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Old Friend 藤井 貴

今月末に高校生時代の友人O君と会うことになっている。2年生のクラスメートだったO君が私が乗っていたバイクを借りにきた時、あえて教会に来てもらった。その後、バイクではなく教会に来てくれるようになり、信仰を持った後は、いっしょに教会の高校生クラスを運営するようになった。卒業後親の転勤で関東に、そして、大学、小学校の教員、結婚、さらに、小学校の校長となり、退職。現在は、学童保育のお世話を行なっている。お互い家族を持ってからは年賀状のお付き合いになっていたが、退職後はまた会えるようになった。
"鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。" 聖書・箴言 27章17節
本音で語り、祈りあえる友は何歳になってもありがたい。

彼と出会った頃、好きだったアーティストがサイモンとガーファンクル、彼らの歌に「Old Friends」がある。その後半の歌詞は、

Can you imagine us
Years from today,
Sharing a park bench quietly?
How terribly strange
To be seventy.
Old friends,
Memory brushes the same years
Silently sharing the same fears
きみは想像できるかい
長い歳月が経ったあとのぼくらが公園で
ひとつのベンチをそっと分けあっているのを
おそろしく奇妙な感じだ
七十歳になるなんて
年老いた旧友たちよ
変わらない歳月を記憶がかすめていく
変わらない恐怖を無言で共有しながら

であり、若い友人が70歳になったときのことを想像して歌っている。
私たちが高校生の時そんな想像はしなかったが、70歳を少し前にして、変わらない主イエスの恵みを共有している。

 

 

 

 


2022年07月11日

「やめること」「捨てること」について 辻 喜男

人生の最終章を迎えた今、改めて気になっていることは、いわゆる人生の「断・捨・離」と言われていることです。書店の棚を見ても、そういうことを勧めている書物や雑誌を多く見かけます。関心があってそういう書物に目がいっているだけかもしれません。しかしそんな中で目に留まった本を購入してしまいました。皮肉にも捨てることを勧めている本が、また一冊増えてしまいました。なんとその本によれば、百種類の例が挙げられており、それらをやめるか捨てるかすれば、肩の荷が降りて、幸せな老後を迎えることができるとされていました。
 「幸せ」の受けとめは人それぞれに違います。しかし今までの生き方を見直して、多くのことをやめて捨てれば、今までと違った新しい自分に出会うことができるかも知れないと思いました。そのためにも捨てることは、今までの歩みを否定するだけではなく、新しい何かを発見することにつながらなければ意味がないように思います。
 私自身、今まで捨ててきたものの一つに多くの書物がありました。ある宗教家、思想家が書いた一冊の書物に出会ったことで、彼の個人全集を始め評伝、研究書、エッセイなども集められる限り集めました。彼が書いた文章に感動を覚え、生き方にも影響されました。また集めた本が、書棚に並べられていることに喜びと誇りさえ感じた時期もありました。
 しかしその人物の生き方を支えていたのが、キリスト信徒であったことから当然「聖書」でした。彼の著作は聖書を通して教えられた自らの信仰の表明であり、時代と社会に対する発言も聖書を基準にした内容でした。そうだとすれば、その人物の書物や研究書よりも、決定的に影響を与えた「聖書」そのものを読まなければならないことを教えられました。「一書の人を畏(おそ)れよ」と言う言葉があるように、人の書いた万巻の書物よりも一つの書物に行き着くことが、本来の読書であると教えられました。そこで集めに集めたその人の書物を一部を残してほとんど処分してしまいました。今や残された時間の許される限り「聖書」にのみ集中して読み続けたいと思います。

 

 


2022年07月04日

映画「東京2020オリンピック」(サイドA)を観て   黒田 朔  

2020オリンピックが終わって既に1年が過ぎた。最近、その大会経費の最終報告が出されたり、映画が完成、上映されたりで再び話題を呼んでいる。前の東京オリンピックは1970年、結婚の翌年で、オリンピックに合わせてテレビを買ったことなどを思い出す程度で特別な記憶も影響を受けたわけでもない。この度の東京2020オリンピックでも、思いがけない会長辞任を始め、コロナのために1年間延期と無観客開催という忘れられない記録を残してはいるが、あれ程熱中したメダル獲得競走も今では日本の獲得メダル数さえ思い出さない。映画が河瀨直美監督によって創られると聞き、夫婦で観に行く。東京2020オリンピックという記録映画ではあるが、スポーツ記録ではなく、オリンピックという舞台だから演じられた国家事情、育児をしながらオリンピック参加を夫婦で果たした選手、赤ちゃんをあやしながら観戦する日本選手、作戦にあらわされる文化、国家、人、文化、生き方などを鋭く、深く、静かに見せてくれる映画でした。オリンピックではなくても、私たちの人生の生き方にもいろいろな違いがあり、良く考え、今の自分にできる最高の生き方を自分のものとしたいものだと思いました。ただ、オリンピックそのものも無観客でしたが、土曜日の最終回に入ったのは私たち夫婦だけという無観客で、惜しいと思いました。

