して「悪しき者たち」は、あの木のようにどっしりとしていない。どんなに数が多くても、穀物の中身を抜かれた籾殻のようである。人生の大風が来るとたちまち吹き飛ばされていく。「それゆえ 悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに立てない」(5)は、すっかり自信を失ってしまった彼らの姿を現しているのではないだろうか。

主が知っておられる私たち

1篇は「幸いな人」と「悪しき者たち」のことについて語られている、と言った。しかし、この詩の最後は変化している。「正しい者」(5、6)は、複数なのである。すなわち「正しい者たち」。
「幸いな人」の集まりが「正しい者たち」なのである。そして、「まことに 正しい者(たち)の道は主が知っておられ 悪しき者(たち)の道は滅び去る。」
(6)
「幸いな人」は、ひとりではない。孤独ではない。ひとりぼっちではないのである。あなたは、あなたと同じように主のおしえを喜ぶ 昼も夜もいつでもそのおしえを口ずさむ幸いな人とともに歩むのである。主は正しい者たちの道を知っておられる。ただ単に知っているということではない。
注意し、注目し、知っておられるということ。神さまは、今、ここに集っている、主のおしえ、みことばを慕い求め、喜び、語る私たちに目を向けてくださっている。その道は一つ。「悪しき者たちの道」も一つ。自分勝手でバラバラのように見えても一つの道。主のおしえの中に喜びを見出さないことにおいては一つ。「滅び去る」とは「失われる」とも訳せることば。神が目に留めてくださらない。神から切り離される。それが滅びである。本来、私たち一人一人はこのような者たちであった。「悪しき者たち・罪人たち・嘲る者たち」であった。しかし、神はそんな私たちを、まさにひとりの人間として救ってくださった。主イエス・キリストの十字架と復活により、罪のさばき、罪の縄目から解放してくださり、神をののしり、人を嘲る者から、神を喜び、人を祝福する者としてくださった。
みなさんひとりひとり、明日もきっと大成功!みことばがあなたのからだ、心、生活を通して表されますように。そしてまた来週、ともに集う私たちに、神さまの愛のまなざしが注がれます。

祈り
天のお父さま。あなたのみことばを喜ぶ私と私たちをしっかりと見ていてくださり、ありがとうございます。
イエス・キリストの御名によってアーメン

おはようございます。
昨日も、多くの方が神さまを礼拝されました。初めての人、外国の方もおいでになり、ともにみことばを聞き、祈ることができました。
神さまに遣わされた今日一日の中で、語られたみことばが、大成功しますように。

シャローム 純人

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6/6
「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」
 Ⅰ列王21:29

 ベン・ハダド王を「聖絶せよ」との命令に従わなかったアハブ王(20:42)。アラムと北イスラエルには三年は戦いがありませんでした。しかし三年目になってアハブは、アラムと戦うことを決意しました。かつて、アラムに奪われたラモテ・ギルアデの地を取り返すためです。アハブは南ユダの王ヨシャファテに援軍を要請します。ヨシャファテはアハブにこう言いました。
「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」(4)
かくして北と南、まさに全イスラエルは協力してアラムと戦うためにラモテ・ギルアデに行くことになりました。
 ユダの王ヨシャファテは、主を慕い求める王でした(Ⅱ歴代17:3~6)。彼は戦いに行く前、アハブに言いました。
「まず、主のことばを伺ってください。」(5)
アハブは約400人の預言者を集めて(バアルの預言者ではないですよ)、彼らに尋ねました。
「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」(6)
彼らは異口同音に言います。
「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。」(6)
しかしヨシャファテはアハブに言いました。
「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか?」
(7)
「何かちがう」と思ったのでしょう。これを聞いたアハブはミカヤという預言者を連れてきました。途中割愛しますが(ご自分で聖書を読んでください(8~23))、最終的なミカヤのメッセージは以下の通り。
「今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者たちの口に、偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわい(攻め上って倒される)を告げられたのです。」(23)
彼こそ、まことの主の預言者。しかしアハブは、このミカヤのことばを退け、彼を獄屋に入れ、自分たちはラモテ・ギルアデに攻め上っていきました。その結果は?北南連合軍の敗北。アハブは戦死し(22:35)、ヨシャパテは主に助けられて無事にエルサレムに帰りました(Ⅱ歴代18:31、19:1)。
 昨日の聖書日課を読んでいる方は、「おかしいな」と思われたことでしょう。冒頭の聖句。これは昨日の箇所の最終節です。エリヤのことばを聞いて悔い改めたアハブについて主が言われたことば。
「彼(アハブ)の生きている間はわざわいを下さない」のではなかったか?どういうことでしょうか?主はウソをついたのか?違います。
「彼がわたしの前でへりくだっているので」これが答えです。アハブが主の前にへりくだったので、主はわざわいを下すことを思い直されました。しかし、アハブはまたもや、主の前にへりくだることをやめ、高ぶっていったのです。預言者ミカヤのことばを退け、そればかりか彼を投獄し、突っ走って戦いに出て行ったことが何よりの証
拠です。
 主の前でへりくだる。どういうことでしょうか?それは、あなた自身が知っています。しかし知っているということと、そのようであるということは別です。主の前に静まり、今一度、御前にへりくだることを思い起こしましょう。

 こんにちは。
 明日は主の日。ともに礼拝を献げましょう。可能な方は7:30からの早朝礼拝においでください。マスクを着用し、教会玄関でアルコール消毒をしてお入りください。オンライン礼拝も継続しています。一つ一つが用いられますように。礼拝に関わる奉仕者おひとりおひとりに主の報いがありますように。

 シャローム 純人

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6/5
アハブのように自らを裏切って主の目に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。 Ⅰ列王21:25

 イズレエルの宮殿近くにあるぶどう畑欲しさのゆえに、ナボテを殺してまで土地を奪い取ったアハブ。そんなアハブのいるサマリアに再びエリヤが登場します。エリヤはアハブの殺人と略奪を指摘し、主のことばを伝えました。
「今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童(こわっぱ)から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。それは、あなたが引き起こしたわたしの怒りのゆえであり、あなたがイスラエルに罪を犯させたためだ。」(21~22)
これを聞いたアハブはどうしたか?やっぱり「不機嫌と怒り」でしょうか?いいえ、違います。
「アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布(あらぬの)をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。」(27)
悔い改めたのです。主はエリヤにこう言われました。
「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか?彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」(29)
 何がアハブをこのようにさせたのでしょうか?実は21~22節のエリヤのことばには続きがありました。
「また、イゼベルについても主はこう言われる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。』」(23~24)
これが「効いた」のです。この時、アハブはイゼベルのしたことを客観的に振り返りました。「たしかに(彼女は)ひどいことをしてきたな」そう思ったのではないでしょうか?そして、妻に対する主のさばきの妥当性を認めたとき、急に恐ろしくなったのです。
 冒頭の聖句は聖書記者のアハブに対する評価です。
「彼の妻イゼベルが彼をそそのかした」
そのとおり。アハブの悪の背後には必ずイゼベルがいました。しかし聖書は、だからアハブは無罪だとは言いません。アハブは、「自らを裏切って主の目に悪であることを行った」。
原文を直訳すると、「主の目に悪を行うために自分を売った」となります。「たましいを売る」ということばがありますが、まさにアハブはイゼベルにそそのかされて、主に仕えるべき自分のたましいを売り飛ばしてしまったのです。彼は自分で自分を裏切りました。
 ところでこのアハブとイゼベル夫婦。だれかに似ていないでしょうか?そうです。アダムとエバ。アダムもエバにそそのかされて、誘われて、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。しかし、アダムが主に対して「この女が…」(創世記3:12)とエバのせいにしたのに対して、アハブはイゼベルのせいだとは言いませんでした。私たちはなぜ、人のせいにするのでしょうか?本当のことだからです。エバのせいでアダムは食べたのです。しかし人のせいにしていると、もう一つの本当のことを忘れてしまいます。アハブはそのもう一つ、自分がたましいを売ったことを認め、主に立ち返ったのです。
 「ここまでやってきて、今さら調子いいこと言うな」と思われますか?主は偽りなく悔い改めたアハブをあわれんでくださいました。

 おはようございます。
 今、教会にはお掃除担当の方々が来られ、日曜日の準備をしておられます。次主日のお知らせ。
6/7(日)は午前7:30より早朝礼拝、午前10:30より礼拝をお献げします。オンライン(YouTube)礼拝も継続します。詩篇1:1~6「幸いな人~その2 明日もきっと大成功!~」。この日から、CS(幼稚科・小学科)、中高生会も再開します。コロナウィルス感染予防のため、可能であれば早朝礼拝に出席されることをお勧めします。礼拝後、午後からは執事会が行われます。今後の教会の集会・交わりについて話し合います。10名の執事と牧師の名前を呼んでお祈りください。
 礼拝のために、今、できる準備をしましょう。

シャローム 純人

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6/4
アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。
 Ⅰ列王21:4
妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」
 Ⅰ列王21:7

 北イスラエルの首都サマリアの50キロ北にイズレエルという地がありました。そこには、アハブ王の宮殿があり、そのそばにぶどう畑がありました。ナボテという人の所有する土地でしたが、アハブはこの土地を自分の野菜畑にしたいと思い、ナボテに願いました。
「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい…その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を支払おう。」(2)
ナボテの答えは「No」でした。
「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」(3)
王の願いなのに、と思います。しかし、これにははっきりとした理由がありました。
「このように、相続地は、部族からほかの部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。」(民数記36:9)
かつて主がモーセを通して語られたこと。イスラエル人であれば、みんな知っていました。先祖が主から受けた土地、相続地は堅く守らなければならないのです。
 これを聞いたアハブの反応が冒頭の聖句。すると、そこに妻のイゼベルがやってきて、アハブにその不機嫌の理由を尋ねます。アハブが妻に一部始終を伝えると、イゼベルは答えました。
「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。
この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」(7)
どうやって、イゼベルはあの土地を手に入れようとしたのでしょう?彼女はアハブの名でナボテの住んでいる町の長老たち宛に手紙を書きました。このように。
「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、彼の前に二人のよこしまな者を座らせ、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」(10)
なんてひどいシナリオ!しかし、ことはすべてのイゼベルの書いたとおりに進みました。ナボテは石打ちにされて殺されたのです(13)。イゼベルがこのことをアハブに伝えると、アハブはナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行きました(明日に続く)。
 この話の中には、さまざまな人々の偽りと悪が織り混ざっています。ナボテは石打ちにされますが、その理由は「神と王を呪った」ということでした。これはウソでした。しかし「二人のよこしまな者」が、証言したのです。ナボテは信仰によって主が与えられた相続地を守っていた人。神を呪うわけがありません。しかし彼らは、それを知っていながらウソの証言をしました。まさに「よこしまな者」。しかし、このような「よこしまな者」を差し向けた人がいました。長老たちです。
彼らも同じくナボテが信仰深いことを知っていたはずです。しかし、イゼベルの書いた手紙のとおりに動きました(11)。イスラエルの長老ですが、主を恐れていなかったのです。しかし最も悪いのはイゼベルです。すべては彼女の悪と偽りによってナボテは殺されたのです。
 イゼベルは異邦人でした。彼女が夫に「あなたはイスラエルの王権を得ています。」というとき、アハブの上にはだれもいません。だから、その王権をもって何でも思うようにしてもよい。そう考えました。しかしイスラエルの王は、そうではありません。イスラエルの王は自分に王権を与えられたお方を恐れ、この方に仕え、この方にあって民を治めるべきなのです。アハブは思い通りにならないことがわかったとき、最初からイゼベルが考えたようなことをしませんでした。どうしたかというと、「不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った」のです(4)。実はこのフレーズ、昨日のお話、20章の最後にも出てきます。主の預言者から、アラムの王ベン・ハダドを聖絶しなかったことを責められたとき、「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」(20:43)
預言者は「主はこう言われる」と言い、ナボテは「(相続地を譲るなど)主にかけてあり得ない」と言いました。アハブも主を知っているイスラエル人であり、これらのことばに「引っ掛かり」を覚えたことでしょう。この「不機嫌・怒り」とは思い通りにならないゆえの感情ですが、これはまたチャンスでした。自分は、ほかでもないイスラエルの王であり、ただ主に仕えるために立てられた者であることに気づく機会だったのです。しかし、残念ながらアハブは思い通りにならないスト
レスを、主を恐れない妻の助けによって、自分の力で乗り越えていったのです。
 私たちもまた、不機嫌・怒りを持つことがあります。しかし、立ち止まって考えてみましょう。
この不機嫌・怒りはどうしたら去っていくのだろうか?と。道は二つ。自分の力で乗り越えていくか。主に立ち返り、悔い改めて神さまの前にへりくだるか。たとえ乗り越えたとしても、その向こうにはもっと大きい山が待っています。
シャローム 純人

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6/3
毎週水曜日の祈祷会(午前10:30、午後7:30)では、『みことばの光』の聖書日課(ブレッド・オブ・ライフもこの聖書日課に沿っています)をみんなで読んで、教えられたことを分かち合います。水曜日のブレッドは、メッセージではなく、その日の箇所を読むにあたって、注目したら良いと思われる点をいくつか挙げます。これを見て実際に聖書を読み、考えてください。

Ⅰ列王20:22~43
①23節:なぜアラムの王の家来たちは、主のことを「山の神」と考えたのでしょう?
②30節:アラム軍で生き残った2万7千人の上に城壁が崩れ落ちました。イスラエル軍がこの城壁を崩したのではない、と考えるなら、この出来事は何を表しているでしょうか?
③35~36節:預言者の仲間を打つことを拒み、その後「主の御声に聞き従わなかった」ために、すぐに獅子に殺されてしまった人とは、だれのことを指しているのでしょうか?
④ ③の答えとなる人物は、実際はこの時点において死んでいません。このことから、神はどんなお方であることがわかりますか?

 上記のことは、午前の祈祷会に出席されたみなさんの対話において出された問です。もし、晩の祈祷会に出られるならば、いらしてください。ともにみことばから学びましょう。
 晩の祈祷会の30分遅れで、中高生会オンラインミーティングが行われます。学校が始まった中高生たちにも、みことばの励ましがありますように。
シャローム 純人

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6/2
ちょうどそのころ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしが主であることを知る。』」 Ⅰ列王20:13

 北イスラエルの王アハブは弱い人間でした。預言者エリヤが、あのバアルの預言者450人に勝利したのを見ても、民が「主こそ神です。主こそ神です。」(18:39)というのを聞いても、主に立ち返りませんでした。むしろ、エリヤがしたすべてのことを妻のイゼベルに告げました(19:1)。主を恐れないイゼベルは、エリヤのいのちを狙いに行きます。アハブはそれに対して何も言うことができませんでした。
 今日の聖書日課20章は、アラムの国の王ベン・ハダドが、北イスラエルの首都サマリヤを包囲したところから始まります(1)。このくだりを読んでください。アラムと北イスラエルの力関係は歴然としています。ベン・ハダドはアハブに無理難題を押し付けます。
「私はおまえに人を遣わし、おまえの銀と金、および、おまえの妻たちや子どもたちを私に与えよ、と言った。明日の今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らはおまえの家とおまえの家来たちの家の中を探し、たとえ、おまえが一番大事にしているものさえ、手をかけて奪い取るだろう。」(5~6)。
 こんなことを言われてアハブはどうしたでしょうか?彼はイゼベルの慕う偶像バアルに頼ることもなく、かといって主を求めることもせず、イスラエルの長老に泣きつきました。
「あの男(ベン・ハダド)が、こんなひどいことを要求しているのを知ってほしい。彼は人を遣わして、私の妻や子どもたち、および、私の銀や金を求めたが、私はそれを断り切れなかった。」
(7)
長老たちも信仰がありません。主にすがる、などという発想も出てこず、ただ、「聞かないでください。承諾しないでください。」(8)
と言うだけでした。アハブはこれを聞いて、今度はベン・ハダドにこう言いました。
「初めにあなたがこのしもべにお求めになったことは、すべてそのようにいたしますが、このたびのことはできません。」(9)
ベン・ハダドは怒り、アハブを脅しました(10)。するとアハブは追い打ちをかけるようにこう言いました。
「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。」(11)
「まだ戦ってもいないのに、勝ったようなことを言うな」という意味。ベン・ハダドは家来たちに言いました。
「配置につけ」(12)
いよいよ全面戦争です。バアルにもつかず、主にもつかず、ベン・ハダドにも背を向けたアハブ。
いったいどうなるの?
 と、そのときです。冒頭の聖句。ひとりの預言者、主の預言者がアハブに主のことばを伝えました。主がアハブの手にアラムの軍勢を引き渡す、と。
「見よ」
主は言われました。何を見るのか?アラムの大軍勢を見るのか?違います。主は、「わたしを見よ」
と言っているのです。
ハッとさせられたアハブ。「見よ」と言われるその方向、主を見つめたアハブは、このことばに従い、主にすがってアラムと戦いました。結果は北イスラエルの勝利!(20)。アハブは、主が言われた「わたしこそ主である」そのことを知ったのです。
 神さまは、あなたにも言われます。「見よ」と。「わたしを見よ」と。信仰を持っていても主を見失ってしまう。その時に主は言われるのです。「見よ」と。今、あなたはどこを見ていますか?
シャローム 純人

