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Old Friend 藤井 貴

今月末に高校生時代の友人O君と会うことになっている。2年生のクラスメートだったO君が私が乗っていたバイクを借りにきた時、あえて教会に来てもらった。その後、バイクではなく教会に来てくれるようになり、信仰を持った後は、いっしょに教会の高校生クラスを運営するようになった。卒業後親の転勤で関東に、そして、大学、小学校の教員、結婚、さらに、小学校の校長となり、退職。現在は、学童保育のお世話を行なっている。お互い家族を持ってからは年賀状のお付き合いになっていたが、退職後はまた会えるようになった。
"鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。" 聖書・箴言 27章17節
本音で語り、祈りあえる友は何歳になってもありがたい。

彼と出会った頃、好きだったアーティストがサイモンとガーファンクル、彼らの歌に「Old Friends」がある。その後半の歌詞は、

Can you imagine us
Years from today,
Sharing a park bench quietly?
How terribly strange
To be seventy.
Old friends,
Memory brushes the same years
Silently sharing the same fears
きみは想像できるかい
長い歳月が経ったあとのぼくらが公園で
ひとつのベンチをそっと分けあっているのを
おそろしく奇妙な感じだ
七十歳になるなんて
年老いた旧友たちよ
変わらない歳月を記憶がかすめていく
変わらない恐怖を無言で共有しながら

であり、若い友人が70歳になったときのことを想像して歌っている。
私たちが高校生の時そんな想像はしなかったが、70歳を少し前にして、変わらない主イエスの恵みを共有している。

 

 

 

 


2022年07月11日

「やめること」「捨てること」について 辻 喜男

人生の最終章を迎えた今、改めて気になっていることは、いわゆる人生の「断・捨・離」と言われていることです。書店の棚を見ても、そういうことを勧めている書物や雑誌を多く見かけます。関心があってそういう書物に目がいっているだけかもしれません。しかしそんな中で目に留まった本を購入してしまいました。皮肉にも捨てることを勧めている本が、また一冊増えてしまいました。なんとその本によれば、百種類の例が挙げられており、それらをやめるか捨てるかすれば、肩の荷が降りて、幸せな老後を迎えることができるとされていました。
 「幸せ」の受けとめは人それぞれに違います。しかし今までの生き方を見直して、多くのことをやめて捨てれば、今までと違った新しい自分に出会うことができるかも知れないと思いました。そのためにも捨てることは、今までの歩みを否定するだけではなく、新しい何かを発見することにつながらなければ意味がないように思います。
 私自身、今まで捨ててきたものの一つに多くの書物がありました。ある宗教家、思想家が書いた一冊の書物に出会ったことで、彼の個人全集を始め評伝、研究書、エッセイなども集められる限り集めました。彼が書いた文章に感動を覚え、生き方にも影響されました。また集めた本が、書棚に並べられていることに喜びと誇りさえ感じた時期もありました。
 しかしその人物の生き方を支えていたのが、キリスト信徒であったことから当然「聖書」でした。彼の著作は聖書を通して教えられた自らの信仰の表明であり、時代と社会に対する発言も聖書を基準にした内容でした。そうだとすれば、その人物の書物や研究書よりも、決定的に影響を与えた「聖書」そのものを読まなければならないことを教えられました。「一書の人を畏(おそ)れよ」と言う言葉があるように、人の書いた万巻の書物よりも一つの書物に行き着くことが、本来の読書であると教えられました。そこで集めに集めたその人の書物を一部を残してほとんど処分してしまいました。今や残された時間の許される限り「聖書」にのみ集中して読み続けたいと思います。

 

 


2022年07月04日

映画「東京2020オリンピック」(サイドA)を観て   黒田 朔  

2020オリンピックが終わって既に1年が過ぎた。最近、その大会経費の最終報告が出されたり、映画が完成、上映されたりで再び話題を呼んでいる。前の東京オリンピックは1970年、結婚の翌年で、オリンピックに合わせてテレビを買ったことなどを思い出す程度で特別な記憶も影響を受けたわけでもない。この度の東京2020オリンピックでも、思いがけない会長辞任を始め、コロナのために1年間延期と無観客開催という忘れられない記録を残してはいるが、あれ程熱中したメダル獲得競走も今では日本の獲得メダル数さえ思い出さない。映画が河瀨直美監督によって創られると聞き、夫婦で観に行く。東京2020オリンピックという記録映画ではあるが、スポーツ記録ではなく、オリンピックという舞台だから演じられた国家事情、育児をしながらオリンピック参加を夫婦で果たした選手、赤ちゃんをあやしながら観戦する日本選手、作戦にあらわされる文化、国家、人、文化、生き方などを鋭く、深く、静かに見せてくれる映画でした。オリンピックではなくても、私たちの人生の生き方にもいろいろな違いがあり、良く考え、今の自分にできる最高の生き方を自分のものとしたいものだと思いました。ただ、オリンピックそのものも無観客でしたが、土曜日の最終回に入ったのは私たち夫婦だけという無観客で、惜しいと思いました。