 

 

 

 

2022年06月28日

平和への願い  山里將之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

私の故郷、沖縄では、全国に先駆けて6月23日に終戦の日を迎えます。全国的にはポツダム宣言受諾の8月14日の翌日、玉音放送が行われた8月15日をもって終戦の日としているわけですが、沖縄では組織的地上戦が終結した6月23日の方に重きを置く傾向があります。混同を避けるために「慰霊の日」とも呼ばれています。

そんなわけで、沖縄では6月を迎えると平和について考える機会が増えます。さらに、全国と同じく8月にも平和学習を持つ機会が多いので、年に2回、平和への願いを新たにする月が訪れる事になります。

そんな沖縄出身の私ですから、ウクライナとロシアのニュースには本当に心痛むものがあります。77年前の沖縄戦とは当然、時代も地形も戦況も兵器も異なりますが、非戦闘員、一般市民が巻き込まれ、弱き者、小さき者が蹂躙される姿にはあまりにも似通ったものがある事を感じます。本当にいち早く、この戦争が終わることを願いつつ。

戦争について、平和について、考える時、いつも参照される聖書のことばがあります。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(マタイ5:9)

平和とは、待っていれば自然に向こうから訪れるというようなものではない。ひとりひとりのたゆまざる努力でつくり出すものだ。そのようにする者たちは幸いだ。神の子どもとはこういう人々の事だ。こう、イエス様はおっしゃいます。

あわせて覚えたいのは、

「…最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです…」
(マタイ25:40)
「…最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ…」
(マタイ25:45)

戦場では特にそうですが、戦場ではなくても、身近なところで、たとえば、家庭や学校で、「最も小さな者たちの一人」といった人々は、何かとつらい思いをしやすいと思います。気をつけないと私たちも、「最も小さな者たちの一人」に、どんな態度を取り、どんなことばや思い、視線を向けているか、問い迫られる事でもあります。イエス様はおっしゃいます。小さき者、取るに足りない者、つまらない者とされているような人々に、あなたが取った言動は、わたしに対して取った言動だ、と。

どんな人に向き合うときにも、どんな事に取り組むときにも、神様に向き合っている事を心に留め、自分の言動は神様に対してなされているのだという自覚を失わない事。平和をつくる者としての大切なヒントだなと思います。

ウクライナ、ロシアの平和のため、ともにお祈り頂けると幸いです。そして、もっと身近なところでも、私たちひとりひとりが、平和をつくる者として、成長して行きたいと願わされます。

写真:NPO法人メタノイアより。出典URL https://metanoia.or.jp/2297/

2022年06月20日

紫陽花 藤井貴

紫陽花(アジサイ)は日本原産で、わたしたちにはとても馴染みのある花です。「ガクアジサイ」と「ハイドランジア」の2種類に大きく分類されますが、一般的に見られるアジサイは西洋種である「ハイドランジア」で、日本固有種であった「ガクアジサイ」を西洋で品種改良し、大正時代に日本に逆輸入されました。最近では、母の日にアジサイも送られています。
私がお世話になっている「大阪府高齢者大学家庭園芸を楽しむ科」で教わった話ですが、皆さんもご存知のドイツ人医師のEEシーボルト(1796-1866)もアジサイを愛したひとりでした。シーボルトは文政6年(1823)わが国へ来朝し、長崎の出島に住み、医業のかたわら植物学を講義、高野長英、青木昆陽、伊藤玄朴ら当時の俊秀を門下生に持ち、研究に従事していました。異国における独身生活の中、いつしかお滝さんとねんごろになり、一女をもうけましたが、文政12年(1829)ゆえあって退去を命ぜられ単身帰国のやむなきに至りました。帰国後、研究の成果をまとめてJ.ツッカリーニとの共著『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を発表したとき、東方の島国に美しく咲いた「あじさい」に思いを寄せ、日本に残 した愛妻を慕ってやまなかったといわれています。学名の「ヒドランゲア・マクロフィラ・オタクサ」(Otaksa)は、もちろん、お滝さんからきています。(現在この学名は使われていないそうです)
長崎では、紫陽花を「おたくさ」または「お滝さん花」とも呼び、市民に親しまれている花で、「ながさき おたくさ まつり」のイベントも行われ、市の花にもなっています。