2020年06月30日

ブレッド・オブ・ライフ 05

5/31
2020年5月31日(日) ペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝
使徒2:37~42 「これが教会です」

これが教会です~仲間に加えられた~

ペンテコステ(聖霊降臨祭)。イエスの弟子たちに約束の聖霊が降った日(1~4)。12弟子、特にペテロが語ったメッセージを聞いて、人々が悔い改めてバプテスマを受けた日。ペテロはこう言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38)「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、3000人ほどが仲間に加えられた。」(41)。聖霊は集っていた弟子たちに同時に降った。「その日」、3000人がバプテスマを受け、仲間に加えられた。教会とは、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じ、悔い改めてバプテスマを受けた者たちの集い。仲間に加えられた者たちの集い。これが教会です。

これが教会です~専念した~

その日、産声を上げた教会がしていたことはこれ。42節原文直訳。「彼らは専念した。使徒たちの教えと交わり、パン裂きと祈りに。」。使徒たちの教え=イエスの教え、今でいうならば聖書のみことば。交わり(コイノーニア)とは共有すること。みことばの恵みを受けて、それを分かち合う。「パン裂き」とは聖餐式。救い主イエス・キリストの十字架のみわざを感謝して、ともに祈った。主イエスを呼び求めた(1:14)。彼らはこれらのことに専念した。これが教会です。

これが教会です~祈りの答え~

その結果が43~47節。不思議、しるし。一切のものの共有。毎日集まり、パン裂きをし、食事をし、神を賛美した。これらは、「教会がすべきこと」ではない。これらは、3000人が専念したことの結果。祈りの答え。生み出されたもの。聖霊を受けた教会、集いが、みことばを共有し、感謝のうちに祈った結果、その集いに与えられたもの。祈りの答え。これが教会です。
今日から始まる私たちの新しい歩み。みことばを共有し、私たちに主イエスさまが何を与えてくださるのか、ワクワクしながら、ともに祈っていこう。

 おはようございます。昨日のペンテコステ礼拝は、約2か月ぶりの会堂礼拝でした。雨の中、早朝・午前の礼拝に、大人子ども合わせて約70名が出席し、ともに礼拝をお献げしました。また、ご自宅でオンラインで礼拝するという連絡をくださった方もおられました。これから、ともに「主よ!」と呼び求める私たちに何を与えてくださるのか、楽しみにしながら歩んでいきましょう。
 今日のバースデー。本日6月1日は、黒田朔先生のお誕生日です。おめでとうございます。80歳になられました。これまでのみことばのお働き、特にこの1年半の牧会に心から感謝します。新しく尾崎を拠点にして始まった「牧会おたすけマンミニストリー」。朔先生が康子ミセスとともに、祝福の器としてさらに用いられますように。
シャローム 純人

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5/30
ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あななたのおことばどおりによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。そうすればこの民は、主よ。あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださった:ことを知るでしょう。」 Ⅰ列王18:36~37

 エリヤVSバアルの預言者450人。
「火をもって答える神、その方が神である。」(24)
「先攻」はバアルの預言者たち。彼らはいけにえの雄牛一頭を取って薪の上に載せ、それから朝から真昼までバアルの名を呼びました。何の答えもないと、今度は剣や槍で自分の身を傷つけ、血を流して騒ぎ立てました。しかし、「何の答えもなく、答える者もなく、注意する者もなかった。」(29)
 そこでエリヤが登場。彼はイスラエル12部族にちなんで12の石を取って祭壇を築きます。薪を並べ雄牛を載せました。それだけではありません。四つのかめに水を満たし、それらの上に注ぎました。一度ならず二度。いや三度、水を注ぎました。祭壇は水浸し。ここでエリヤは主に祈りました。それが冒頭の聖句。その後の結果だけ、先に確認しましょう。
「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。」(38)
一瞬のうちの出来事でした。これを見た民は言います。
「主こそ神です。主こそ神です。」(39)
エリヤの命令により、民はバアルの預言者を一人残らずキション川に連れて行き、そこで彼らを殺しました(40)
 エリヤの祈りに戻りましょう。彼は主のことばを聞き、この戦いを企てました。そしてこの場において主に祈り、その祈りに主が答えられたのです。祈りの前には主のみことばがあり、祈りの後には主の答えがあるのです。あなたの祈りは、今、どのようですか?
 この後、主によって、そのみことばのとおり雨が降りました(1、41~46)。アハブ王はここにおいても預言者エリヤに主が語られたことを知ったのです。

 こんにちは。
 明日は、いよいよ会堂礼拝。朝7:30からと午前10:30からです。ペンテコステ。主イエスを信じる私たちに聖霊がおられ、私たちに聖霊の満たしがあること、その私たちを神さまが用いてくださることをともに学びましょう。礼拝のために、今、自分ができる備えをしましょう。

シャローム 純人

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5/29
オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」 Ⅰ列王18:7

 みことばの力を知り、祈りの訓練を受けて、エリヤは再びサマリアにいるアハブ王に会いに行きました。エリヤはアハブに戦いを挑みました。アハブが慕っている偶像バアルの預言者400人と偶像アシェラの預言者450人を集めて、カルメル山(サマリアの北約50キロ)に連れて来い!と。けんかするのではありません。長いですが、エリヤがカルメル山で偶像の預言者を含むイスラエルの民に語ったことばをお聞きください。
「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は450人だ。私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それぞれ切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」(22~24)
この「戦い」の結果は? 明日のお楽しみ。
 エリヤは自分一人が主の預言者として残っている、と言いました。しかしひとりではありませんでした。仲間がいたのです。その名はオバデヤ。彼はアハブ王の宮廷長官。当時、サマリアは大飢饉に襲われていましたが、アハブはオバデヤと二人、別れて北イスラエルの国中を巡り歩きました。泉や川に行って、家畜に食べさせる草を見つけるためです(2~6)。このオバデヤ、アハブの側近中の側近でしたが、実は、「オバデヤは主を深く恐れていた。」(3)
かつてアハブの妻イゼベルが多くの主の預言者を殺したとき、彼は50人の主の預言者2グループ、合計100人の預言者をかくまい、食べ物を与えて養いました(4)。冒頭の聖句は、アハブと別れて歩いていたオバデヤが、自分のところに近づいて来るエリヤを見て言ったことば。
 オバデヤの主人はアハブでした。しかし彼は真の主人はエリヤであると言っているのです。いえ、真の主人は主なる神なのでした。最終的にこのオバデヤがアハブをエリヤに引き合わせ、エリヤはアハブと、偶像の預言者たちと「対決」することになったのです。あのカルメル山で、エリヤが気負って「私一人が主の預言者だ」と言ったとしても、そこには最低一人、ともに主の名を呼ぶ仲間がいたのです(カルメル山にオバデヤがいたことを聖書本文で確認することはできませんが、アハブはエリヤのそばにいました(41)。側近のオバデヤもきっとアハブのそばにいたことでしょう)。祈りとは生きておられる主の名を呼ぶことです。「主よ!」と。祈りは一人で献げ、また同じ信仰の仲間とともに主の名を呼ぶことです。

 おはようございます。
 次主日のお知らせ。5月31日(日)は「ペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝」を午前7:30と午前10:30の二回、岸和田聖書教会礼拝堂でお献げします。使徒2:37~42「これが教会です」。約2か月振りの会堂礼拝です。教会に入られる際はマスクをし、玄関でアルコール消毒をしてください。
一つの長いすに二人を目安にお座りください。人数が偏らないように早朝礼拝(7:30)出席をお勧めします。礼拝では、賛美グループ「はこぶね」による「さらなる成長を目指して」の特別賛美がございます。2020年度の主題聖句をみんなで覚えていきましょう。なお、オンライン動画配信(YouTube)は今後も続けていく予定です。
https://www.youtube.com/channel/UCRGWM77ZdWLmK3iLkaW_rPg
よりお入りください。
 また、この日は午後2時より、福音交友会総会がオンラインで行われます。教会からは牧師と5名の代議員が出席します。福音交友会14教会それぞれに、今、神さまの恵みが注がれるよう、お祈りください。
 ここまで、私たちを守り、導いてくださった主の御名をほめたたえます。これからも、コロナウィルス収束のために日ごとに労しておられる方々に神さまの助けがありますように。

シャローム 純人

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5/28
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」 Ⅰ列王17:24

 「ヤロブアムの道」に歩む王たち。真の王である主を信頼せず、自分の力に拠り頼む王たちが連なる北イスラエル王国。その中でも最悪と言えるアハブ王の時代に、主は預言者エリヤを起こされました。神がみことばをもって人を生かし、世界を支配されることを示されるためです。
「ギルアデの住民であるティシュべ人エリヤはアハブに言った『私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。』」(1)
このように言った後、エリヤは主のことばに従い、自分の拠点を二度移します。一回目はヨルダン川の東、ケリテ川のほとり(5)。
「あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(4)
なんと、エリヤはそこで烏に養われました。烏が毎日持ってくるパンと肉を食べて過ごしたのです(6)。やがてケリテ川の水が雨が降らないために涸れると、二度目の移動。主はエリヤを遠い地中海沿岸の町シドンのツァレファテに行くよう命じられました。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(9)
烏のあとは異邦人のやもめ(未亡人)に、エリヤは養われることになりました。
 ツァレファテに行くと、主のことばどおり、エリヤは一人のやもめに出会います。彼はやもめに、水とパンを求めますが、彼女はこれを拒否します。飢饉の中で絶望したやもめは、一人息子と最後の食事をした後、心中するつもりだったのです(12)。エリヤは、それでもまず「私のために食べ物を用意せよ」と言いました(13)。なんて無茶なことを!と思います。しかしエリヤは話を続けました。
「イスラエルの神、主がこう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油ははなくならない。』」
ここで、やもめは偉かった!エリヤのことば、主のことばを信じたのです。すると、そのとおりになりました。彼女はその場ではエリヤに水とパンを与え、それから後、かめの粉・壺の油はなくならず、彼女とその家族はそれを食べて暮らしたのです(15~16)。
 しかし、一難去ってまた一難。今度は、あのやもめの息子が重い病気にかかり、死んでしまいました(17)。絶望したやもめは、エリヤにつぶやきます。
「神の人よ。あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」(18)
こんなことになるのなら出会わなければよかった、と言わんばかり。しかしエリヤはこれを真正面から受け止めます。彼女の懐(ふところ)から息子を受け取ると、彼を抱きかかえて自分が泊まっていた屋上の部屋に上がり、ベッドに寝かせます。そして、「彼は主に叫んで祈った。私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか?」(20)
それで終わりません。まだ続きます。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」(21)
すると、「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。」(22)
 冒頭の聖句は、生き返った息子をエリヤの手から受け取ったやもめのことば。ここで彼女が言った「あなたの口にある主のことば」とは何でしょうか?この場面でエリヤはやもめに主のことばを語っていません。では、それは何だったのか?
「主が地の上に雨を降らせるまで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。」(14)
これではないでしょうか。やもめにとって、それは「昔の出来事」でした。しかしこの時、彼女はあの主のことばは、あの時も、また今のこの時も真実である。真実な神、主は、そのみことばのとおり、自分たちを生かしてくださるのだ、ということを知ったのです。彼女は一つのみことばで二度救われました。
 エリヤにとっても、このやもめとの関わりは、主の訓練の時でした。主のことばは、いつまでも真実であることを知りました。それだけではありません。彼は祈りの訓練も受けました。「彼は主に叫んで祈った」のです。一度ならず二度も(20、21)。
 このように、烏とやもめに、いや、主のことばに養われ、主に訓練されたエリヤは、初めにアハブのもとで語ってから三年目に、再びアハブのもと行けと命じられました。

 おはようございます。
 教会の脇にある花壇に植えてある紫陽花が花を咲かせ始めました。外側がうっすらピンク色になっているのがわかります。花が少しずつ色づいていくのを楽しみたいと思います。
 
 シャローム 純人
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5/27
彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。
 Ⅰ列王16:34

 世襲と謀反を繰り返す北イスラエルの王たち。しかし、まことの王である主を無視し、自らの力によって王位を保とうとする「ヤロブアムの道」を歩むことにおいては、一人として例外はありませんでした。今日の聖書日課に登場する王は二人。謀反を起こしたジムリを倒したオムリとその子アハブです。オムリはそれ以降、北イスラエルの首都となるサマリアの町を建てました(24)。やはり彼も「ヤロブアムの道」に歩みましたが(26)、さらに「おまけ」がついています。
「彼(オムリ)は主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。」(25)
その子アハブは、それ以上でした。
「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻として、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。」(31~32)
主からますます離れていく北王国の王とその民。しかし、そこに主は出てきません。主はどうしてこれを見過ごしにされているのか?いえ、主はおられました。語っておられました。それが今日の聖書日課の最後、冒頭の聖句。
 「ベテル人ヒエル」については詳しい情報を知りえません。ただ、ベテルといえば、金の子牛が置かれた地。そして町を再建するということは、当時ヒエルに、北イスラエルに経済的な力があったことを示します。しかし、驚くべきことが起こりました。町の建設に際してヒエルは二人の子を失ったのです。これは主のことばの成就であったと聖書は言います。すなわちヨシュア6:26。かつてイスラエルの民のリーダーであったヨシュアがエリコの町を滅ぼしたときに語ったことばです。
「ヨシュアは、そのとき誓った。『この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。』」(ヨシュア6:26)
ドンピシャです。たまたまそうなった(子を失った)のではありません。主のことばのとおりになったのです。それまで、主の民は主のことばを恐れてエリコ再建に手を出しませんでした。しかし、主を恐れない王のもとにいたベテル人ヒエルは「一線を越えた」のです。すると、このようなことが起こりました。たしかに、主はみことばをもって語られたのです。主は生きておられました。
 「主のことばのとおりであった。」
神さまは、今日も聖書をとおして私たちに語られます。そしてみことばのとおりに、ことを起こされるのです。
 これ以降、17章からは、アハブ王の時代のことが長く記されます。列王記第一の最後の章(22章)まで。しかしそれは、アハブの出来事というよりも、エリヤをはじめとする預言者による主のことばが成就するプロセスでした。みことばにより私たちも、主は生きておられることを知るのです。

 おはようございます。
 朝、東光小学校に向かう子どもたちの声が聞こえます。うちの一番下の安奈は、今日初めて支援学校中学部に登校しました(今日は弥希といっしょの三者面談)。
 今日も、晩には中高生会のオンラインミーティングがあります。教会・信仰と学校生活がみことばによって結び合わされる日々となりますように。水曜祈祷会は次週6/3(水)から再開します。
シャローム 純人

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5/26
これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪ゆえであった。
 Ⅰ列王16:19

 「列王記」とは、文字通り、王たちの伝記。それはソロモン王とその頃分裂した南ユダ王国、北イスラエル王国の王たちの伝記。これまで(今日の聖書日課まで)登場した王を列挙すると以下の通り。
南ユダ:レハブアム(BC933年より 在位17年)→アビヤム(3年)→アサ(41年)
北イスラエル:ヤロブアム(BC933年より 在位22年)→ナダブ(2年)→バアシャ(24年)→エラ(2年)→ジムリ(7日)
初代レハブアム、ヤロブアム、二人の王の出発点はBC933年ですが、南ユダは3人の王に対して北イスラエルは5人の王。北のジムリの後はオムリ(12年)→アハブ(22年)と続きますが、アハブが即位したとき、南はまだアサが王でした。つまり、南が三人目の王の時点で北は七人目。ずいぶんと違いますね。それもそのはず、北の王は短命な王権が多い。なぜか?キーワードは「謀反」。ヤロブアム→ナダブは親子ですが、バアシャはナダブに謀反を企てました(15:27)。バアシャ→エラは親子ですが、ジムリはエラに謀反を企てました(9)。ジムリは自分で王権を宣言しますが(10)、北イスラエルの国民はエラ王の軍の長オムリを自分たちの王としました(16)。オムリがジムリを包囲すると、ジムリは自ら王宮に火を放って死に、「三日天下」ならぬ「七日天下」を終わらせました(18)。
 南ユダの王の系譜は、すべて血統。そうです。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)は、血統なのです。アブラハムからダビデまでも血統。ダビデ→ソロモン→レハブアム…と続き、イエスの父ヨセフまでも血統なのです。血のつながりが途切れたことはありません(親子でない王の継承もありましたが)。それに対して北イスラエルは、親子が続いたと思ったら謀反、また親子が続いたと思ったら謀反。これからもそれは続き、やがてBC721年、北イスラエルは滅びるのでした。
 このように、北イスラエルは非常に不安定な王権が続くのですが、ヤロブアムから始まって、すべての王に共通していることがありました。たとえば、ヤロブアムの子ナダブは、「彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだ。」(15:26)
バアシャはナダブに謀反を企てましたが、「彼は主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた罪の道に歩んだ。」(15:34)
以降、親子であろうが謀反を起こそうが、まるで判を押すように「ヤロブアムの道」。このフレーズが出て来るのです。冒頭の聖句はあの「七日天下」のジムリについての言及。たった七日でも、しっかりと彼がヤロブアムの道に歩み、イスラエルに罪を犯させたと言われています。
 ヤロブアムの道、ヤロブアムの罪って何でしたっけ?それは、あの「金の子牛」二体を造り、一つを北の端ダンに、一つを南の端ベテルに置いて、民にこれを拝ませたということ(12:28~30)。しかし、忘れてならないのは、この金の子牛を造ろうとした理由。プレイバック。もう一度ヤロブアムのことばを聞いてください。
「今のままなら、この王国(北イスラエル)はダビデの家(南ユダ王国)に帰るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」(12:26~27)
そこでヤロブアムは金の子牛を造ったのです。北イスラエルの歴代の王は、みな、この金の子牛を拝み、拝ませました(Ⅱ列王10:29)。しかし今一度、心に留めたいのです。なぜ、ヤロブアムが金の子牛を造ったのか?北の歴代の王が受け継いだヤロブアムの道、罪とは何か?
 それは主への不信です。ヤロブアムはまことの王が主であることを忘れ、主を信頼せず、自分の力で自分の王権を守ろうとしました。ヤロブアムに続くすべての北の王は、互いが敵対していたとしても、この点においてだけは一致していたのです。彼らの共通点、それは、真剣に主に祈らなかったということです。