 

 

 

 

2022年06月28日

平和への願い  山里將之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

私の故郷、沖縄では、全国に先駆けて6月23日に終戦の日を迎えます。全国的にはポツダム宣言受諾の8月14日の翌日、玉音放送が行われた8月15日をもって終戦の日としているわけですが、沖縄では組織的地上戦が終結した6月23日の方に重きを置く傾向があります。混同を避けるために「慰霊の日」とも呼ばれています。

そんなわけで、沖縄では6月を迎えると平和について考える機会が増えます。さらに、全国と同じく8月にも平和学習を持つ機会が多いので、年に2回、平和への願いを新たにする月が訪れる事になります。

そんな沖縄出身の私ですから、ウクライナとロシアのニュースには本当に心痛むものがあります。77年前の沖縄戦とは当然、時代も地形も戦況も兵器も異なりますが、非戦闘員、一般市民が巻き込まれ、弱き者、小さき者が蹂躙される姿にはあまりにも似通ったものがある事を感じます。本当にいち早く、この戦争が終わることを願いつつ。

戦争について、平和について、考える時、いつも参照される聖書のことばがあります。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(マタイ5:9)

平和とは、待っていれば自然に向こうから訪れるというようなものではない。ひとりひとりのたゆまざる努力でつくり出すものだ。そのようにする者たちは幸いだ。神の子どもとはこういう人々の事だ。こう、イエス様はおっしゃいます。

あわせて覚えたいのは、

「…最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです…」
(マタイ25:40)
「…最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ…」
(マタイ25:45)

戦場では特にそうですが、戦場ではなくても、身近なところで、たとえば、家庭や学校で、「最も小さな者たちの一人」といった人々は、何かとつらい思いをしやすいと思います。気をつけないと私たちも、「最も小さな者たちの一人」に、どんな態度を取り、どんなことばや思い、視線を向けているか、問い迫られる事でもあります。イエス様はおっしゃいます。小さき者、取るに足りない者、つまらない者とされているような人々に、あなたが取った言動は、わたしに対して取った言動だ、と。

どんな人に向き合うときにも、どんな事に取り組むときにも、神様に向き合っている事を心に留め、自分の言動は神様に対してなされているのだという自覚を失わない事。平和をつくる者としての大切なヒントだなと思います。

ウクライナ、ロシアの平和のため、ともにお祈り頂けると幸いです。そして、もっと身近なところでも、私たちひとりひとりが、平和をつくる者として、成長して行きたいと願わされます。

写真:NPO法人メタノイアより。出典URL https://metanoia.or.jp/2297/

2022年06月20日

紫陽花 藤井貴

紫陽花(アジサイ)は日本原産で、わたしたちにはとても馴染みのある花です。「ガクアジサイ」と「ハイドランジア」の2種類に大きく分類されますが、一般的に見られるアジサイは西洋種である「ハイドランジア」で、日本固有種であった「ガクアジサイ」を西洋で品種改良し、大正時代に日本に逆輸入されました。最近では、母の日にアジサイも送られています。
私がお世話になっている「大阪府高齢者大学家庭園芸を楽しむ科」で教わった話ですが、皆さんもご存知のドイツ人医師のEEシーボルト(1796-1866)もアジサイを愛したひとりでした。シーボルトは文政6年(1823)わが国へ来朝し、長崎の出島に住み、医業のかたわら植物学を講義、高野長英、青木昆陽、伊藤玄朴ら当時の俊秀を門下生に持ち、研究に従事していました。異国における独身生活の中、いつしかお滝さんとねんごろになり、一女をもうけましたが、文政12年(1829)ゆえあって退去を命ぜられ単身帰国のやむなきに至りました。帰国後、研究の成果をまとめてJ.ツッカリーニとの共著『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を発表したとき、東方の島国に美しく咲いた「あじさい」に思いを寄せ、日本に残 した愛妻を慕ってやまなかったといわれています。学名の「ヒドランゲア・マクロフィラ・オタクサ」(Otaksa)は、もちろん、お滝さんからきています。(現在この学名は使われていないそうです)
長崎では、紫陽花を「おたくさ」または「お滝さん花」とも呼び、市民に親しまれている花で、「ながさき おたくさ まつり」のイベントも行われ、市の花にもなっています。

さて、上記の写真は阪南バイブルチャペルが作成し、チャペル周辺に配布させていただいているチラシの表紙です。チラシの中には、「新しい日常回復にチャレンジしませんか?」という書き出しでショートメッセージが書かれ、次のイエスキリストのことばで締めくくっています。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネの福音書 15章12節)
ポストで見つけれた時は是非ご覧ください。

2022年06月06日
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