さて、上記の写真は阪南バイブルチャペルが作成し、チャペル周辺に配布させていただいているチラシの表紙です。チラシの中には、「新しい日常回復にチャレンジしませんか?」という書き出しでショートメッセージが書かれ、次のイエスキリストのことばで締めくくっています。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネの福音書 15章12節)
ポストで見つけれた時は是非ご覧ください。

2022年06月06日

運転免許証  辻 喜男

運転免許証の継続か返納か
 先日、ある有名人が運転免許証を返納した、ということがテレビのニュースで取り上げられていました。私と同年輩のその人が、「自分で判断できる間に決めたいと思いました。」と語っていたことに心が留まりました。肉体的な衰えと共に判断力の衰えにも気をつけなければならないことを考えさせられました。ただ我が身を振り返って、肉体的な衰えはそれなりに分かりますが、判断力の衰えについてはなかなか分かりづらい点もあるのではないかと思います。「自分は大丈夫だ」というわがままな思いが、年齢を重ねるとともに強くなるように思えるからです。家族からのチェックは素直に受け止めなければ・・・
 来年、免許証と車がともに更新の年を迎えます。その時が来れば、改めて免許証も車も更新するかどうかの決断が問われる良い機会になるかと思います。これから約一年かけて、あらゆる可能性を想定しながらじっくり検討したいと思います。
 しかしその前に、このような人生の転機を迎えた時、私たちクリスチャンはまず神に祈ります。ふさわしい判断が与えられるように、また決められたことには感謝して従うことができるようにと祈ります。というのは聖書の教える祈りは、自らの願いを訴えて実現させるための手段ではないからです。願いごとを訴える前に、ここまで何十年も運転が守られたことを感謝し、その感謝と祝福が続くように祈ります。
 そのようにクリスチャンの祈りは、毎日の歩みが神の守りと祝福のうちにあることを感謝することから始まります。そしてそのように祈ることで、車の運転についても安全であるように気をつけます。それとともに、祈りのうちに日々の生活と運転が守られることによって、免許証と車の更新についてもふさわしい判断に導かれることを期待しています。

2022年05月30日

時を選ぶ大切さ  黒田 朔

GWあけに淡路島、美術館と鳴門観潮の一泊の旅に出かけました。ハワイから定年退職後日本で「自分たちの人生を変えたキリストとの出会い」を伝えたいと夫婦で来て下さったJさんとMさん夫妻との2年越しの約束の旅でした。ネギが苦手のご夫妻にとって玉ねぎ収穫の真っただ中の淡路島ではどこに行ってもねぎの匂いに追っかけられ、人形浄瑠璃の人形館に入りやっと楽しむことが出来ました。鳴門大橋のたもとで一泊、大潮の時間に合わせて観潮船に乗り、1メートルくらいの落差を落ちる潮がやがて渦となり舟の方に迫ってくると思わず「わ~ッ」「すご~い!」の連発。小1時間の観潮でお二人は大満足。今回が3回目の私たちも初めて見る潮の高さの違いや渦のすさまじさに、「これやで‥鳴門観潮は!今までのは何やったんやろか」と私たちも感動しきり。そこで、思い出したことは「何でもすれば良いというのではない。良い結果を得ようと願うなら、良い結果が期待できるようにするべきこと」でした。つまり、鳴門観潮はついでではなく、大潮の季節に、その日の干満の時を選ぶことだと気づかされました。「時を選ぶ」大切さは聖書・伝道者の書3章にあるとおりです。
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。・・・ 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。・・・ 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

 

 

 

 

 

2022年05月23日

テスト対策も、ぜひ、教会で! 山里将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

このところ、阪南バイブルチャペルの話題から離れて、貝塚聖書教会にまつわる記事投稿が多くなり恐縮なんですが、今回も、貝塚聖書教会からのお話しです。

この記事を記している5/15の前日、5/14の土曜日、午後3:00-5:00までの2時間、中学生たちに声掛けをして、教会で勉強会を開きました。勉強会とはいっても、誰かが講師になって何かを教えるというわけではなく、テーブルをならべて自習形式で行うスタイル。ちょうど私の長女が今年、中学に上がり、彼女のクラスメートが集ったという感じです。彼女をあわせて9名の中学生が、中学生活最初のテストに向けて、頑張っていました。