 おはようございます。
 昨日、お知らせした通り、次主日5月31日(日)より、教会堂での礼拝を再開します。この2か月間を振り返りつつ、感謝や教えられたことを携えて、共に集いましょう。この日はペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝です。互いに声をかけ合って、主を礼拝しましょう。
シャローム 純人

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5/24

2020年5月24日(日) 主日礼拝 
マルコ1:1~8 「あなたに会えてよかった」

伝道メッセージ~伝えるのは誰?~

これから第四主日は「伝道メッセージ」をしたいと思います。「初めての人でもわかりやすいキリスト教のお話」ではなく、信じている人が伝道するために、励ましや力となるメッセージです。福音を伝えるのは誰?牧師?もちろん牧師も伝えます。しかし一番大切なのは、福音を伝えるのはみなさんひとりひとりだ、ということ。そんなことを考えながら「伝道メッセージ」をしていきます。

イエス・キリストの福音のはじめ~バプテスマのヨハネ~

神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(1)。しかし、その後に出て来るのは、イエス・キリストではありません。バプテスマのヨハネと呼ばれる人なのです。
「預言者イザヤの書にこのように書かれている。『見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」』そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(2~4)
ルカの福音書では、みなが、もしかするとこの人がキリスト、みんなが待ち望んでいる救い主ではないかと考えたとあります(ルカ3:15)。けれど、ヨハネはみなにはっきりこう言いました。
「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」(7~8)
。ヨハネが言いたかったのは、こういうこと。「私はキリストではない。キリストはこんなもんじゃない。キリストは聖霊によって人々を浸す神の子だ。」。

あなたに会えてよかった~私にイエスさまを伝えてくれた人~

今日伝えたい「伝道メッセージ」は、「あなたに会えてよかった」。誰が誰に言いますか?私がイエスさまに言います「あなたに会えてよかった」。でも、私はもう一人の人に言います。「あ
なたに会えてよかった」。誰に?私にイエスさまを伝えてくれた人に。あなたのおかげでイエスさまに出会うことができたから。あのヨルダン川でバプテスマを受けた人たちは、その後、ヨハネが指し示したイエスを信じたことでしょう。彼らもまたイエスに「あなたに会えてよかった」と言い、そしてヨハネにも言ったでしょう。「あなたに会えてよかった。あなたのおかげでイエスに出会うことができた」と。(もっともヨハネはイエスの伝道期間中に牢獄で死んでいるので、イエスを信じたときにはもうヨハネがいなかった、という人もいたでしょう)。
イエス・キリストの福音のはじめには、バプテスマのヨハネが必要でした。福音とは「イエス・キリストの良い知らせ」。この良い知らせは、救い主であるイエスと出会う、ということ。そのために、そのはじめに、ヨハネが必要だったように、今、イエスさまに出会うために、あなたを必要としている人がいる。それが今日伝えたい「伝道メッセージ」。ヨハネはことばを語るだけではなく、人々に触れました。「自分で水に浸かりなさい」ではなく、彼らにタッチしてバプテスマを授けました。他の福音書を見れば、はっきりとした口調で相当厳しいことも語っているのがわかりますが、そこには彼らが神に立ち返ることを強く願う愛がありました。人々はヨハネのぬくもりを感じつつ、神に立ち返り、悔い改め、やがてイエスに出会ったのです。
彼が、彼女がやがてイエスさまに出会うためには、あなたが必要なのだ。ただ、ことばを伝えるだけではない。教会に誘うだけでもない。教会に誘うのは最後にすることです。その心に触れるような関わり、交わりを持っていきましょう。人々はヨハネのことを「この人がキリストかも」と思った。彼が、彼女が、あなたのことを神さまのように頼るようなことがあるかもしれない。
それは良いことです。あなたが偶像視されることが良い、というのではありません。そのようなあなたが頼るイエスさまを紹介するチャンスだからです。清水昭三先生は宣教師の本山ジュリア先生に、よくこう言われたそうだ「本山ではありません。イエスさまですよ、清水さん」。でも、それは、それくらいジュリア先生が、イエスさまの愛で清水先生を多くの人々を愛し、関わっていたことを表しているのです。
旧約聖書の「ルツ記」には、ナオミという女性が、長く住んでいた外国の地モアブから故郷ベツレヘムに帰るとき、自分について来る死んだ息子の嫁ルツに対して語ったことが記されています。ナオミはルツに、もう自分と別れてモアブに帰りなさい、と命じますが、ルツがナオミにこう答えました。
「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神はわたしの神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ1:16~17)
旦那さんとではなくお姑さんと結婚したのか?と思います。どれだけナオミが好きなの?と思います。この「押しの強さ」のゆえにナオミは、もうルツに何も言わず自分についていくことを許しました。このときルツが、どれくらい神である主のことを知っていたのか、それはわかりません。しかし、このナオミについていったことによって、後にルツは、神である主を信じ、さらに深く主を知ることになるのです。
「伝道」とは、英語で「エバンジェリズム(evangelism)」と言います。伝道とは、「evangel(福音)に生きる(ism)」こと。イエスさまを信頼して、人々の中で生きること。それが伝道なのです。
イエス・キリストの福音のはじめは、バプテスマのヨハネでした。イエスさまの「イ」の字も知らない人に、あなたが今、必要なのです。イエスさまを信頼し、愛し仕えるあなたが必要なのです。
最後に祈ります。この祈りは、やがて、今、みなさんの心にある人がこのように祈ることができるようにという祈りです。

祈り
天のお父さま。あなたに会えてよかったです。あなたは、私があなたに出会うために、人を遣わしてくださいました。その人にも、今日、言いたいと思います。「あなたに会えてよかった」。
これからも私たちは、ともにあなたを仰ぎます。
イエス・キリストの御名で祈ります。
アーメン

シャローム 純人

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5/23
ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。レハブアムは41歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエル全部族の中から選ばれた都、エルサレムで17年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。 Ⅰ列王14:21

 北イスラエル王国初代王ヤロブアムの生涯のまとめに続くのは、今日の聖書日課、南ユダ王国初代王レハブアムの生涯のまとめ。冒頭の聖句には、レハブアムの王位就任の際の年齢、治世の期間、彼の母の名が記されています。これに以下の節が続きます。
「ユダの人々は主の目に悪であることを行い、彼らが犯した罪によって、その先祖たちが行ったすべてのこと以上に主のねたみを引き起こした。」(22)
レハブアムのことではなく、南ユダの民の罪について記されています(24節までその詳細が書かれています)。この二つの節にはどんなつながりがあるのでしょうか?ユダの民の偶像礼拝の罪はレハブアム王のゆえである、ということです。かつて北イスラエルについては、預言者アヒヤがこう言いました。
「ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のゆえに、主はイスラエルを捨てられるのです。」(16)
これを南ユダに当てはめるならば、「レハブアムが自分で犯した罪と、彼がユダに犯させた罪のゆえに、主はイスラエルを捨てられる」となります。しかし、そのようなくだりはありません。また、北イスラエルの場合は、ヤロブアムが主を信頼せず金の子牛を造って民に拝ませたことが記録されていますが(12:26~33)、南ユダの場合はレハブアムがそのようなことをしたとは記されていません。レハブアムについては、彼が(王国が分裂する前の)全イスラエルの重荷(労働)を軽くしないどころか、さらに重くしたために民が離れて行ったこと、その後、南ユダと戦おうとするが預言者によって止められたことだけが記録されています(12:12~24)。では、どこにレハブアムの偶像礼拝が示されているのか?
「彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。」
これです。父ソロモンの700人いた妻(11:3)のひとり、アンモン人ナアマがレハブアムの母でした。ソロモンは外国人の妻たちによって、その国の神々(偶像)に従うようになりました。主に従い通さなかったのです(11:6)。レハブアムにはヤロブアムのような「事件」はありませんでしたが、小さなころから、偶像を信じる母と主を信じつつも偶像に引き寄せられた父の間で育ちました。このレハブアム王のあり方が、「ユダの人々は主の目に悪であることを行い…」を導いたのです。
 民の背信が王のゆえである、ということに恐れを覚えます。リーダーのあり方が民の歩みを決定づける。恐ろしいことです。だれ一人として、これに耐え得る者はいません。かつてソロモンが神殿を奉献するときに献げた祈りをするほかありません。
「あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所(神殿)に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。」(8:30)
私たちは、いつでもイエス・キリストの十字架の影に身を置いて主の御前にへりくだり、悔い改めつつ共に歩んでまいりましょう。

 おはようございます。
 明日は主の日。昨日、お知らせした通り、オンライン礼拝をお献げします。自分ができる、自分がすべき備えをもって神さまの前に出ていきましょう。主の喜びが満ち溢れるときとなりますように。

 シャローム 純人

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5/22
人々はその子を葬り、全イスラエルは彼のために悼み悲しんだ。主がそのしもべ、預言者アヒヤによって語られたことばのとおりであった。
 Ⅰ列王14:18

 「神の人」のことばを聞いても、彼の死を通してメッセージを受けても、主に立ち返ることをしないヤロブアム王(13章)。そんなヤロブアムに大変なことが起きました。息子アビヤが病気になったのです。軽い病ではなかったからでしょう、ヤロブアムは預言者アヒヤのもとに妻を送り、子どもがどうなるかを知ろうとしました。そのとき、彼は妻に変装して行くよう指示しました。
「ヤロブアムの妻だとわからないように」(2)。彼は、今の自分が主の前に、預言者の前に正しくないことを薄々感じていたのです。
 しかしアヒヤは、やって来た妻に言いました。
「入りなさい。ヤロブアムの妻よ。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか?」(6)
彼女が来る前に、アヒヤは一部始終を主から聞いていたのです。彼は主から聞いた「厳しいこと」(6)をヤロブアムの妻に告げました。
・主が王国をヤロブアムに与えたが、彼はダビデのように主に従わず、自分のために、ほかその神々や鋳物の像を造り、主の怒りを引き起こし、主を自分のうしろに捨て去った。
・それゆえ、主はヤロブアムに属する子どもから、奴隷、自由な者に至るまで絶ち滅ぼす。主は一人の王を立て、ヤロブアムの家を絶ち滅ぼす。
・妻の足が町に入るときに息子は死ぬ。
これらのことばを聞いたヤロブアムの妻は、「立ち去って、ティルツァに着いた。彼女が家の敷居をまたいだとき、その子は死んだ。」(17)
これに続くのが冒頭の聖句。預言者のことばどおりになりました。この後、記されているのは、ヤロブアム王についての資料と、彼の治世の期間、そして彼の死と、その子ナダブが王になったこと(19~20)。ヤロブアムの話はこれで終わり。
 はたしてヤロブアムの妻は、夫に対して何を語ったのだろうか?何も言わなかったのだろうか?
そのようなことは想像するしかありません。その想像が当たっているかどうかもわかりません。聖書は何も語らないのです。
 主は預言者ヨナに、彼が強く憎んでいるニネベにいる人々を自分は惜しんでいる、と言われました(ヨナ4:10~11)。放蕩息子の父は兄息子に言いました。「この息子(弟息子)は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」(ルカ15:24)。しかし、ヨナの答えも、兄息子の答えも聖書は記していません。なぜか?その先は読者が決めることだからです。
「あなたなら、どう答えますか?」と聖書は問うのです。ここも同じ。あなたがヤロブアムの妻だったらどうしますか?と。
 神さまは、あなたが、自分が聞いたみことばを分かち合うことを願っておられます。
シャローム 純人

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5/21
彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に、『その人をあなたの家に連れ帰り、、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」こうして彼はその人をだました。
 Ⅰ列王13:18

 今日の聖書日課は不思議なお話。何と言っていいのかわからなくなります。
 主に背いたヤロブアム王を悔い改めさせるために遣わされた「神の人」(1)。残念ながらヤロブアムが主に立ち返ることはありませんでした。神の人はユダの国への帰途につきます。その道中のこと。神の人の語ったこと、したことを息子たちから聞いた一人の老預言者が彼を追いかけて行き、こう言いました。
「私と一緒に家に来て、パンを食べてください。」(15)
神の人は断りました。主がそのように言われたからです(16~17)。老預言者は答えます。冒頭の聖句。
御使いから聞いた主のことばは、神の人にパンと水を飲み食いさせよ。「へ~、そうなんだ」と思います。しかし続きがあります。
「こうして彼はその人をだました」
どういうこと?預言者が預言者をだます?偽預言者?話は続きます。神の人はこれを聞いて、老預言者の家に行き、食卓に着きました。すると老預言者は神に人に言いました。
「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、引き返して、主があなたに、パンを食べてはならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸(なきがら:死体)は、あなたの先祖の墓には入らない。」(21~22)
どういうこと?御使いから「食べさせよ」て言われたんじゃないの?その通りにした神の人に「あなたは主のことばに背き」って、なにそれ?話は続きます。パンを食べ、水を飲んだ神の人は、老預言者の家を出て、ろばに乗って家路につきます。しかしその道中、獅子が出て来て彼を殺しました。老預言者の言う通り、神の人は死んでしまったのです。このことを聞いた老預言者は言いました。
「それは、主のことばに背いた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡され、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」(26)
「おまえが言うか!」と思います。しかし、老預言者は神の人の遺体を自分の墓に葬りました。彼は息子たちに言います。
「私が死んだなら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。
あの人が主のことばにしたがって、ベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての高き所の宮に向かって叫んだことばは必ず成就するからだ。」(31~32)
 いったいなんのこっちゃ?どういうこと?老預言者は最初から最後までこの話のシナリオをすべてわかっていて神の人をだましたのか?神の人と交わりを持ちたいがために彼をだまして家に招いたけれど、あとで主のことばを聞いて、彼に「あなたは主のことばに背いた」と言ったのか?最後に老預言者が神の人の死を悼み悲しんでいる姿を見れば(29)、後者かなと思います。いずれにせ
よ、この話から私たちは何を汲み取ればよいのでしょうか?
 だました方が悪いのか?だまされた方が悪いのか?いえ、主に伺い、祈らなかったことがまずかったのです。神の人は、老預言者に招かれたときに「あれ?私が主から言われたこととは違うぞ」と思って、そこで再び主に祈るべきでした。「主よ。あの人、あんなこと言ってますが、ほんとですか?」と。しかし、お腹が減っていたからなのか、それもあったかもしれない、しかし、それ以上に預言者が語る「主のことば」を聞いて、ススっと行ってしまったのです。
 13章はこの話で終わりません。最後に、こう書かれています。
「このことがあった後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず…」(33~34)
どうやら、この神の人と老預言者の話はヤロブアムの耳にも届いたようです。自分や人の考え・ことばではなく、主とそのみことばに従うこと。確信がなくなったときには主に尋ね求めること、主に立ち返ること。この話を通して改めて投げかけられましたが、ヤロブアムは、これまた悔い改めることをせず、自分の道を突き進んで行ったのです。

 おはようごさいます。 
 大阪府への「緊急事態宣言」が本日21日に解除される見通しです。教会では、次主日24日の礼拝後、臨時執事会を行い、今後の礼拝・集会の持ち方について話し合います。今のところ5/31(日)
の礼拝もオンラインで行う予定ですが、変更がありましたら、メールで、ブログ上でお知らせします。
 どんなときでも、祈りつつみことばを聞き、互いのことを心配し、恵みを分かち合いましょう。

シャローム 純人

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5/19
ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
 Ⅰ列王12:27