「自習形式?」「だったら教会じゃなくても、図書館とかカフェとかフードコートでもええんちゃう?」

まあまあ、確かにその通りなんですが、でも気心知れた教会の遊び仲間たちだけで専有出来る2時間と、不特定多数の人混みの中に紛れての2時間とでは、同じ自習形式でも集中度がだいぶ違うと言われると、「そういうもんかもな」と思われるのではないでしょうか。図書館では、ちょっとでも物音を立てると、割と厳しい視線があるかも知れませんが、その点、教会は、好き好きに勉強を教えあって、それがかえって楽しいという事も。

また、コロナがまだまだ油断できない昨今、図書館は良いとしても、中学生だけでカフェやフードコートと言うと、「まだちょっと・・・」と気が引けるというご家庭もおありだと思います。キリスト教会が、こんなカタチで、地域貢献、学習支援、あなたのお子様の成長のお手伝いが出来れば、とても嬉しい事です。

貝塚聖書教会に限らず、時間を決めて、学習スペースを提供している教会もあります。教会によっては実際に塾や英会話教室を運営していたり、スポーツクラブや趣味の集いなどを開いているところもあります。もちろん、願いとしては、キリスト教の布教・・・私たちクリスチャンは「伝道」と呼ぶのですが、世間一般的な表現としては「布教」ですね・・・の一環ではありますが、「今のところ、キリスト教には興味はないんだけど・・・」という方も、ぜひ一度、お近くの教会を訪ねてみて下さい。学びや趣味やお稽古、トレーニングを通して、仲間作り、健康づくり、自分磨きで喜んで頂ければ、それもまた、神様の恵みをお届けする教会としての喜びです。そうしていく中で、いずれ、イエス様に出会って頂けたらと願いつつ。

そうそう、ひとつ、最初に申し上げておきたいのは、教会のこうした営みは、けっして営利目的のプロがやっているわけではなく、クリスチャンの奉仕活動で行っています。そういう意味では、素人感、手作り感、満載です。「行き届かないのが当たり前」なんて、おこがましくも開き直ってのご案内なんで恐縮ですが、営利目的ではないからこそ、素人どうしならではの、フレンドリーな温かさもあったりします。

貝塚聖書教会では、中高生の集まりを土曜日に、阪南バイブルチャペルでは聖句書道やかご編みの集い、日曜日にはゴスペルフラの練習なども、楽しく行っています。

テスト対策も、ぜひ、教会で!

聖書 詩篇133篇1節
「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって ともに生きることは。」

写真:5月14日(土)の自主学習の様子。あえて若干ぼかしています。

2022年05月16日

聖書を土台に据えて 藤井 貴


なたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。(聖書・詩篇119:105)

阪南バイブルチャペルは名前のとおり、聖書を土台にして歩み教会です。「礼拝説教」が毎週語られ、このチャペルの窓でも以前紹介しましたように、4年間かけて聖書全体を学ぶ「聖書入門クラス」を行っています。
また、火曜日には「聖書研究・祈祷会」を行い、聖書を通読するテキスト「みことばの光」を使って、その日に聖書から教えられたことを互いに分かち合い、さらにそこから祈りに導かれていきます。

 先週、私たちは旧約聖書の「哀歌」を学びました。「哀歌」は紀元前7-6世紀に起こった南王国ユダの滅亡とその惨劇を悲しんだ歌です。単に国家滅亡の悲劇を嘆くだけでなく、主に選ばれ、愛され、多くの恵みを受けていた民の、神への背信、裏切りを嘆く歌でもあります。
この「哀歌」を読み終わった後、私たちのうちに「なぜ」という思いが残るかもしれません。しかし、「哀歌」が「なぜ」という問いかけで終わっているように、私たちの人生も思い悩むことの連続です。思いもよらない病、耐え難い苦難、突然の困窮、人の手ではどうすることもできない災害。それらを前にして苦悩しない人はいないでしょう。無理して聞き分けの良い信仰者になろうとするのではなく、悩み、叫び、問題を受容できずに苦しむ自分を主の前に認めることも大切です。(「みことばの光」より引用)

主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
主の救いを静まって待ち望むのは良い。
人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌 3章25~33節)

「聖書研究・祈祷会」は、答えを見いだせず苦悩し祈り叫ぶ私たちを、神がそのことも含め含めて受け止めてくださることを信じ、互いに励ましあえることを実感できる集会です。クリスチャンでない方も大歓迎です。

 

 

 

 

 

 