 ソロモン王の死後、イスラエルは二つの国に分裂しました。北イスラエル王国と南ユダ王国です。主がこれを計画されました。父ダビデのように主に従い通さず、多くの妻と側女を持ち、彼女たちの拝む外国の神々に従うようになったソロモン。主は、彼に敵対する者を起こされました。ヤロブアムはそのひとり。彼はソロモンの息子レハブアム王のもとに行き、イスラエルを代表して、ソロモンが自分たちに負わせた過酷な労働を軽減してほしいと願います(4)。ところがレハブアムはこれを拒否するどころか、父以上に彼らの「くびきを重くする」と言い放ちました(11)。これが決定打となり、イスラエル12部族のうち、ユダ族とベニヤミン族を除く10部族はレハブアムのもとを去って行きました(16)。これが北イスラエル(10部族)と南ユダ(2部族)、二つの王国の始まりでした。
 慌てたレハブアムは、王国を取り戻すべく北イスラエルと戦おうとしますが、神の人シェマヤのことばに従い、引き下がりました(21~24)。ヤロブアムはどうしたでしょう?シェケム、ペヌエル二つの町を築き直し、北イスラエルを強固にすべく動き出しました。また、そのころにヤロブアムが考えたことが冒頭の聖句。
 国が二つに分かれても、依然として神殿はエルサレム(南ユダの首都)にある。北イスラエルの民は礼拝するために国境を越えてエルサレムに行くだろう。そうなれば、その心は再びレハブアムに傾くに違いない。そこで、ヤロブアムは、「金の子牛」を二つ作り、一つを王国の北の端ダンに、もう一つを南の端ベテルに置き、こう言いました。
「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」(28)
そして神殿を造り、レビ族ではない一般の民の中から祭司を任命し、勝手に考え出した第八の月の十五日を祭りの日と定めました。
「このことは罪となった。民はこの一つ(金の子牛)を礼拝するためダンまで行った。」(30)
ヤロブアムのもくろみは成功しましたが、それは明らかに罪でした。
 ヤロブアムの罪とは何か?民に金の子牛を拝ませたこと?自己流の神殿と祭司を立てたこと?それらは結果です。ヤロブアムの罪とは不信でした。かつて、主は預言者アヒヤを通して彼に告げられました。
「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」(11:38)
民の心が南に、レハブアムになびいていく。そういう不安が、恐れが起こるのは仕方ありません。
しかし主に従うならば、人間ではなく神が国を建ててくださるのです。ヤロブアムはこのみことばを信じ切ることができませんでした。
 罪とは「してはならないこと」。しかし、もっと根本的に罪とは「する必要のないこと」なのです。神さまを信じているならば、そんなことしなくていいのに。神さまが祝福し、喜びに満たし、生かしてくださるのに、それを自分でなんとかしようとする。私たちの歩みの中にはこのようなことが、いっぱいあるのではないでしょうか?これから続いていく北イスラエルとその王の歴史の中に、たびたび繰り返されるフレーズ、「ヤロブアムの道に歩み」(15:34など)
その道とは偶像礼拝の道。その道の始まりは、神への不信でした。

 おはようございます。
 昨日の晩の雨はすごかったですね。でも、今朝は晴れてきました。教会の花壇も奉仕者によって植え替えられ、ますます輝きを増していくことでしょう。不自由さがある中でも、この季節を楽しみましょう。

 シャローム 純人

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5/17
2020年5月17日(日) 主日礼拝 
コロサイ1:9~12 「さらなる成長を目指して」

まず、今日は賛美を聞いていただきます。動画で。→映しました。
私たちはこの歌を、このみことばを一年間歌い続け、暗唱し続けます。今日は、このみことばを学びます。この歌を歌うときに「さらなる成長を目指して」とはどういうことなのかをイメージすることができますように。

みこころを知り、神を知る

まだ会ったことのないコロサイの聖徒たち。しかし同じ福音、イエス・キリストの良い知らせをともに持っている者としてパウロは彼らにあいさつし、彼らが福音に生きていることを感謝し、彼らのために祈っていると言った(3)。今日の箇所は、そのパウロの祈りの内容。大きく二つの願い。
一つは9節。彼らが「みこころを知る」こと。「神のみこころについての知識」。神さまが何を願っておられるのかを知ること。どうやって知りますか?聖書によって。私たちはなぜ、聖書を学ぶのか?教養を身に着けるため?それも悪くはない。しかし私たちが聖書を勉強するのは、神さまが私に何を願っておられるのかを知るためなのである。「神のみこころについての知識」を持つため。その時に大切なのが「あらゆる霊的な知恵と理解力」。頭の良さではない。聞いたみことばが私に何を語っているのか、まさに、今、神さまが私に何を願っておられるのかを知るための知恵と理解力。自分に適用する知恵と理解力。これは、聖霊によって与えられるもの。
もう一つは10節。「神を知る」こと。「神のみこころを知る」ことと、「神を知る」ことは違う。
順番的に言うと「みこころを知る」ことの後に、「神を知る」。その橋渡しをするのが「歩む」ということば。「主にふさわしく歩み」。歩む=歩く=動く。そのように生きるということ。お母さんがお手伝いしてほしいと思っていることがわかったなら、じっとしていないで、やってみる。聖書のことばを通して神さまの願いを知ったならば、主に喜ばれるように、主にふさわしく歩むのです。「あらゆる良いわざのうちに実を結び」の「わざ」とは、行動。神さまの願いを知って、人の中に入って行きそれを行う。その結果「神を知る」のです。
お母さんの願いを知るのと、それをやってみて、お母さんが喜ぶ。その喜びを知るのとは違う。みことばにより、聖霊により、神のみこころを知り、主に喜ばれるように、人々の中で主にふさわしく歩み、あらゆる良いわざのうちに実を結ぶとき、私たちは神の喜びを知ることができる。それが神を知ること。「お母さんのニコニコ笑顔を僕は知ってるよ」。

さらなる成長を目指して

実に、年度標語「さらなる成長を目指して」の「成長」とは、この「神を知る」ことにおける成長なのである。なぜ「さらなる」成長なのか?ここから始まるのではないからである。すでに成長の歩みは進められているから。6節「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解した時以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び、成長しています。」。すでに「実を結び成長している」。あの日、あの時、真理のみことばにより、福音を、神のみこころを理解した、知ったときに「実を結び、成長する」ことは始まっている。だから「さらなる」なのだ。
2020年度方針を読む。
がんばりが足らんから、ではなく、ここで言われている恵みを知っているから、今までも実を結び成長してきたから、さらに「さらなる成長を目指して」。

祈られ、祈る私たち

最後に、このパウロのことばは、祈りであることに注目してほしい。命令ではなく、勧めでもない。祈り。これを聞いて応えてくださるのは神さま。私は、みなさんの祈りによって、さらに豊かに神さまを知ることになる。私の祈りによって、みなさんはさらなる成長の道を歩む。祈られ、祈る私たちが、さらなる成長を目指して歩むこの一年でありますように。

祈り
天のお父さま。私のために祈ってくれる兄弟姉妹を感謝します。その祈りによって私があなたを知る者としてください。私も兄弟姉妹のために同じように祈ります。私たちがあなたを知ることにおいてさらに成長することができますように。
イエス・キリストの御名で
アーメン

 こんばんは。
 昨日の礼拝では、「さらなる成長を目指して(コロサイ1:10)」の賛美を初めて披露し、みんなで歌いました。いかがでしたか?これから、たくさん歌って、覚えて、みことばに従いましょう。
 本日は、午後、福音交友会実行委員会がオンラインで行われました。福音交友会諸教会も、それぞれ祈り合い、語り合いながら、それぞれの方法で礼拝と交わりを持ち続けています。諸教会を通して、これからの神さまの真実が現されますように。

 シャローム 純人

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5/16
もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。
 Ⅰ列王11:38

 クイズです。主は、このことばを誰に語ったのでしょうか?ここで言われている「あなた」とは誰でしょう?ソロモンでしょ?ブ―――ッ。!違います。じゃあ誰なの?答えは後にして…
 11章にはソロモン王の晩年から死に至るまでが記されています。
「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つになっていなかった。」(4)
なんですかこれ?どういうこと?「妻たち」?「ほかの神々」?11章はこのように始まります。
「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。」(1)
ソロモンがエジプト王ファラオの娘をめとったことはすでに3章(ソロモン王の初期)で語られています(3:1)。
これは、いわゆる政略結婚ということができます。おそらく上記のごとくに「~人の女を愛した」
も、単にソロモンが女性に弱かったということではなく、同じく戦略的な結婚であったでしょう。
しかしこれが、主のみこころにかなっていなかったことは明らかです。そのような結婚によってソロモンが結婚相手の国々の神々に引き寄せられていくからです(2)。しかしソロモンは多くの結婚を続けました。その結果は?
「彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女(そばめ)がいた。その妻たちが彼の心を転じた。」(3)
合わせて1000人。1000人の女性と交わりを持ったソロモンは、その背後にいる多くの神々に香をたき、いけにえを献げました(8)。主は二度もソロモンに現れ、「ほかの神々に従ってはいけない」(10)と命じられますが、ソロモンは聞きませんでした。これに怒った主はソロモン言われました。
「そのため、ソロモンに言われた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたし契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。」(11)
ここに、最初のクイズの答えがあります。どこに?「あなたの家来」。冒頭の聖句の「あなた」、主が語っている相手は、「あなた(ソロモン)の家来」=ヤロブアムでした。
 主はソロモンに敵対する者を三人立てられました。エドム人ハダド(14)、エリヤダの子レゾン(23)、そしてヤロブアム(26)。最初の二人は異邦人ですが、ヤロブアムはイスラエル人(エフライム族)。ソロモンの家来で手腕家でした。あるとき預言者アヒヤがヤロブアムに現れ、主がイスラエルを引き裂いて12部族の中から10部族をヤロブアムに与える、と約束されました(31)。主はヤロブアムに言われました。
「わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。」(37)
これに続くのが冒頭の聖句。
 「あなた」とは今やソロモンではありません。しかし、主が語られることは同じ。「わたしの命令と掟を守って、わたしの目にかなうことを行う」ことなのです。みことばを聞き、主に従う。今も昔も、どこにいても、選ばれた民が、神の祝福を受ける道は変わりません。どんなに力を持って上り詰めたソロモンであっても、この一つのことに失敗しました。しかし最も残念なのはソロモンが悔い改めなかったこと。ここが、父ダビデ、主が愛された人との大きな違いでした(Ⅱサムエル12:13)。

 シャローム 純人

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5/15
シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たちの態度とその服装、献酌官たち、そして彼が主の宮で献げた全焼のささげ物を見て、息が止まるばかりであった。
 Ⅰ列王10:4~5

 富と知恵において、当時の地上のどの王よりもまさっていたソロモン(23)。
「全世界は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた。」(24)
今日の聖書日課10章は、まず、そのひとりであるシェバの女王がソロモンに会いに行ったことが記されています。実は彼女はソロモン王を「試し」にやってきました。その名声を聞き、本当かどうかその知恵を試しに行ったのです(1)。女王はソロモンに心にあることすべてを問いかけましたが、ソロモンはそのすべての問い答えました。
「王がわからなくて、彼女に答えられなかったことは何一つなかった。」(3)
その直後が冒頭の聖句。
 ところで、この会見においてソロモンが語ったことばを見つけることができるでしょうか?できません。彼はシェバの女王のすべての問いに答えました。しかし、その問答の中身は何一つ記されていないのです。この会見の後のくだり、10章全体を見渡しても、ソロモンが語ったことば(「」で表されていることば)は一つもありません。11章にはソロモンが死んでいくまでのことが記されていますが、やはり、彼のことばは記されていないのです。そういえば、昨日のヒラムとソロモンとのやりとりにおいても、ヒラムがソロモンに抗議しますが、ソロモンの答えは書かれていません(9:13)。話ができなかったのではありません。たしかにあらゆる場面で彼はことばを発したことでしょう。父ダビデから王位を継承した時、ソロモンが語ったことばは、たしかに記されています(1~5章)。また、神殿が完成した時、彼が多くのことばをもって民を祝福し、何よりも非常に長い祈りを主にささげたその祈りのことばは、はっきりと記されています(8章)。しかしそれ以降、9章以降に、ソロモンが語ったことばは一言も記されていないのです。急に無口になったわけではありません。では、どういうことでしょうか?
 シェバの女王は、ソロモンの知恵を「見た」とあります。彼女はソロモンの宮殿やそこで仕える人々の態度や服装などを「見た」のですが、彼女は彼の知恵を見ました。変な言い方ですね。知恵とは「聞く」もの。しかし女王はソロモンの「知恵を見た」。たしかに自分の難問に対するソロモンのことばを聞きましたが、ことばだけではない、彼の姿から、その知恵を見たのです。10章には、ことばよりも目に見える繁栄、ソロモンの所有物についてたくさんのことが記されています。
しかし、これらはすべて彼の知恵、神の祝福の現れだったのです。列王記がソロモンのことばではなく、目に見えるものを書き表した理由がここにあります。知恵、ことばは目に見えません。しかし見ることができます。人を通して。今日の箇所ではソロモンを通して、聖書全体では御子イエス・キリストを通して見ることができます。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
そして、今、イエスさまを信じる私たちを通して、人々はみことばを見ることができるのです。

 
シャローム 純人

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5/14
彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれ、今日に至っている。
 Ⅰ列王9:13

 「ソロモンが、主の宮と王宮、および、ソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成させたとき」(1)
主はかつて夢の中で彼に語られたときのように(3章)、再びソロモンに現れました。主が言われることは非常にシンプル。もし主が命じたことをそのまま実行するなら、ソロモンの王座をイスラエルの上にとこしえに立てる。もし主に背を向けて離れ、他の神々に仕え、拝むなら、すでに与えた地の面からイスラエルを断ち切る(3~9)。今日は二つのことを黙想してみてください。
①主のことばを実行することはあなたにとって喜びですか?それとも何か、おっくうなものですか?
②「主に背を向ける」とするなら、そのきっかけは何ですか?
 その次に9章は、一つの事件を記します。ツロの王ヒラム、ダビデと親交がありダビデの息子ソロモンのためにも神殿を建てるためにレバノン杉を調達したあのヒラム。彼にソロモンは、お礼の気持ちを込めてガリラヤ地方の20の町を与えました。ところが、「ヒラムはツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、彼はそれらが気に入らなかった。」(12)
これに続くのが冒頭の聖句。
「なんじゃこりゃあ?!」という感じ。これらの町々が「カブル(ないのと同じ)の地」と呼ばれたことからも、穏やかなムードでないことがわかります。聖書は、ヒラムが「気に入らなかった」と言いますが、それがどうしてなのか?ソロモンが質の悪い贈り物をしたのか、ただ単にヒラムの好みと違ったのか、それについては何も語りません。そして、このヒラムのことばにソロモンがどう答えたかも記しません。しかし9章の最後の段落に、出て来るんです、ヒラムが。ソロモンが金の取れる地オフィルに向けて海を渡る船団を設けたところ、「ヒラムはこの船団に、自分のしもべで海に詳しい水夫たちを、ソロモンのしもべたちと一緒に送り込んだ。」(27)。
そのとき取れた金の量は、420タラント(約14トン 28節)。さきほどの「もめた」場面のくだりでは、ヒラムがレバノン杉以外に、金を120タラント(約4トン)ソロモンに送っていたとあります(14)。不思議ですね。もめたのに、その後で10トンも多い金をヒラムはソロモンにもたらしたのです。どういうことでしょうか?
 もめてなかった。そう思います。ヒラムは一方的に腹を立てたけれど、ソロモンは言い返すことなく、これを受け入れたのではなかったか。もしここで、もめていたのなら、二人は決裂して、二度と協力することはなかったでしょう。しかし後でヒラムは何もなかったかのようにソロモンに助太刀しました。
 最初のあの夢の中に主が現れ、ソロモンがその夢の中で主に願い求めたこと。その願いの答えはこれ。
「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂のように広い心を与えられた。」(4:29)
知恵だけではありません。ソロモンの心は広かったのです。神さまがソロモンに与えられた心を、私たちも願い求めます。本当はもめる必要がないことが多いのではないでしょうか?