2022年05月15日

若き日の出会い 辻喜男

先日、高校の同窓会総会の案内が届きました。残念ながら、今年も日曜日の午前中に開催されるということで、礼拝のため出席がかないません。しかし同窓会の案内が届くたびに、改めて高校時代を振り返るきっかけにもなっています。良かったことも悪かったことも、今となっては懐かしい思い出です。そしてあの時代からすでに六十年が経過しました。しかしこの半世紀以上、あの高校時代に受けた授業がきっかけとなり、現在に至るまで人生を導くテーマを発見することができたように思います。
 「国語・現代文」の授業の初日に担当の先生が、分厚い本を教室に持ってこられ、「これからの勉強には、これくらいの辞書を持っておくように」と言う勧めがありました。それは岩波書店の『広辞苑』でした。『広辞苑』の存在も知らなかった者にとって、衝撃的な出会いでした。今までと勉強の質が違うように思いました。またこんな辞書が手元にあれば勉強も進むのではないかと、先生の言葉に大いに影響され、早速購入しました。あれ以来、何回が新版が発売され、その都度、採用される言葉と採用されない言葉についても話題になりましたが、今もこの辞書にはお世話になっています。ただ最近は重い本ではなく、もっぱら電子辞書++版『広辞苑』を重宝しています。
 しかそれ以上に、この時の「国語・現代文」の教科書に掲載されていた文章で、私自身の人生が決定的な影響を受けたことを忘れることができません。キリスト教思想家、伝道者である「内村鑑三」についての文章でした。教科書に掲載されていたのは、文芸評論家亀井勝一郎が書いた『非寛容の美徳』という文章の一部でした。そこで内村鑑三と初めて出会い、その生涯と活動に興味を持ちました。その文章は、内村鑑三が明治から昭和初期の時代に、キリスト者として生きることで、社会の不正を鋭く批判した姿勢を取り上げ、社会に対する寛容さよりも非寛容であったことを高く評価していました。私も教会に通いだした頃でもあり、日本人クリスチャンで、明治から昭和初期の時代に、社会に対してこれほどの発言力のある人物がいたことに驚きました。その後、ネット販売がまだない時代、内村鑑三関連の書籍を求めて、各地の書店、古書店、また図書館に通いました。そして特に、彼の代表的著作『余はいかにしてキリスト信者となりしか』からは大きな刺激を受けました。
 その後、何十年もかけて内村鑑三関連の書物を懸命に集めましたが、余りに多くて読み切れずに生涯を終えそうです。しかし内村と出会い、彼と同じ聖書の神を信じ、さらに聖書そのものを読み続けることは今も続いています。六十年以上も前に、高校の授業がきっかけで、聖書にも内村鑑三にも出会うことができたことは、私にとって幸いでした。

 

 

 


2022年05月02日

死の床で思うことは?       黒田 朔

86歳の義兄が亡くなった。その生き方を振り返ると、科学者として、ビジネスマンとしても、社会的にも成功した人生を生きた人であった。しかし、人は死の床では何を考えるのだろう。生きることに成功した人が死に臨んでも成功するとは限らない。初めて天下統一を成し遂げて秀吉は「露と落ち露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」と詠んだ。在宅ホスピスケアに入ってからの義兄とは多くを話す機会はなかったが、科学者と
信仰をテーマにした本を送り、手紙を書き、終わりが近くなったころには星野富弘さんの詩集を送った。いよいよ厳しくなった頃、顔を合わせて「お祈りしましょうか」と了解を得て祈る。「人の限界を超えた世界を支配される神よ・・86年の良き人生を感謝します。
良き家族を感謝します。後に残すすべてを委ねます。お守りください。生前、あなたを悲しませたことを許し、永遠のいのちの祝福にお迎えください。アーメン」義兄も「アーメン」と和して「ありがとう」と自分の方から手を差し出し、私たち夫婦に握手を求めてくれた。死を前にした義兄とは具体的なことは話せずではあったが、共にした祈りが義兄の思いの沿っていたのだと分かった。死の床では成し遂げてきた過去の実績などが力を失い、頼れなくなる厳しさと同時に、死の向こうで頼れるもの、望みを与えるものを求めるのだと気づかされ、義兄と共に祈ることができたことを感謝し、キリストの約束を味わいなおした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

2022年04月26日

悲しみが喜びに変わる日、イースター。 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

4月に入り、新しい年度の歩みが始まっています。世の中を見渡すと、暗く、悲しく、不安や恐れにかられるようなニュースばかりですが、そのような中でキリスト教会は、希望を見失わず、しっかりと光を心に抱いて、神様の恵みと祝福を皆さんとともに出来るように励んでいます。

とりわけ、今、この記事を書いている今日、4月17日は、今年2022年の復活祭、イースターでした。イエス・キリストのよみがえりを記念するイースター。最近では、私たちの国、日本でもだいぶなじんできたようで、教会よりもむしろ町中のあちこちで、たまごを飾ったり、うさぎのマスコットがあしらわれたりしているのを目にします。クリスマスと同じく、キリスト教に由来するお祝いが受け入れられているのは、「本家」クリスチャンたちにとっても、とても嬉しい事です。

ここ最近の、私の歩み、教会の歩み、私たちの教会が所属しているグループの歩みをふりかえってみますと、

・3月31日〜4月2日 中高生向けのキャンプ(少年自然の家)。
・4月3日〜8日 およそ3年ぶりに実家の母と再会、久々の親孝行。
・4月7日 長女が中学校に入学。
・4月12日 敬愛する、前任の牧師が神様のもとへ。15日に告別式。
・4月16日 教会で中高生向けのウェルカム集会。
・4月17日(今日、イースター) キッズイースター、礼拝後墓前礼拝。

と、いろいろな経験をさせて頂いた数週間でした。嬉しいこともあり、悲しい別れもあり、その悲しみへの慰めと励ましが与えられて、イエス様の復活の事実に希望をともにさせて頂く、そんな歩みがありました。告別式の翌日が、中高生向けのウェルカム集会ということで、気持ちの切り替えが大切だなと思って当日を迎えてみると、そこにお孫さんにあたる○○君の姿が。開催するこちらがむしろ励まされる思いになりました。

復活の喜びと、永遠のいのちを信じるクリスチャン。世間的には、「喪に服す期間」は、なるべく慎ましくする方が良いと考える方も多いと思いますし、実際、クリスチャンにもそう考える方も少なくありませんが、一方で、何がイエス様の喜びとなるかを第一に考え、ご家族にとって慰めとなり、励ましとなるかを考えてみる時に、人によってはともに楽しい時を過ごすことの方が、励ましとなる事もあります。そのような時に、そのように出来てしまうのもまたクリスチャンです。

告別式の翌日のウェルカム集会で、ともに讃美し、ともに聖書のみことばに聞き、ともにゲームを楽しみました。思いや気持ちはこれからもいろいろ通ることでしょうけれど、少しでも励みになれればと願っています。

くり返しになりますが、クリスチャンがそう出来るのは、またそうしたとしても不遜でもなければ失礼でもない、むしろ慰めとなり励ましとなるのは、やっぱり、イエス様の復活のおかげです。イエス様がよみがえらなかったなら、親しい方の死を前にして喜んだり楽しんだりといった事は、やはり失礼だし不遜な事でしょう。けれども、死は終わりではない。むしろ、神ととともにある本当のいのちの始まりなのです。私たちは、イエス様を、「昔死なれた偉い人」としてではなく、「よみがえられて、今、生きて、私たちとともにおられるまことの友」として向き合っています。だからこそ、死の先にある復活のいのちの喜びを覚えて、イースターをお祝いする事が出来るのです。

ぜひ、この喜びを、私たちとともにして頂ければ、と願っています。

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。」
ルカの福音書24章5-6節

写真:ウェルカム集会でのお菓子コーナー

 

 

 

 


2022年04月18日

受難週  藤井貴

今週は受難週です。金曜日にイエスが十字架につけられ、死んで葬られ、そして3日後の日曜日に復活されました。この復活を覚えるのが、イースター(復活祭)です。
イースターには、「イースターリリー」と呼ばれる花を飾る習慣があります。イースターリリーは、和名を「テッポウユリ(鉄砲百合)」といいます。ラッパのようなフォルムで、横向きに白い花が咲くのが特徴です。テッポウユリは日本原産のユリ科の花で、沖縄県などでは自生種が見られます。そのテッポウユリの球根は、19世紀にイギリスに持ち込まれた後、アメリカに伝わり、盛んに花が生産されるようになったといわれています。キリスト教において、白いユリは「純潔」や「復活」の象徴であり、テッポウユリが欧米に伝来してからは、それまでのマドンナリリーに代わって、イースターの飾りつけに用いられるようになった歴史があります。

 さて、前回のチャペルの窓では復活のちょうど1週前の日曜日の出来事、即ち、以下のイエスキリストが子ロバに乗ってエルサレムに入城される場面を取り上げてました。

ロバは荷物を運ぶための家畜であり、キリストが「馬」や「軍馬」ではなく、「子ロバ」に乗られたことは、「平和の主」であることを示しています。「平和の主」は人間の権力や武力によらず、神の権威と霊によって闇の世を光の支配に置かれるのです。そのことは、この後の十字架と復活により、実現していきます。十字架の死は敗北のようですが、それが罪と死に対する唯一の勝利の道なのです。

イエスキリストは私たちの罪を負って十字架にかかられました。それは私が十字架にかけたということです。2000年の時を超えてイエスは私に語りかけます。「わたしはあなたを愛するがゆえに、あたたが神から呪われ、罪のさばきを受けて滅びることに耐えられない。だから、あなたの罪のさばきを、呪いの死を、受けているのだ。」と。罪を犯さなかったイエスが、私の身代わりとなって死んでくださった。

そして、イエスは3日目に復活されます。復活がなかったら、本当に私の罪のために死なれたのかどうかわかりません。父なる神が、このイエスの死は十分であり、それを明らかにするため、よみがえされたのです。だから、私たちは確信を持って、イエスの赦しを信じることができるのです。

次週の日曜日、4月17日のイースターは阪南バイブルチャペルで!