 こんにちは。
 昨日、お知らせした貝塚聖書教会のYouTube礼拝動画。さっそく視聴された方から連絡をいただきました。「今週は母の日のメッセージでしたね」。同じ日曜日。主の教会でさまざまなメッセージが語られます。もう一つ、お知らせしましょう。福音交友会北信太聖書教会YouTube礼拝です。
https://www.youtube.com/channel/UCiAeMWGri_ddto43Jpmi28w
ぜひ、ご覧ください。他の教会も検索すれば出て来ますよ。
 もちろん私たちの教会の礼拝を一番楽しみに備えていきましょう。
シャローム 純人

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5/13
八日目に王は民を帰らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルに下さったすべての恵みを喜び、心満たされて、彼らの天幕に帰って行った。
 Ⅰ列王8:66

 神殿が完成し、主に祈るソロモン王。立ち上がって、天に向かって両手を伸べ広げて祈り始めましたが(22)、祈り終えたときに彼はひざまずいていました(54)。知らぬ間にこうなっていたのでしょう。その後、ソロモンは再びイスラエル全会衆に大声で祝福のことばを述べました(56~61)。
そして、王とすべてのイスラエル人は、主の前にいけにえを献げました。牛2万2千頭と羊12万匹という非常に多くの交わりのいけにえが献げられました(62~63)。
 この、いけにえを献げる「祭り」(65)は、14日間行われました。7日+7日=14日です(65)。後半の7日が終わり、つまり祭りのすべてが終わり、冒頭の聖句。ソロモン王は民をそれぞれの地に帰らせました。民は心満たされて自分たちの天幕(住まい)に帰って行きました。そのとき民は、「王に祝福のことばを述べ」ました。
ソロモン王が民を祝福しました。そして民は、それに応えて主にあって王を祝福したのです。ソロモンはどんなにうれしかったことでしょう。
 神を信じる者同士が、互いに祝福し合う。祝福を受けて、それに応える。応答する。これが喜びの秘訣、心満たされる秘訣です。礼拝説教や、このブレッド・オブ・ライフにレスポンスしてくださる方がおられます。私は「感謝だなあ」と思います。とても励まされて「今日もがんばろう!」となります。牧師だけではありません。執事や教会学校教師など、さまざまな働きをしているリーダーへ、みなさんの祝福のことばを届けてください。彼らは、主の民のために献身し、みなさんを主にあって祝福している働き人なのですから。「call & response(呼びかけと応答)」。打てば響くお互いでありたいと思います。

 おはようございます。
 日曜日の礼拝(説教の部分のみ)が、YouTubeにアップされました。
https://www.youtube.com/channel/UCRGWM77ZdWLmK3iLkaW_rPg
どうぞ、またご覧ください。いつも忠実に作業をしてくださる高瀬真理兄のご労を感謝します。
YouTubeで礼拝動画をアップしている福音交友会の教会は、ほかにもございます。たとえば貝塚聖書教会。
https://www.youtube.com/watch?v=hD4rvoQyPSw
こちらもご覧くださり、貝塚・阪南の宣教の働きのために、お祈りしましょう。
シャローム 純人
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5/12
どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。
 Ⅰ列王8:52

 ソロモンによって建てられた神殿が完成しました(7:51)。8章はその神殿に、それまで「会見の天幕」にあった聖なる用具が神殿に運び込まれた様子が描かれ、すべてを運び込んだ祭司たちが聖所(神殿)から出てきたとき、雲(そのせいで立って仕えることができないくらいの雲)が神殿に満ちたことが記されています(10~11)。
その後ソロモンは、そこに集まった全会衆に祝福のあいさつを述べました(15~21)。22節から今日の聖書日課の最後までは、その全会衆の前でソロモンが主に向かって両手を伸べ広げて祈った祈りです。
 この祈りを聞くとき、私たちは「神殿とは何か?」を知ることができます。一言でいえば、神殿とは「祈る所」。神殿の中で祈ることも言われていますが(31、33)、神殿に向かって祈ることが多く語られています(29、35、38、42、44、48)。神殿はエルサレムにあるけれど、イスラエルの民はそれぞれ遠くの地に住み、生活している
からです。そしてここで語られている祈りの状況は、その多くが、苦しみでした。罪を犯した相手からのろいの誓いを立てるよう求められたとき、敵に打ち負かされれたとき、雨が降らないとき、飢饉、捕囚。その時に神殿に向かって祈るのです。神殿を拝むのではありません。そこに目を留めておられる主に祈るのです(29)。苦しみの中で主に祈るのです。冒頭の聖句は、このソロモンの祈りの終盤。
 苦しみは主の語りかけ。民が再び神殿に向かって、主に向かって願う(祈る)ための機会なのです。そして祈る者、呼び求める者に、主がその願い(祈り)を聞き入れてくださる、聞いて応えてくださることを知る機会なのです。
 もし、あなたが今、苦しんでいるならば、それは神さまからの語りかけかも知れません。ストレートに助けを、救いを求めて祈る中に、神さまが私に何を語っておられるのか、知ることができますように。神さまとつながっていることこそが祝福なのですから。

 おはようございます。
 昨日から天気は良くなり、暑くなってきました。「マスク熱中症」ということばも聞かれます。いつもの熱中症予防同様、マスクをしながらでも水分をよく取ってすごしましょう。主喜(新高1)は、本日、初めて登校します。教会の子どもたちも、徐々に学校に行くようになっているでしょうか。友だちといっしょに学び、遊ぶ喜びがまたやってきますように。
 今日もコロナウィルスに感染した方のいやしと、その方々のために労しておられる人々に、主のいやしと力が与えられますように。
 総会資料の訂正箇所の受付は本日までです。総務執事の鍛冶兄までお知らせください。

 シャローム 純人

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5/10
2020年5月10日(日) 主日礼拝 
コロサイ1:1~8 「まだ会ったことのないみなさんへ」

今日は母の日。

アメリカの母の日は教会で始まりました。一人のクリスチャン婦人が亡き母のことを覚えて。お母さんに感謝しましょう。その祝福をお祈りしましょう。

2020年度主題聖句

「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」コロサイ1:10 主題「さらなる成長を目指して」。というわけで、コロサイ書を学びます。来週はこの聖句の賛美動画を披露します。一年間歌い続けましょう。みことばを暗唱しましょう。

パウロの手紙~霊の子どもたちへ~

新約聖書中にある「~人への手紙」は八つ。「へブル人への手紙」以外の七つは、すべてパウロが書いたもの。みなさんの聖書の巻末にある地図の中に「パウロの伝道旅行」についてのものがある。注意して見ていただきたい。パウロの手紙のタイトルになっている地名がある。そう「~人への手紙」というのは、彼が、かつてそこに行き、福音を宣べ伝えた地にいる人々への手紙。パウロの霊的な子どもたちへの手紙なのである(ローマはこれからパウロが行く予定にしている地であった(ローマ1:10))。

まだ会ったことのないみなさんへ~福音によって一つ~

ところで、その地図(『新改訳2017』の巻末)の中に「コロサイ」を見つけてほしい。
ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、テサロニケ。これら六つは確認できる。しかしコロサイは?ない。どこを探してもない。なぜか?パウロが行ったことのない地だからである(2:1)(第二版、第三版には「コロサイ」がある。でも伝道旅行の線上にはない)。では、コロサイにどのようにしてキリストの福音が伝えられたのか?おそらくエペソにおける二年にも及ぶ長く力強い伝道によって、福音が遠いコロサイ(160キロ東)にまで行き渡ったのだろう(使徒19:10)。エパフラスが、パウロから聞いた福音をコロサイの人々に届けたのだろう(7、4:12~13)。この手紙は、パウロから「まだ会ったことのないみなさん」、そしてこれからも、おそらく会うことのないみなさんへの手紙なのである。でありながら、パウロは同じ「獄中書簡」と言われる「エペソ人」や「ピリピ人へ」に対してと同じようなあいさつ、語調で手紙を始めている。コロサイの聖徒たちはパウロのことを知らなかったわけではない。エパフラスの師匠がパウロであるならば、このように呼びかけても不思議ではない。しかし、人によってはパウロのことを「なれなれしい」と思う人もコロサイにはいたのではないか。けれど、パウロはそんなことまったく関係ないかのように語り続けた。
なぜか?
「福音」(5,6,7)。キリストの良い知らせ。これを共有しているから。まだ行ったことがなくても、一度も会ったことがなくても、互いがイエス・キリストに出会った。
みことばにより、福音によって一つであるということを知っていたから。この手紙の主な目的は、当時、コロサイ教会の中に入り込んできた異端的な教えを警戒し、コロサイの聖徒たちがそこから守られることであった。しかしパウロは、そのことを語る前に、「福音」を語った。たとえ会ったことがなくても、教会の土台であるイエス・キリストの良い知らせを確認したのだ(2:5まで)。
私たちも福音によって一つ。今、会えなくても。会うことができなくても。
「聞いたからです」(4)。「知らせてくれた」(8)
会えなくても、聞くことができる。互いの近況を、互いが福音によって生かされ、よきわざに励んでいることを。今、集まることができない中で私たちにとって必要なことは励ましである。

祈り
天のお父さま。私たちはイエス・キリストの福音によって一つです。今は、会えなくても、それぞれの場で聖書のみことばによってイエス・キリストさまの福音によって力強く歩むことができますように。それぞれがどのようにしてあなたの恵みを受けたかを分かち合うことができますように。そして再び会うことができたそのときに、たくさんの恵みを持ち合って分かち合い、あなたの御名をあがめさせてください。
イエス・キリストの御名によって アーメン

シャローム 純人

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5/9
この柱を本殿広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。  Ⅰ列王7:21

 ソロモンの宮殿の建設についてのくだりのあとは、再び神殿建設について。神殿(礼拝)の中に宮殿(生活・働き)があることを教えられます。神殿建設についての後半部分は、神殿の玄関広間に立てられた「柱」や、祭司がからだを洗うための「海」や「洗盤」などのつくりについて述べられています。
 冒頭の聖句の「柱」とは建物を支えるためではなく、いわばオブジェのようなものでした。それに名がつけられているところからも、この柱の意義が伺えます。この柱、二本ありましたが二つともかなり大きい。18キュビト(約8メートル)もありました!さて、その名前ですが、一つは「ヤキン」(彼は設立する)、もう一つは「ボアズ」(力をもって)。ところで誰がこれを命名したでしょうか?「彼」です。彼とはだれか?ソロモン?違います。ヒラムという人でした。ツロの王?(5:1)。違います。同じ名前ですが別人です。ヒラムは青銅の細工師。ソロモン王がこの人をツロから呼び寄せました。
「ヒラムは青銅の細工物全般について、知恵と英知と知識に満ちていた」(14)からです。彼の母はイスラエル人(ナフタリ族)でしたが、父はツロの人(14)。異邦人であるヒラムでしたが、ソロモンはこの人の技術を見込んでお願いしたのです。
「彼はソロモン王のもとに来て、その一切の細工を行った。」(14)
その中で柱を作り、立てたヒラム。彼が名付けたのです。「ヤキン」・「ボアズ」と。ヒラムは何を考えたでしょうか?「彼は力をもって設立する」。神を信じる者であるなら、「彼」とはもちろん神であると理解します。しかし異邦人であるヒラムが、そう考えたでしょうか?神殿建設に携わったヒラムは作業する中でソロモン王の偉大な力をひしひしと感じたことでしょう。「彼(ソロモン)は力をもって(王国)を設立する」と考えたかも知れません。しかしソロモンはこのヒラムの命名を取り消しませんでした。自分がほめられて気持ちよかったから?そうではありません。ヒラムのことばを改めて解釈したからです。そうです「彼(神)は力をもって(神の王国を)設立する」。ソロモンはこの理解をヒラムに伝えたことでしょう。「私ではなく、主こそ偉大なお方なのだ」と。
 神を信じていない人の言うことだからといって、それを退けるのではなく、そのことばを信仰を働かせて再解釈し、真理を見出すことができますように。すべての人は創造主なる神のかたちに似せて造られたのですから。神のご支配の中で生かされているのだから。

 
 シャローム
 純人

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5/8
また、ソロモンは13年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。
 Ⅰ列王7:1

 今日の聖書日課は、神殿に続いてソロモンが建てた宮殿についての記述。神殿建設のくだり同様、宮殿の大きさ材料、周辺の建物などについて述べられています。ソロモンは7年かけて神殿を建て(6:38)、13年かけて自分の宮殿を建てました。「なんだ、自分の家の方が大事だったのか!?」。どうもそうではないようです。時系列的に言えば、たしかに神殿7年の後に宮殿13年=20年かけて両者を建てたということができます(9:10)。しかし、列王記の記者は、この宮殿建設の記事の後に、再び神殿建設について書いているのです。明日の聖書日課には、神殿内部の柱や礼拝のために使われる道具のつくりなどについて書かれています。すると、こう考えられます。
つまり、神殿建設の中に宮殿建設が挿入されている、と。これは何を意味しているのでしょうか?神を礼拝することの中に、王の生活・仕事がある、ということです。神殿よりも宮殿の方が大きい(6:2と7:2をご覧ください)。しかし、それは宮殿の方が重要だということではなく、それぞれの役割のためにふさわしい大きさなのでした。「7年と13年」は、それぞれの大きさを考えればそのような時間必要だったのでしょう。しかし大切なことは、この書き方、表し方(神殿・宮殿・神殿)なのです。
 信仰か・生活か?教会か・仕事か?そう考えることがないでしょうか?あれか・これかではありません。「優先順位」ということでもないでしょう。礼拝の中に生活、仕事がある。
 主イエスが教えてくださった祈り。その最初の願いは、「御名があがめられますように。」(マタイ6:9(新改訳第二版))
神さまがあがめられる、ほめたたえられる、そのために私の生活・仕事、すべての営みがあるのです。神さまは必要を満たしてくださいます。ご自分の名がほめたたえられるためだからです。

 おはようございます。
 次主日のお知らせ。5/10(日)は午前10:30よりオンライン礼拝がございます。コロサイ1:1~8「まだ会ったことのないみなさんへ」。午後4時からは福音交友会実行委員会がオンライン会議で行われます。この日は「母の日」ですね。みなさんのご家庭で、それぞれお母さんへの感謝が現されますように。
 お祈りください。清水担・いずみ宣教師ご家族が一時帰国されます。5月7日(木)日本時間午後11時にダルエスサラームを出発され、本日の日本時間午後7時に成田空港着と連絡がありました。成田からは、レンタカーでご家族で高石聖書教会まで移動されると伺っています。無事に帰国され、ご一家が高石の地で安らぐことができますように。


 シャローム
 純人

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5/7

ケルビムは神殿内部に置かれた。ケルビムは翼を広げていて、片方のケルビムの翼は一方の壁に届き、もう片方のケルビムの翼はもう一方の壁に届き、また両者の翼は神殿の真ん中に届いて、翼と翼が触れ合っていた。
 Ⅰ列王6:27

 ソロモンが建てた神殿。昨日の箇所には、その外観について述べられていました。その特徴は「石」。神殿は外側から見れば石の建物。今日の聖書日課では神殿の内装について述べられています。その特徴は「木」と「金」。
「彼(ソロモン)は神殿の内側の壁を杉の板でおおい、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側を板でおおった。なお、神殿の床は、もみの板でおおった。」(15)
石で組み立てられた神殿の内部はすべて板でおおわれました。そしてその板には、すべて金がはりめぐらされました。
「ソロモンは神殿の内側を純金でおおい、内殿(至聖所)の前に金の鎖を渡し、これに金をかぶせた。神殿全体を隅々まで金でおおい、内殿に関わる祭壇も全体を金でおおった。」(21~22)
上下左右、どこを見ても金、金、金。至聖所(神殿の中心部)には、神の臨在を表す「契約の箱」がありました。この箱も金でおおわれています(出エジプト25:10~22)。もう一つ至聖所に置かれたものがあります。ケルビムです。ケルビムって何でしょう?最初は創世記に登場します。
「こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。」(創世記3:
24)
食べてはならない「善悪の知識の木」の実を食べてしまったアダムとエバ。神は彼らをエデンの園から追放されました。そのとき二人が再びエデンの園に入ることができないように、炎の剣とともに置かれたのがケルビムでした。ケルビムは神の働きをする天使ということができるでしょう。次にケルビムが登場するのが「契約の箱」、その蓋(ふた)の上です。(出エジプト25:17~22)。主はそのケルビムの間からモーセに語られると約束されました。このケルビムは金細工でした。今日の聖書日課に登場するケルビムも生きているものではなく、かなり大きい金細工です。高さは10キュビト(4.4メートル)、両翼を広げると10キュビト。迫力ありますね。
 ところで、この「ケルビム」ですが、必ず複数で登場します。契約の箱の蓋の上のケルビムも二つ、あの巨大なケルビムも二つです。そもそも「ケルビム」ということば自体「ケルブ」ということばの複数形。しかし翻訳聖書が「ケルブたち」と言わず、「ケルビム」と訳すのは、この天使が、いつでもひとりではなく「ケルビム」として複数で働くものであるからなのです。
 神は、ただひとりのお方ですが、父・子・聖霊の三つの人格を持っておられ、かつそこには人格的な交わりがある。それが聖書の教えです。そして神のかたちに造られた人間もひとりではなく、男と女とに造られました(創世記1:27)。このケルビム、天使もまた、ひとりではない。ともに神の働きをする存在として描かれています。神さまの働きをするときに、そこには必ず同労の仲間がいます。あなたはひとりではありません。ともに働くときに神さまが、その力を現されるのです。
 ところで、こんな箇所があります。
「主は、ケルビム(原文は「ケルブ」)に乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。」(Ⅱサムエル22:11)
ケルブひとりで出て来るではないか?いや、ひとりではありません。主が乗っておられます。あの「子ろば」もまた主イエスを背中に乗せて用いられましたね(マタイ21:7)。「ちいろば」はひとりではないのです。

 こんにちは。 
 緊急事態宣言が更新されました。我が家の子どもたちも高校の授業をオンラインで受けるようです(長い時間ではありませんが)。昨晩は「ZOOM(ズーム)」を使った中高科も行われました。子どもたちが、ひとりではなく、仲間とともに学び、みことばを聞く営みが祝されますように。ZOOMはアカウント(権利)を教会で一つ取得しています。何か良いアイデアがあったら、お知らせください。

 シャローム
 純人

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5/6
「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
 Ⅰ列王6:12~13

 ソロモンは父ダビデの友であったツロの王ヒラムと、自らも契約を結び、ヒラムからたくさんの杉の木材・もみの木材を受け取りました。そして、いよいよ主の神殿の建設が始まりました。6章から8章までは、ソロモンが建てた主の宮(神殿)、王宮の建設と奉献についての記述。
 今日の聖書日課には、イスラエルが「出エジプト」してから480年目にこの神殿が建てられたこと(1)、また、神殿の外観とその大きさが述べられており(2~10)、そのときソロモンに語られた主のことばが記されています。すなわち冒頭の聖句。
 神殿は、かたちも大切ですが、何よりもこれを建てる者、者たちが、「わたし(主)の掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むこと」
が大事なのです。主が住まわれるのは、この神殿ですが、その中には主のみことばを行い、守り、みことばによって歩む人々がいるのです。主はその「ただ中」に住まわれるのです。
 今は会堂で集まることができません。しかし今こそ私たちひとりひとりが主のみことばを守り、行い、みことばによって歩むとき。その恵みを分かち合うときです。建物ではなく、その交わりの「ただ中」に神さまがおられることを実感するときです。

 おはようございます。
 昨日は私たち夫婦で、英会話教室の先生であるジェームズさん・モナさんご夫妻のお宅におじゃましました。お二人がどのようにしてハワイから日本に導かれたのかなど、貴重な証しをお聞きすることができました。モナさん特製の「バナナブレッド」で歓待しくださり、私たち夫婦の結婚記念日を祝っていただきました(20年になります)。
 英会話教室は、今は集まって行うことができませんが、ご夫妻は考えていますよ、いろいろと。ここまでお二人を導かれた神さまが、次に何をしてくださるのか、楽しみです。

 シャローム
 純人

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5/5
主は約束どおり、ソロモンに知恵を授けられた。ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、二人は契約を結んだ。
 Ⅰ列王5:12

 今日の聖書日課5章には、ヒラムという人が登場します。ツロの王ヒラム。異教の国の王であるヒラムでしたが、彼はダビデ王と「常に友情を保っていた。」(1)のです。ダビデの跡を継いだソロモンに、ヒラムは家来たちを遣わしました。お祝いのためです。するとソロモンもヒラムのもとに人を遣わしました。感謝だけではありません。ソロモンはお願いをしました。すなわち、ダビデ以来の悲願であった主の神殿を建てるための木材(レバノン杉)を調達してほしい、という願い。ソロモンは、自分の家来たちもヒラムの家来たちと一緒に働くこと、ヒラムの家来たちに彼が言われるとおりの賃金を払うことを約束しつつ、これを願いました。
ヒラムは答えます。
「今日、主がほめたたえられますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった。」(7)
ヒラムは杉の木材ともみの木材をソロモンの望むだけ与えました(10)。このやりとりのまとめの文章が冒頭の聖句。かつてダビデとヒラムとの間にあった友情は受け継がれ、ここに息子ソロモンとヒラムの新たな関係、契約が築かれました。これはダビデのおかげであり、また主から知恵と広い心(4:29)を与えれたソロモンの行動から産み出されたものでした。
 先月4/5(日)の執事会の後、黒田先生ご夫妻が私たち夫婦を連れて、教会の近所のお宅にあいさつ回りをしてくださいました。中には百歳体操に来ている方もおられましたが、ほぼすべて教会には来られていない人ばかり。でも行くところ行くところ、みなさん、快く対応してくださいました。「今度、新しく来られた栗原牧師夫妻です」朔先生が紹介すると私たちがペコリとお辞儀をしてごあいさつ。みなさん笑顔で迎えてくださいました。黒田先生とミセスが良い関係を持っておられたことがよくわかりました。
 今朝も、デボーションをするために会堂に入ろうとすると、お向かいのご主人が家から出て来られるのが見えました。「おはようございます」
「あ、おはようございます」。「いってらっしゃい」「いってきます」。先代が築いた良い関係をこれからも保ち、さらに発展させていきたいと思います。

 おはようございます。
 昨日、政府より、緊急事態宣言の期限を5月31日まで延長するとの報告がありました。期間内解除の可能性もあるとのことですが、これからも、さまざまな面で困難を覚える日が続きます。感染が広まらないように、できること(「三密(密閉・密集・密接)」を避ける、マスク着用、手洗いの徹底など)をし続けましょう。教会の礼拝も引き続きオンライン礼拝となります。オンラインは礼拝だけでなく、執事会や、CS(小学科、中高科)なども取り入れています。また新たなオンライン集会の可能性も探っていきましょう。アイデアがある方は、執事や牧師にご連絡ください。今日も医療従事者の方、高齢者や子どもたちのお世話をする方々に主の守りと支えがありますように。また感染した方のいやしを祈ります。大切な決断を迫られる為政者のみなさんに主の助けがありますように。
 今日のバースデー(教会カレンダーより)。本日5月5日は、迫間順子姉、本田真理姉のお誕生日です。おめでとうございます。主の祝福がこれからも豊かにありますように。みなさん、お互いに祝福しましょう。

 シャローム
 純人
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2020年5月3日(日) 主日礼拝  

詩篇1:1~6 「幸いな人」

幸いな人~○○でない人~

「幸いなことよ」と言った後、詩人は「○○な人」とは言わず「○○でない人」と言いました。なぜ?これがこの世の現実。罪の世の現実だから。
聖書はただ理想を語っているのではありません。現実をしっかり見据え、そこから目をそらさないのです。「幸いなことよ 悪しき者はかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」(1)

幸いな人~口から出て来ることばでわかる~

その後、詩人はこう言います。「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。」(2)。幸いな人・悪しき者とも、その特徴は口、ことばである。悪しき者、罪人は「嘲る」。「歩む」「立つ」「座に着く」とは、そのような方向性を持っているということ。「嘲る者の座に着く」とは、口を開けば嘲りのことばが出て来る、ということ。人をおとしめる、否定する、嘲る。みなさん、自分がふだんどんなことばを言っているか、考えてみてください。
詩人は、幸いな人とは、口から次々に嘲りのことばが出て来るのではなく、昼も夜も主のおしえを口ずさむ人だと言います。ただ単に聖書のことばをオウム返しに言っているということではありません。主のおしえを喜びとしているところから出て来ることば。「口ずさむ」と訳されているへブル語「ハーガー」は「思い巡らす」とも訳せることば。みことばを思い巡らしていく中で、それが喜びとなって、思わず口からこぼれて来る。嘲り・愚痴も、主のおしえも共通しているのは、意識して言うというよりも、思わず出て来てしまうとうこと。
そしてもう一つ共通点。嘲りも主のおしえも、ともに口から出る前に、私たちが聞いたことばだということ。あなたは今までどんなことばを聞いてきましたか?嘲りのことばを聞いてきた人、聞き続けて来た人は、自分も人を嘲るようになります。どうか主のおしえを、神のことば、愛のことばを聞いてください。意識して聞いてください。聞き続けてください。そうすれば、みことばがあなたのうちで喜びとなり、意識しなくても神さまの
想いをことばにするようになります。
(次回6月第一主日も詩篇1篇からの説教です。後半部分から学びます。)

 おはようございます。
 昨日のオンライン礼拝、いかがでしたか?礼拝後、その場でみことぼの分かち合いをされた、とメールをいただ方が数人おられました。感謝です。どうぞ、オンライン礼拝のあとは、分かち合いと互いのために祈るときを持ってくださいね。
 昨日の執事会、初めてのオンライン会議でしたが、スムースに行うことができました。執事会からの連絡です。
 「緊急事態宣言」が延長するのかどうか、本日(4日)、政府からの発表があると聞いていますが、仮に「延長しない」ということになっても5/10(日)の礼拝はオンラインで行います(会堂には集まりません)。ご注意ください。「延長する」のであれば、その期間の礼拝はすべてオンラインで行い、これまでと同じように、その他の集会は中止とします。
 みなさんのお祈りを感謝します。
 今週も、互いに声をかけ合い、励まし合う一週間でありますように。 
 コロナウィルスに感染された方のいやしと回復、寄り添われている医療従事者の方の安全と体力が支えられますように。感染が収束しますよう
に。

 シャローム
 純人

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5/2
「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
 Ⅰ列王3:9

 王となったソロモンに、主は彼の夢の中で言われました。
「あなたに何を与えようか、願え。」(5)
ソロモンは長寿でもなく、富でも、敵のいのちでもなく、善悪を判断して聞き分ける心を願いました。冒頭の聖句のとおり。彼は知っていました。
イスラエルは「あなたの民」:主の民であることを。自分の国ではない、自分の所有ではない。神の王国が、今、自分に任されたのだ、と。「あなたの民」を正しくさばくこと。善悪も自分の基準ではなく、神の目に何が良いことなのかどうか、それをソロモンは求めました。
 「これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。」(10)
主はソロモンが願った知恵と判断の心を与える、と約束し、それだけでなく富と誉れ、長寿をも約束されました(10~14)。
4/19(日)の主日礼拝説教を思い返します。
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)
夢から覚めたソロモンは喜びの中で、主にいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開きました(15)。
 今日の聖書日課3:16~28は有名な箇所。「大岡裁き」ならぬ「ソロモンさばき」。まことに見事な知恵と判断力。ぜひぜひ読んでみてください。説明の余地がありません。読めば「へ~~、すごいな」と思うはずです。でも覚えてください。すごいのはソロモンではなく(ソロモンもすごいですが)、彼にこの知恵を与えられた主であることを。主は「あなたの民」と言ったソロモンを心から喜ばれました。
 ソロモンは完璧な人ではありませんでした。今日の聖書日課の初めには、彼がエジプト王ファラオの娘をめとったことが記されています(1~2)。異教の民と姻戚関係を結ぶということは明らかに主のみこころではありません。しかし聖書は事実を記します。王になったばかりのソロモンには不安があり、それゆえにこのような人間的知恵により彼が動いたことを。しかし、主はそれをとがめることをせず、主を愛し、自分のできるかぎりの礼拝を献げるソロモン(3~4)に対して「あなたに何を与えようか。願え。」(5)
と言われたのです。

 
 シャローム
 純人

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5/1
王はまたシムイに言った。「おまえは心の中で、自分が私の父ダビデに対して行ったすべての悪をよく知っているはずだ。主はおまえの悪をおまえの頭に返される。」
 Ⅰ列王2:44

 再度、王権を奪おうとしたアドニヤを討ち取ったソロモンは、父ダビデが死ぬ前に命じたことに着手しました。将軍ヨアブ、かつてダビデを呪ったシムイを処罰することです。ヨアブもアドニヤ同様、祭壇の角をつかみました(28)。しかしソロモンは家来ベナヤに命じて、そのままヨアブを打ち殺しました(34)。シムイに対しては一つの条件をもって生かしておきました。すなわち、「エルサレムに自分の家を建て、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。」(36)
しかしシムイは三年後、ソロモン王の命令を破ってしまいます。逃げて行った二人の奴隷を連れ戻しにガテに行ったのです。結局、シムイもまた殺されました(46)。
「こうして、王国はソロモンによって確立した」(46)
敵対する、また反旗を翻す可能性のある人を処分したことにより、ソロモンの王国は確立したのです。
 でも、何かしっくりこない感が残ります。厳しすぎるのではないか?私はそう思います。冒頭の聖句は、シムイを殺す前にソロモンが彼に語ったことば。ソロモンはヨアブにもこう言いました。
「主は彼が流した血を彼の頭に注ぎ返される。彼は自分よりも正しく善良な二人の者に討ちかかり、剣で虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、イスラエルの軍の長である、ネルの子アブネルと、ユダの軍の長である、エテルの子アマサを虐殺したのだ。」(32)
共通しているのは「主が、おまえの悪・流した血を、その頭に返される」ということ。「復讐」ということばが思い浮かびます。数年前に流行ったテレビドラマのことばを借りれば「倍返しだ!」。しかしこれは「倍返し(二倍にしてやり返すこと)」ではありません。それは「一倍返し」。別の言い方を借りれば「ブーメラン」。自分のした悪がそのまま自分に返ってくることなのです。ヨアブもシムイも、かつて自分がダビデに、ソロモンに、いや主に対して犯した悪を自分に受けたのです。これが神のさばきなのです。それはいたって「ふつう」のことでした。
 だから、イエス・キリストの十字架による救いは「ふつう」ではありません。自分が犯した罪を刈り取るのが当然なのに、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)
なのに、神はそのひとり子をこの世に与え、罪の報酬である死を彼に負わせたのです。私たちが神に投げつけたブーメランは返ってきましたが、それをイエス・キリストが盾になって受けてくださったのです。私たちは死なずに済みました。
 「死なすに済んだ」といえば、今日の聖書日課で死なずに済んだ人がいます。祭司エブヤタルです。彼もまた、かつてヨアブとともにアドニヤを支持した人でした(1:7)。しかしソロモンはヨアブのようにエブヤタルを殺すことをせず、生かしておきました。
「おまえは私の父ダビデの前で神である主の箱を担ぎ、父といつも苦しみをともにしたからだ。」(26)
という理由で。しかし、
「ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から追放した。」(27)
祭司の職から追放されたエブヤタルは、生きていても死んだような者でした。生き地獄を味わったのです。
 イエス・キリストの救いは、単に「地獄に行かない」ことではありません。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物(ギフト)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ6:23)。
キリストの十字架と復活は、私たちに永遠のいのちをもたらしてくれました。神さまは私たちに、愛とあわれみ、生きる喜びと使命を与えてくださいました。ペテロはこう言います。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
(Ⅰペテロ2:9)
 イエスさまを信じて救われた、というのは本当に「ふつう」ではないのです。「もうけもん」なのです。

 おはようございます。
 5月に入りました。私たち家族が岸和田聖書教会に来てから一か月がたちました(3/30に引っ越してきました)。この一か月は、お顔を見れなくても、みなさんと、ふつうならできない交わりをいただきました。コロナウィルス感染が収束し、早く集会・礼拝をしたいと願いますが、今は、神さまが導かれているところに従って、みことばの交わりを楽しんできたいと思います。今日もコロナと戦う医療従事者の方々に、大切な決断をする為政者の方々に主の知恵と力が注がれますように。
 次主日のお知らせ。5/3(日)は、午前10:30より同時配信(オンライン)礼拝をお献げします。詩篇1:1~6「幸いな人」。栗原の最初の礼拝説教です。神さまのあわれみが注がれるよう、お祈りください。黒田先生は貝塚のオンライン礼拝(土曜日に収録)で奉仕されます。北教会オンライン礼拝は辻喜男師が説教されます。四教会、福音交友会、日本、世界の教会に新しい風が吹きますように。 

 シャローム
 純人

2020年05月31日

ブレッド・オブ・ライフ 04月

4/29
するとソロモンは言った。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない。」
 Ⅰ列王1:52

 「主は生きておられる」と言い、改めてソロモンを王にする誓いを立てたダビデ(29)。そのとおりに、ソロモンは祭司ツァドクと預言者ナタンによって油を注がれました(任職のしるし)。民はみな、「ソロモン王、万歳!」(39)
と言って彼の後に従いました。聖書は民の喜びの歌をこのように表現しました。
「地がその声で裂けた。」(40)
 これを聞いたアドニヤは恐れおののきます。「私が王になる」(5)と息巻いていたアドニヤ。しかし今になっては、「アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って祭壇の角をつかんだ。」(50)
「祭壇の角をつかむ」とは、ここでいえば「殺さないでください」というアピール(51)。これに対してソロモンが言ったことばが冒頭の聖句。
 このことばは聖書におけるソロモンの最初の発言記録。これまでも話の中心はソロモンでした。だれが王になるのか?アドニヤではない、ソロモンだ。ソロモンは父ダビデ王に指名され、祭司、預言者に油を注がれ、民の圧倒的な支持を受けました。しかしこれまで、ソロモンのことばは一言も記されていません。アドニヤは「俺が、俺が」というガツガツした性格で王になろうとしました。ソロモンは?選ばれたけれど弱々しいおぼっ
ちゃま?そうではないことを、このことばは示しています。穏やか、かつ毅然とした態度でソロモンはアドニヤについて語りました。続きは以下の通り。
「それから、ソロモン王は人を遣わして、アドニヤを祭壇から降ろさせた。アドニヤが来てソロモン王に礼をすると、ソロモンは彼に言った。『家に帰りなさい』。」(53)
 ここにソロモン王の主への信頼、主にある強さを見ることができます。彼も父ダビデ同様、「主は生きておられる」ことをいつも覚えつつ歩んだ人でした。

 おはようございます。
 今日は祝日。福音交友会総会が行われる予定でしたが、コロナウィルス感染防止のため延期となりました。同じく「プチティーンズ(中高生集会)」も予定されていました。こちらは、本日午後にオンライン集会がございます。「できない」ではなく、「何ができるか?」を求めて教会はこれからも前進して行きます。みなさんも生活の中で何か良いアイデアがあれば、お分かちください。

 シャローム
 純人


4/28
王は誓って言った。「主は生きておられる。主は私のたましいをあらゆる苦難の中から贖い出してくださった。」
 Ⅰ列王1:29

 昨日から『みことばの光』の聖書日課は、旧約聖書「列王記第一」となりました。この書物は「サムエル記第二」の続きと言えるもの。
「1章から11章までの内容は、次のとおりである。
 一. ダビデからソロモンへの王位の継承:反逆者たちに対する裁き(1章)
 二. 神から与えられた知恵を発揮するソロモン(2~3章)
 三. 全イスラエルの王としての繁栄と功績(4章)
 四. 神殿建設への取り組み、完成、奉献式(5~8章)
 五. ソロモンの名声と交流:シェバの女王との面談(9~10章)
 六. ソロモンの霊的堕落、死(11章)」(『みことばの光』4月号より)
昨日から明日までは1章。ダビデからソロモンへの王位の継承について述べられています。
 年老いたダビデ。しかし、彼には最後に大切な仕事が残っていました。王位を継承するということ。すんなりソロモンに王位が継がれたのではありません。野心を抱いたソロモンの異母兄弟アドニヤは、ダビデの家来ヨアブや祭司エブヤタルなど多くの人々を引き寄せ、自分が王になろうとしました。これを聞いた預言者ナタンは、ソロモンの母バテ・シェバのもとに行き、かつてダビデが「必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く」(13)
と誓ったことをダビデに思い出させるよう勧めました。バテ・シェバはナタンの勧め通り、ダビデ王に語りました。、その直後、ナタン自身もダビデのもとに行き、今、アドニヤが王となろうとしていることを伝え、こう言いました。
「このことは、王から出たことなのですか?あなたは、だれが王の跡を継いで王座に就くのかを、このしもべに告げておられません。」(27)
これを聞いたダビデが再度バテ・シェバを呼び寄せ、語ったことばが冒頭の聖句。
 「主は生きておられる」とはイスラエルにおいて誓いをするときの常套句。「主は生きておられる」と言ってから、誓いのことばが語られます。
この後、ダビデははっきりとこう言いました。
「私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」(30)
しかし、これは単なる常套句ではありません。ダビデの心がしっかり詰まったことばでした。
「主は生きておられる」
今、生きておられる主の前に自分はいる。年老いて元気がなくなっても、「主は生きておられる」のだ。これまでも主は生きておられ、私をあらゆる苦難から贖い出してくださった。ダビデは生きておられる主の前で、自分の誓いを改めて現したのです。
 あなたも今、言ってください「主は生きておられる」と。あなたが起きている時も寝ている時も、元気な時も調子の悪い時も、主は生きておられるのです。「主は生きておられる」。その中で、私たちは今日も生かされているのです。

 おはようございます。
 谷本典久兄からのご報告です。

「みなさま、お祈りありがとうございます。
 主の御名を賛美します。
 昨日4/27(月)23:07、3,340gで生まれました。
 名前は、谷本悠真(たにもとはるま)です。母子ともに健康です。
 新型コロナウィルスの影響で、なかなか顔をお見せすることができませんが、引き続きお祈りよろしくお願いします。 谷本典久・谷本智美」

 おめでとうございます!
 主は生きておられます。悠真くんとご両親に豊かな祝福がありますように。
 どうぞ、谷本ファミリーにお祝いメッセージを送ってください。
 norihisa_ta@yahoo.co.jp

 本日、牧師は午後6:30より、KGK関西地区協力会運営委員会に出席します。いつもならば、梅田にあるKGK事務所で行いますが、コロナのため今日はオンライン会議。牧師室からの参加となります。学生たちも、今は集会・キャンプができない中、オンラインで祈祷会や交わり会をしています。新年度も学生伝道の働きが豊かに祝されるようお祈りください。(牧師は現在、協力会の運営委員長をしています)。

 シャローム
 純人


4/26

2020年4月26日 主日礼拝 「もうこれで大丈夫」
1ヨハネ5:18-21(黒田朔牧師)

ヨハネが最後に言いたかったこと~罪なし人生~

「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。」(18)
罪なし人生を生きることなどできますか?できませんよね?でもヨハネは「できる」と言うのです。ヨハネは自分の経験をもってこの手紙を締めくくろうとしました。

罪なし人生~その素晴らしさと方法~

先ず第1に知るべきことは「罪を犯さない、罪なしに生きる幸い」です。罪の無い世界とはどんな世界でしょう。そんな世界はありますか?あります。どこですか?エデンの園です(老人ホームのことではありません)。しかしエデンの園で暮らした最初のカップル、アダムとエバは、罪なしに生きる幸いを経験した人というよりは、残念なことですが、罪なしに生きる幸いを失った夫婦です。彼らがエデンの園の生活の素晴らしさに気付いたのはその素晴らしさを失った時でした。神様が下さった祝福を失った原因は罪です。「取って食べるなよ」と言われた木の実を食べた。神様より己の思いを優先させる・・罪によって神様が下さった祝福の世界が崩された瞬間です。どうして瞬間と言いますか?罪が入った瞬間、今までの当たり前が消え去り、回復不能となり、恐れと断絶が残ります。今まで大好きだった神様、喜びであった神との交わりが恐れへと変わりました。神への恐れから、神から離れ、断絶が生まれます。罪の結果は、恐れと断絶です。
 私たちも、いまだに傷つき、断たれたまま引きづっている関係を持っています。もし今、その恐れと断絶がなくなるなら、どんなに明るくなるでしょう。会いたくない人がおしゃべりしたい人になる。緊張の関係が楽しみとなり、何よりも神様があなたの喜びとなるのです。「恐れと断絶の無い生活」、・・空の色が変わりますね・・本当は空の色など変わりはしませんが、それまでは空が目に入らなかった・・それが「罪なしに生きる幸い」です。そんな生活が私たちすべてのクリスチャンに約束されているのです。

次にどうしたら「罪なしに生きる」ことができるでしょうか?
「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。」(18)
二つの理由が語られています。一つは、「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと」。神から生まれる前、私たちは罪の中に死んでおり、つまり、罪に対して無感覚でしたが、神から生まれた今は、罪に気づき、今までのように罪の習慣の中を歩くことがなくなります。二つには、「神から生まれた方」・・キリストが私たちを守ってくださるから、悪いもの・・つまり、サタンのことですが、サタンは私たちに触れることができないからだと・・・私たちは知っています。しかし、大切なことがあります。罪を「犯さない」のは、「罪を犯せない」のとは違います。犯せないのではなく、罪を犯さないためには、私たちの意思の選択と決断が求められます。悪いものとはサタンのことで、あの理想の楽園、エデンの園でエバの誘惑に成功して以来、すべての人を誘惑し続けています。サタンはイエス様をさえ誘惑しました。まともにぶつかれば100%みんな負け。勝てる人などありません。しかし今は、神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。では、どのように神様はあなたを守ってくださるのでしょう。
「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(19~20)
ヨハネが言いたかったことはこれです。確かに今も世の中全体はサタンの支配下にあり、誘惑がある。毎日経験しています。しかし、もっと確かな事実は、周りがそうであっても、私たちは今、神に属しており、神の御子が教えてくださる。だから、私を見てください。・・ヨハネの証です。ガリラヤの漁師で短気で、手が付けられず「雷の子=ボアネルゲ」とイエス様にあだ名された私が、今、皆さんから「愛の使徒」と呼ばれ、この手紙を書いています。ヨハネだけではありません。あなただって、今、お家でネットを通して礼拝しています。神様の祝福の世界に生きています。

偶像をから自分を守れ

もう1節。最後の21節 「子どもたちよ。偶像から自分を守りなさい」(21)
ヨハネは最後にもう一度「子どもたちよ」と読者一人一人を思い描いて「罪なし人生を生きるための最後の敵は偶像だよ」と言いました。ここでの偶像とは仏壇や神社だけではありません。神様からあなたの心を奪うものは何でも偶像です。そして偶像の蔭には曲者、仕掛人のサタンがいます。
園の中央にある木の実自体は悪いものではない、しかし、曲者・仕掛人サタンは木の実を利用して、エバの心を神様から奪ったのです。あなたの心を神様から奪うものに気をつけなさい。サタンは私たちの弱点を知っています。エバの弱さ知っていたサタンは言葉巧みにエバの目を園の中央にある木の実に向けました。
「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:6)
エバは目をそらせばよかったのです。誘惑には勝つ必要はありません。負けさえしなければよいのです。
「子どもたちよ。偶像から自分を守りなさい。」
ヨハネの最後のことばです。「あなたの心を神様から奪うものには気をつけなさい。」

もうこれで大丈夫!

ヨハネのメッセージです。あなた方が見たことのないイエス様に従った時、ガリラヤの漁師の私が愛の使徒と呼ばれるようになったのです。あなたもできます。一緒に喜べるのです。これは私の計画したことではありません。神様に従ったらこうなったのです。
ビリーグラハムがいました。「どうして黒い牛がみどりの草を食べ、白いミルクをだすか、知ってますか。知らなくても、おいしいミルクは飲めます。」そうです。なぜそうなるのか知らなくても、知っていてくださるお方に従えば、サタンの誘惑から守られ、罪なし人生をびっくり、喜べます。これが、罪なし人生、エデンの園での人生を生きるコツです。このコツさえ握れば「もうこれで大丈夫」です。

 これから私たちは尾崎にある阪南バイブルチャペル(HBC)に住むことになるのですが、考えれば考えるほど、不思議で、面白い。尾崎は私が中学があり、阪南市は献身するまで新婚時代を過ごした所です。1年半前、皆さんとお会いした時、こんなことになるとは思ってもいませんでした。コロナウィルスのために、先週、HBCでもラインを使って祈祷会を3夫婦で開いたのですが、T牧師夫妻、F夫妻、そして私たちの3夫婦・・3夫婦とも淡輪聖書教会で結婚式を挙げた1号、2号、4号・・それが、50年もたって、一緒にラインでお祈りしているのです。考えられません。これは神のご支配によって今も起こっているエデンの園での生活です。これから何が起こるか楽しみです。
 今日学んだ「罪なし人生を生きる」コツ、これさえ身に着ければ「もうこれで大丈夫」です。
 神様の祝福を祈っています。

 おはようございます。
 昨日は、黒田牧師最後の礼拝説教。「もうこれで大丈夫」とみなさんも、神さまと互いに対して確認したことでしょう。礼拝の最後には、栗原牧師夫妻から黒田牧師夫妻へ、私たちの心を込めた花束が贈られ、黒田牧師夫妻から栗原牧師夫妻へは、岸和田聖書教会創立25周年記念しおりが手渡されました。そうそう、みなさんから募った黒田先生ご夫妻へのメッセージもお渡ししました。とても喜んでくださいましたよ。詳しくは、「おたすけマンブログ」をご覧ください。https://wind.ap.teacup.com/lovealohanet/
 黒田先生ご夫妻へのメッセージ。間に合わなかった方々もおられるでしょう。直接、メールをしてくださるのも良いと思います。
otasukemankuroda@gmail.com 
感謝を込めて、朔先生・ミセスを尾崎の地に送り出しましょう。

 シャローム
 純人


4/25
イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 ルカ5:20

 今日の聖書日課には二人の人の癒しが記されています。ひとりはツァラアト(重い皮膚病)に冒された人。もうひとりは中風(からだが麻痺した状態)の人。この二人、めちゃくちゃ対照的です。
 ツァラアトの人は、旧約聖書によれば本来、隔離されて、人の前に出てはいけない人(レビ13:46)。しかし、彼は出て行きました。イエスのもとに。
「主よ、お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」(12)
「わたしの心だ。きよくなれ」(13)
彼はきよめられました。癒されたのです。
 中風の人はイエスのもとに出て行きませんでした。いや、出て行けなかった。歩くことすらできないのだから。しかし友人たちが彼を床に寝かせたままイエスのもとに連れて行きました。イエスのいた家には大勢の人がイエスを取り囲んでいました。正面からはムリです。友人たちはその家の屋上(天井)に上り、瓦をはがし、そこから彼をイエスの前につり降ろしました。私が家主だったら「おい、なんてことするんだ!」と言うでしょう。しかしイエスは言われました。
「友よ、あなたの罪は赦された」そして、その後イエスは中風の人を癒されました。彼は立ち上がって、自分で寝床を担ぎ家に帰って行きました。注目したいのは、イエスは「彼らの信仰を見て」中風の人に罪の赦しを宣言したということ。この人の信仰ではありません。友人たちの信仰です。たしかに、このイエスのことば、そして次にイエスが言われた
「あなたに言う。起きなさい、寝床を担いで、家に帰りなさい。」(24)
これを聞いて、信じたのは中風の人です。しかし、その初めは友人たちの信仰でした。イエスならなんとかしてくれる。イエスは彼を救ってくれる。その信仰、彼らの信仰を見てイエスは動かれたのです。
 ツァラアトの人は自らの熱い信仰によって、中風の人はその友たちの熱い信仰によってイエスに癒し、救っていただきました。
 今、あなたの、あなたを含む仲間たちの信仰を必要としている人がいるでしょうか?その人のために、心を合わせて祈り、動きましょう。イエスさまは今日も「彼らの信仰」を見ています。

 
 シャローム
 純人


4/24
シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」 ルカ5:10

 何が同じだったのか?シモン・ペテロもヤコブもヨハネも大漁の奇蹟に驚いたのです(9)。
 「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(4)
昨晩は一匹も捕れなかったのです。しかもこんな真昼間。捕れるわけがない。でもシモンはイエスに言いました。
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(5)
そして、「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」(6)
シモンの乗っていた舟だけでは足りず、ヤコブとヨハネの舟にも応援を要請。最終的には二艘とも沈みそうになるくらいの大漁となりました(7)。
シモンはイエスの足元にひれ伏して言いました。
「主よ。私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(8)
疑っていることは最初からイエスにも伝わっていました。しかし、この時シモンは自分の不信・汚れ・罪深さをはっきりと自覚したのです。恐れるシモンにイエスが語られたのが冒頭の聖句。
「恐れることはない。」自分の罪深さを知り、神の前に恐れることは大切です。しかし、その恐れに留まるのではなく、恐れつつ一歩踏み出す必要があります。
「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
魚ではなく人間を捕る。しかもその捕り方は、これまでのやり方とは違います。自分の計算ではない。信じられなくても、神のことばに従って、「でも、おことばですので」と言って、やってみるのです。するとどうなるか?
 シモンもヤコブもヨハネも、舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従っていきました(11)。そんな生き方、そんな人生に魅力を感じたからです。この時、彼ら三人もまた、イエスに「捕られた」のでした。伝道とは、自分が受けたことを他の人に伝えることなのです。

 シャローム 純人


4/23
イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女をのことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。 ルカ4:38~39

 今日の聖書日課は、ガリラヤの町カペナウムにおけるイエスの働きが描かれています(31)。イエスはナザレで成長されましたが、伝道の生涯における本拠地はカペナウムでした(マタイ4:13)。今日の箇所でイエスは、悪霊につかれた人々からその悪霊を追い出し、多くの病人たちを癒やされました。その中で「不特定多数」ではなく、イエスがピンポイントで訪ねた人のことが記されています。冒頭の聖句。
 シモンとは、シモン・ペテロのこと(5:8)。ルカの福音書で、シモンの名が出て来るのはここが最初。シモンについての説明がまったくないのですが、最初の読者は「ああ、あのペテロのことか」とわかったことでしょう。それにしても、この福音書でイエスが病を癒やされたことを記録している最初の個人名が「シモンの姑」であることに心が留まります(個人名ではないですね。名前がわからない)。でも、あえてルカは個人名を出さずに「シモンの姑」と書いたのだと思います。あのシモン・ペテロ、偉大なキリスト教会のリーダーは、その家族のバックアップがあってこそ働くことができた。イエスはペテロを用いられましたが、その家族に目を留め、祝福されたのです。姑の熱病のいやしから始まって、彼女は、ペテロ家は、イエスを弟子たちをもてなし、支えるファミリーとなりました。
 イエスさまは今も、あなたとあなたの家族に目を留めておられます。「○○(あなたの名前)の夫」、「○○の母」…etc。あなたの家族が、やがてイエスさまを、教会の兄弟姉妹を歓迎し、もてなすファミリーとなりますように。
 イエス・キリストの御名で アーメン

 おはようございます。
 今は、教会の集会はすべてストップしていますが、その代わり、朔先生と私は、お電話で教会員の方々とお交わり(私の場合は「ごあいさつ」)しています。これは神さまが与えてくださった良き時だと思っています。もし電話がかかってきても、あやしいセールスではありません(笑)。切らないでくださいね。
 今日も、コロナウィルスの感染が留まり続けますように。多くの方の働きを感謝します。

 シャローム
 純人


4/22
人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
 ルカ4:22

 イエスが福音を宣べ伝え始めた地域はガリラヤ地方でした(14)。今日の聖書日課には、ガリラヤの中でもイエスが育ったナザレの町(2:39~
40)に彼が行ったときのことが描かれています。
 安息日にユダヤ教の会堂に入られたイエスは、そこで手渡された巻物(旧約聖書イザヤ書61:1~2)を開いて朗読します(あなたも開いて読んで
ください)。そして巻物を返すとイエスはそこにいた人々に言われました。
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(21)
700年前イザヤが預言したのはわたしのことだ、ということ。これに対する人々の反応が冒頭の聖句。
 「この人はヨセフの子ではないか」とは、どういうことか?そこにいた人々は小さいころからイエスのことを知っていました。「あのヨセフの子
のイエスだろ?」という感じ。なんでイエスがこんなこと(「イザヤが預言したのはわたしだ」)を言うのか?これを聞いたイエスは、人々が自分
にしるし(いやしの奇蹟)を求めていることを察知し(23)、こう言いました。
「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」(24)
神が遣わされた預言者であっても、郷里の人々にとっては「なんであいつが?」となるのです。
 自分の偏見がみことばを素直に聞けなくさせることを今日の箇所は教えてくれます。では、どうすれば良いのか?しっかりみことばを聞くので
す。もう一度、冒頭の聖句に注目してください。「この人はヨセフの子ではないか」と言うナザレの人々も、イエスの口から出て来ることばが恵み
に満ちていることは分かっていたのです。彼らはたしかに聞いてはいたのです。
 偏見を持つと聞く耳さえ持たなくなることがあります。それはいけません。「誰が語っているか?」も大事です。しかしそれ以上に「何が語られ
ているか?」に注目しなければならない時があるのです。
 みことばを聞いても偏見のゆえに信じようとしないナザレの人々に、イエスは、旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの物語を引き合いにして「不
信仰なあなたがたに、しるしは与えられない」というメッセージを語られました(23~27)。怒った彼らはイエスを崖から突き落とそうとしまし
が、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれました(28~30)。

 こんにちは。
 総会の「書面表決書」、どんどん集まっています(郵送・fax・手持ち)。まだ、受け付けています。締切は25日(土)。今日も、二人の方が教会
に持ってきてくださいました。この一年を感謝し、これからの一年を主に期待しましょう。

 シャローム
 純人


4/21
イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。
 ルカ4:14

 今日の聖書日課は、いわゆる「荒野の誘惑」。イエスが荒野で40日間何も食べず過ごした後で、悪魔から試みられたことが記されています。悪魔とイエスが三回問答を繰り返しました。
「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」
「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」(3~4)
「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」
「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(6~8)
「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
「するとイエスは答えられた。『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」(9~12)
イエスはいずれも「書いてある」「言われている」と答えられました。聖書を引用したのです。私が使っている聖書は『新改訳2017』ですが、イエスの答えについている注(欄外注)を追っていくと、最初の答えには「申八3」、二番目は「申六13」、最後は「申六16」とありました。「申」とは旧約聖書「申命記」のこと。指示された申命記8:3、6:13、6:16を読むと、やはりこのイエスの答えの元となることばが記されていました(あなたも開いてみてください)。
 申命記とは、「荒野の40年」の旅を終えてこれからカナンの地に入ろうとしているイスラエルの民に対して、指導者モーセが語ったいわば「遺言」のようなもの(モーセはカナンの地に入ることなく死にました(申命記34章))。モーセは民に言いました。
「あなたは(カナンの地で)食べて満ち足りるとき、…あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。…あなたがたの神である主を試みてはならない。」(申命記6:11、13、16)
「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。…あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」(申命記8:3、10)
モーセが思い描いたのは、民が約束の地カナンで「食べて満ち足りた」シチュエーション。食べて満ち足りたそのとき、民は、「人はパンだけで生きるのではない」「主にのみ仕える」「主を試みてはならない」ことを思い起こさなければならないのでした。
 イエスは悪魔に対して「わたしは、すでに満たされている」と言っているのです。悪魔の誘惑とはいつでも「あなたは足りていない」というメッセージです。「足りていないのだから、それを満たそうよ」と悪魔は呼びかけるのです。しかしイエスは満たされていました。
「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、」(1)
イエスはお腹が減っていても聖霊に満たされていたのです。地位や名誉はなくても聖霊に満たされていました。バプテスマを受けた時、聖霊を受け、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(3:22)
と父なる神に語られたイエスは、それから後、どんなときでも聖霊に満たされ、神の愛に満たされ、神を信頼して歩まれたのです。
 冒頭の聖句は、この試みに打ち勝ったイエスの結果。主は御霊の力を帯びてこれから伝道活動をするべきガリラヤに帰られました。
 悪魔は私たちにも絶えず誘惑してきます。「あれが足りない、これが足りない」と。私たちはこのように応えましょう。
「もう、間に合ってます」
イエスさまを満たされた聖霊が、私のことも満たしてくださっています。聖霊さまに満たされて、みことばに従っていきましょう。

シャローム 純人


4/19
さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
 ルカ3:21~22

 悔い改めのバプテスマ。このバプテスマをイエスも受けました。イエスは罪人だったの?違います。イエスは「罪人になられた」のです。罪人の身代わりとして死ぬために。それ以前も、それ以後も罪を犯さなかったけれど、イエスは「罪人として」バプテスマを受けられたのです。イエスの受洗は、神の子が、人となってくださったことを表すしるしでした。
 このとき、天からの声が聞こえました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
父なる神の声でした。みこころに従うイエスを神は喜ばれたのです。
 今日の聖書日課3:23~38は、イエスの系図。イエスの系図というとマタイ1章を思い起こす方が多いと思います。あれとこれとには違いがあります。
・マタイは先祖からイエスに至る系図、ルカはイエスから先祖にさかのぼる系図。
・マタイはイエスの父ヨセフの系図。ルカはイエスの母マリアの系図(と思われる)。
・マタイは最初がアブラハム、ルカは最初がアダム。
 三つ目について。マタイの系図はイエスがイスラエル人であり、「ダビデの子」:メシア(キリスト)であることを示しますが、ルカの系図はイエスが人類(人間)であることを示します。
「イエスは、働きを始められたとき、およそ30歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、」(23~24)
とさかのぼっていき、最後は、
「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。」(38)
アダムは「神の子」と表現されているのです。神に造られた人間アダム。その子孫がイエス。実はあなたも私も、この系図を共有しています。少なくともノア(36)以前は同じ系図です。洪水でノアの家族以外の人間はみな死に絶えました(創世記7:21)。ノアの三人の息子、セム・ハム・ヤペテから現在の人類は分かれ出たのです。
 イエスが人として生まれてくださったことを系図は表しています。そして人(罪人)として歩まれ、身代わりに死に、私たちのためによみがえることを示すために主は受洗されたのです。だから、イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者にも聖霊は降り、私たちにも神さまが、こう言われていると考えて良いと思います。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

シャローム 純人


4/18
取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」
 ルカ3:12~13

 今日から『みことばの光』の聖書日課は新約聖書「ルカの福音書」となりました。今回は3章から。
 新約聖書には四つの福音書がありますが、四つともに記されている記事(出来事)はそう多くありません。イエスの十字架と復活はもちろんですが、ほかに思い当たります?「5000人の給食」。これは四つとも書かれています。ほかには?イエスの誕生?マタイとルカには記されていますが、マルコとヨハネにはありません。マタイとルカのイエス誕生物語も、違う時、違う場面をそれぞれ記しているようです。マタイでは東方の博士たち、ルカでは羊飼いたちが赤ちゃんイエスを訪ねました。
 そんな中でもう一つ、四福音書にはっきりと記されている記事、いや人物がいます。ヨハネ。バプテスマのヨハネと言われる人。今、読んでいるルカの福音書は、イエスの誕生よりも先にヨハネの誕生物語を記しています。イエスはヨハネの親戚で、ふたりは6か月違いの同い年でした(1:36)。先に生まれのがヨハネですが、二人が大人になったとき、先に世に自分を現したのもヨハネでした。彼はイエスの前触れ、道備えとして人々に福音を伝え(4~6、18)、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ(洗礼)を施しました(3)。このことを四つの福音書は、はっきりと記しています。
 このヨハネのもとに多くの人がやって来て、彼からバプテスマを受けました。
「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(8)
と語るヨハネに人々は尋ねます。そのうちの一つが冒頭の聖句。
 「決められた以上に取り立てない」。あたりまえじゃないか。そう思います。しかし、当時の取税人はこういうことをしていたのです。決められた以上に、人々から税金を取り立てていました。当時「取税人や罪人」とセットで語られていたのは、取税人が自分たちと同じユダヤ人でありながら、自分たちを支配するローマ帝国に「たましいを売って」仕えていただけでなく、このような不法なことをして私腹を肥やしていたからでした。ザアカイなどはその取税人のかしら(19:2)。みんな大嫌いでした。そんな取税人たちにヨハネは、このように言ったのです。
 罪とは「してはならないこと」です。しかしそれ以前に罪とは「する必要のないこと」。「決められた以上に取り立てる」。してはならないことです。しかし、そもそも、その必要がないのです。神が生かしてくださっているからです。ヨハネはここで「あたりまえのことをしなさい」と言っているのではなく、「神を信じているならそうなるでしょ?決められた以上に取り立てる。そんな必要ないでしょ?」と問うているのです。それこそが、まさに「悔い改めの実」。悔い改めの実とは、罪滅ぼしではありません。悔い改めとは神に背を向けていたところから、神に振り向いて近づいていくこと。今まで神を無視していた時にしていた「する必要のないこと」から手を放して、神を信頼して生きること。同じようにヨハネは兵士たちにもこう言いました。
「だれからも、金を力づくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」(14)
 神さまを信じたら、あたりまえのことをちゃんとやるようになります。それが偉いからではなく、神さまが生かしてくださることを知るからです。そうできていない自分に気づいたなら、「ダメだダメだ」ではなく、自分に問うてみましょう。「私はほんとに神さまに信頼しているのか?」。それこそが悔い改め。バプテスマのヨハネがみなに宣べ伝えた福音でした。

 おはようございます。
 明日は主の日。昨日お知らせした通り、午前10:30より同時配信礼拝をいたします。昨日、準備のときを持ちました。明日のライブ配信を見て、また感想をお寄せください。先週とは何かが変わっていますよ。
 コロナウィルスの収束を祈ります。医療崩壊ということばが聞かれます。今日も、医療の現場で働いておられる方々のからだと心が支えられますように。

 シャローム 純人


4/17
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
 伝道者の書12:13

 伝道者の書最後の章。12章はこの書のクライマックス、結論と言える章。ここでは、神のことを三つの呼び方で表しています。
 一つ目は「創造者」。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』という年月が近づく前に。」(1)
これは、命令であり、その期限を指し示していますが、理由がありません。2節以降7節までに書かれているのは、人間のからだが老いて死に向かって行く様子だと言われています。
「『家を守る者たちは震え』とは、年を取って手が震えるようになることであり、『力ある者たちは身をかがめ』とは腰が曲がる様子であろう。『粉をひく女たち』の描写は。歯が弱くなっていくことをたとえているのかもしれない。」(『みことばの光』4月号より)
どこに「理由」があるのでしょうか?あります「創造者」です。なぜ、若い日に創造者を覚えなければならないのか?創造者は目的をもって人間を造られたからです。「なぜ生きる?」、その答えはあなたのうちにはありません。コップはコップを造る人の目的(水を入れて飲む)のために造られ、ギターはギター職人の目的(美しい音色を響かせる)の目的のために造られます。人間は自分を造られたお方の目的のために造られ、その目的に沿って生きてこそ、初めて喜びや充実感を持つことができるのです。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」
(イザヤ43:7)
 二つ目は「牧者」。
「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ちつけられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。」(11)
伝道者は、自分が思索し、探求して見出した真理の確かさを「よく打ちつけられた釘のようなもの」と表現しますが、これらは「一人の牧者によって与えられた」と言いました。その牧者とは?もちろん神です。しかし彼がここでこのお方を「牧者」と呼んでいることに注目しましょう。神は彼を羊のように養い、守って今日まで導いてくださった。彼は鋭い知恵を持った「一匹狼」ではなく、神という羊飼いの愛のまなざしを受けてきた「その牧場の羊」なのです(詩篇100:3)。牧され、養われつつ、平安のうちに彼はこれらの真理を見出し、書き表したのです。
 最後は「神」。冒頭の聖句。旧約聖書で神を表すことばは大きく二つあります「神(エロヒーム)」と「主(ヤハウェ)」。伝道者の書には「主(ヤハウェ)」は一度も出て来ません(調べてみてください)。すべて「神(エロヒーム)」が使われています。「主(ヤハウェ)」とは特にイスラエル人、神の民に対して神がご自身を表わすときに使われます。外国人も「主(ヤハウェ)」と聞けば、それはイスラエルの神だと思うわけです。その「主」ではなく「神(エロヒーム)」だけがこの書では用いられてきました。なぜでしょう?神はすべての人を造られた創造者であり、すべての人を養われる牧者であり、すべての人がその命令を守るべきお方だからです。「キリスト教は西洋の宗教だから、日本人の私には関係ない」という人がいます(そもそもキリスト教は西洋ではなく中近東から発していますが)。しかし関係あるのです。日本人であろうが、アメリカ人であろうが、アラブ人であろうが、まことの神はただ一人なのです。冒頭の聖句はこう続きます。伝道者の書最後の聖句。
「神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」(14)
「神がいるなら、なんでこんな悪い世界を放っておくのか?」と考えたことがありますか?そうです。神はいつまでも放っておきません。必ずすべてのわざをさばかれます。善は善として賞賛を与え、悪は悪として罰を与えます。でも考えてください。どんな小さな悪でもさばかれる神がいるならば、あなたは大丈夫ですか?そんな人ひとりもいません。聖書は、このさばき主なる神が人間の罪の罰をそのひとり子、イエス・キリストに負わせ、罪をさばきつつ赦された、と言うのです。何人(なにじん)とか関係ない。すべての人のために。
 私たちは、この神、創造者であり、牧者であり、救い主である神を前にして、びくびくおびえるのではなく、正しく「神を恐れ」、その命令を守っていくのです。それが人間にとってすべてだから。

 おはようございます。
 次主日のお知らせ。4月19日(日)もオンライン礼拝です。Ⅰヨハネ5:13~17「永遠のいのちを持っていますか?」(黒田朔牧師)。朝10:30にスマホやパソコンの前に、ひとりで、家族で、友だちといっしょに座って待ち望みましょう。なお、栗原牧師は同じ時間、岸和田北聖書教会で礼拝説教をします。こちらもライブ配信です。北教会の礼拝と宣教がこれからも祝福されますように。
 「緊急事態宣言」が全国に拡大しました。これ以上感染が拡大しないよう祈ります。国や自治体の為政者の方々に、今日も良き知恵が与えられますように。

シャローム 純人


4/16
 朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを、知らないのだから。
 伝道者の書11:6

 あるいは両方ともうまくいかないかもしれない。知らないのです。私たちは。このことばの前に伝道者は、人間が「知らない」ことを強調しています。
「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。」(5)
本当に知らないのです。わからないのです。しかし知っていることがあります。「神のみわざ」です。神がいつ、何を、どのようにされるのか、知りません。しかし、神がすべてを支配しておられ、その望むところを行われることは知っています。そしてこのお方が、私を喜んでおられ(9:7)、私に最善のことをしてくださることを知っています。
 7~10節では、「人生を喜び楽しめ」と伝道者は勧めます。と同時に彼はこうも言います。
「すべて、起こることは空しい。」(8)
「若さも青春も空しいからだ。」(10)
何をやっても最終的には死んでしまう。空しいのだから、今のうち、喜び楽しんでおけ、ということではありません。たしかに一見、空しいと思える人生、何が良いことなのか悪いことなのかわからなくなる人生です。しかし、
「神がこれらのすべてにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」(9)
たしかな方、正しくさばかれる神がおられることを知っています。
 私たちは、知るべきことを知るときに、知らないことがあっても積極的にチャレンジすることができます。すべてを支配され、正しく、しかし私たちの罪を赦してくださるあわれみ深い神さまを知るときに、心から人生を喜び、楽しむことができるのです。

 おはようございます。
 木曜日は本来ならば「ヨシュア会」や「キャンディー」など、みことばの学びと交わりの会をする日です。今は、コロナウィルスのために集会ができませんが、今日はその集会の仲間同士、電話やメールで近況を尋ね合って祈ってみてはいかがでしょうか?メールで祈りを書くのもいいものですよ。互いのために、教会のために。日本のために、世界のために。感染された方がいやされ回復しますように。感染が収束しますように。この中で働いておられる医療従事者、高齢者や子どもたちをお世話する方、自治体や国の為政者のために。愛なる神さまのご支配を信じて祈りましょう。

 シャローム
 純人


4/15
知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。
 伝道者の書10:12

 伝道者(この書物の著者)は、だれよりも知恵を求めた人でした。そして実際に、
「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。」(1:16)と言うことのできた人でした。と同時に、伝道者はこの知恵の対極である「愚かさ」にも目を留めました。今日の聖書日課10章は、この知恵と愚かさに注目しています。
「知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。」(2)
まさに知恵と愚かさは対極にあります。ある場面で知恵に向くか、愚かさに向くか、それによって事は大きく変わっていくのです。
 冒頭の聖句は、口から出ることばに関すること。知恵のある者が口にすることばは恵み深い。新約聖書には主イエスがみことばを語られたとき、人々が、
「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚い」たとあります(ルカ4:22)。
知恵のある者のことばは、他の人に恵みを届けることができます。しかし愚かな者が唇からことばを発するとき、その人は愚かな自分を呑み込んでしまい、さらに愚かさを増すのです。15節にはこうも言われています。
「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。」(15)
自分が良かれと思って言っていること、やっていることが、気が付いてみれば自分を疲れさせている。そんなことってありますよね。
 このことばを聞いて、私たちは当然、愚かな者ではなく、知恵のある者でありたい、恵み深いことばを語りたい、と思います。どうすれば、そうすることができるでしょうか?
「知恵のある者は知識を蓄える。愚か者の口には滅びが迫る。」(箴言10:14)
知恵のある者には知識があります。彼は知識を蓄えます。どんな知識?
「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1:6)
主を認め、恐れるという知識。それは、みことばから来ます。聖書を読み、考え、神さまに応答の祈りを献げる中で、この知識は蓄えられていきます。みことば漬けになりましょう。あなたの口から出て来ることばが変わってきます。

 おはようございます。
 いつもであれば水曜は祈祷会の日。でも、集まることはしません。でも、こんなこと、やってみてはいかがでしょうか?教会の仲間に電話をして、日曜日のイースターメッセージで教えらえたことを分かち合い、その後で、お互いのために、教会のために祈る。コロナに感染した人々の回復のために、感染が広まらないように、そして最前線で働いておられる医療従事者や為政者のために祈る。
 いつもにない恵みが、私たちの口から出て来ますように。

 シャローム 
 純人

 

2020年04月30日