2022年04月11日

数字に支配されない生活  辻喜男

後期高齢期を迎え、医師から体温、体重、血圧ば毎日定期的に測定し、記録するように勧められています。そこでほぼ毎日それぞれの計器を使って、測定しながら記録をするように心がけています。また一年に二回ぐらいの間隔で血液検査も行っています。そして驚くべきことにこれらの検査結果がすべて数字になって表示されます。医師が診るのもその数字が、基準よりも高いか低いかだけです。そこで服用する薬も決まってきます。数字によって健康が左右されていることに驚きます。特に血液の細かい項目まで、正確に計測ができるようになったことは、ありがたいと言うべきかも知れませんが、健康状態だけでなく人生そのものが、数字によって管理されているように考えると少し複雑です。

 というのは子どもの頃から、いろんな数字に一喜一憂しながら過ごしてきたことを思い起こすからです。小学校ではテストの結果に関わらず、楽しく過ごしていました。しかし中学、高校になると、やはりテストの結果に追われ、成績によって人間の値打ちも決まってしまうように思われました。さらに社会に出てからは、毎月に報告される営業成績を睨みながら、電卓をたたいていました。成績を上げられなかった者の恨み節が心の底に残っているのかも知れません。それにしてもテストや営業成績から解放された現在、高齢者の最大の関心事である健康状態で、またしても数字に支配され、一喜一憂しなければならないのは、喜ぶべきか、悲しむべきか複雑です。

 ただ聖書を読んでいて、人間と神との間には、時間の経過の受け止め方に大きな違いがあることが分かりました。旧約聖書には、「あなた(神)の目には、千年も昨日のように過ぎ去る」と言うことばがあったり。このことばを受けて新約聖書では、「主(神)の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と記されているからです。人間の間では、千年と一日では比較できないほどの違いがあります。しかしこれら聖書の言葉から神の判断基準と私たちの判断基準の大きな違いを教えられます。しかしこの神の判断基準を受け入れるとき、それまでの人生とは違った生き方があるように思います。数字や時間に制限され、それらに追いかけられる人生から解放される思いです。それが人間としての本来の生き方であり、神に愛され、生かされていることを感謝する生き方ではないでしょうか。
(聖書は、詩篇90:4とペテロの手紙第二3:8からの引用)

 

 

 


2022年04月04日

年度替わりを迎えて 黒田 朔

4月、新しく2022年度がスタートします。HBCは3年目、この間まで毎週のように来ていた双子のSちゃんとKちゃんと同い年。

日曜日、久しぶりに会ったSちゃん、Kちゃんはしばらく見ないうちに赤ちゃんから子供へと成長し、駆け回りお話ができるだけでなく、来月からは保育所へ行くと聞きながら、HBCの成長ぶりはどうだろうかと思います。

教会の成長はどんなところに現れるのだろうと考えます。子供のおしゃべりや駆けっこのようには表れないけれど、分かっていることは、教会に参加している人の成長抜きで教会が成長することはないことです。つまり、私が成長しなければ、HBCも成長することはありません。

2021年の目標聖句を思い出します。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」1テサロニケ5:16-18
2022年の目標聖句を心に刻みます。
「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」ヨハネ15:12
本当にHBCは成長したね・・と言いたいものです。

 

 

 

 


2022年03月29日

「モップがけをしながら」 山里 将之


みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

ウクライナの事がとても心配になる昨今です。特に、軍人ではない非戦闘員、普通の市民が犠牲になり、普通の住宅、アパートが無残にも破壊されている様子を見ると、沖縄出身の私としてはどうしても、かつての地上戦の事がまぶたの奥でシンクロしてしまいます。世代的にはもちろん、戦後生まれの私ですが、戦後の傷跡、戦地だった場所、また不発弾撤去作業・・・これは現在でも継続中・・・の光景はあちこちにあり、戦争の愚かさを噛み締めます。

 


どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
新約聖書 ローマ人への手紙15章33節

話は打って変わるように見えるかも知れませんが、今日は月に一度の教会掃除の当番。寒い間はひかえていたモップがけを、今日は久しぶりに行いました。案の定というか期待通りというか、終わってみると、バケツの水は真っ黒! でも、それだけ床がきれいになったという事でもありますから、嬉しい事です。同じ現実を、どこから見るか。同じ現実の、何を見るか。ふだん、聖書から信徒の皆さんと分かちあってきたメッセージを、自分自身にも当てはめてみて、ささやかな感謝の思いを味わいました。

ふと、神様も、私たち人間の罪を、一生懸命、掃除して下さっているような感じだなぁ、と、モップを手にしながら想像しました。実は、「ブルース・オールマイティ」というコメディ映画で、この事を扱っていたのを思い出したんです。この映画、面白いですよ。ジム・キャリー主演で、モーガン・フリーマンが神様の役を演じていました。神様の全知全能の力に憧れた主人公でしたが、ある時、一時的に、神様から全知全能の力を預けられる事になります。まさにスーパー・パワー、奇跡的な力を得た事に喜ぶ主人公ですが、ある時、この力が、人類を正しく導き、幸せにするためのものである事に気付かされ、いろいろ苦労する事に。自分の願いを叶えるためではなく、人の幸せを実現するために、四苦八苦する主人公ですが、途中、再び神様と出会います。その神様は、ある家のモップがけをし、天井の切れた電球を取り替え、これが、自分の仕事なんだ、と説明します。人間の社会のいろいろな汚れを拭い、世界の中で壊れたところがあれば修理し、人々が幸せに暮らせるように働かれている。それが私だ、と、神様を演じるモーガン・フリーマンの姿に心打たれました。オチで、確か電球に、「光よあれ!」 “Let there be light!”と言ってた気がしますが、はて、主人公だったか・・・モーガン・フリーマン演じる神様だったか・・・ちなみに、「光よあれ」は、創世記に登場する神様のことば、全世界の創造のことばでもあります。

ウクライナで、無残な戦火の様子を見ます。瓦礫の山となってしまった、かつてはそこに、市民の喜怒哀楽が満ちていたであろう、普通の住宅を見ます。戦争を始めるのも大変でしょうけれど、戦争を終え、戦争の片付けをするのはもっと大変です。嘆き、悲しみ、憎しみや怒り、敵意、憤り・・・心と魂の後片付けは、いったい、誰が、どうやってするのでしょうか・・・。

人間の愚かさを、神様も、目の当たりにしています。今日、私たちのもとに起こった事を、神様もともに体験しておられます。私たちだけでは決して、片付かない、片付けられない、片付けられるはずもない、人生の傷、痛み、罪、その全てを、十字架という姿でご自身に、一身に、引き受けてくださったイエス様だけが、私たちの人生に、社会に、心に、魂に巣食っている汚れを拭い去ってくださる。この事を今一度、心に留めながら、祈り心とともに、モップを片付けました。真っ黒になったバケツの水を捨てて。

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

旧約聖書 イザヤ書43章25節

出典元・・@映画 ブルースオールマイティより

 

 


2022年03月20日

3月2日は何の日? 藤井 貴

今年の「灰の水曜日」は3月2日で、教会暦では「四旬節」という時期に入ります。この時期は別名「受難節」とも呼ばれ、復活祭(イースター)の前日まで続く、イエス・キリスト様が十字架に至るまでの苦難の道を思い起こす期間です。「四旬」というのは「40」という意味ですから、つまり四旬節は「イエス様の苦しみを思い起こす40日間」だということです(日曜日を除く)。この日を「灰の水曜日」と呼ぶようになったのは、四旬節の初日に、前の年の四旬節でつかった棕梠(しゅろ)の枝や十字架などを焼いて灰にし、その灰を用いて神様に祈るという典礼があったことが由来だそうです。

この棕櫚の枝は、キリストのエルサレム入城のとき、民衆は「ホサナ(救ってください)!」と叫んで歓迎し、キリストが通る道に民衆の上着とともに敷かれました。そして、キリストが乗っていたのが子ロバです。なぜキリストは馬や軍馬ではなく、ロバしかも子ロバに乗って入場されたのでしょうか。絵を想像するとどう感じられますか? これは旧約聖書のゼカリアの預言の成就です。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。(ゼカリヤ書 9章9~10節)

ロバは荷物を運ぶための家畜であり、キリストが「馬」や「軍馬」ではなく、「子ロバ」に乗られたことは、「平和の主」であることを示しています。「平和の主」は人間の権力や武力によらず、神の権威と霊によって闇の世を光の支配に置かれるのです。そのことは、この後の十字架と復活により、実現していきます。十字架の死は敗北のようですが、それが罪と死に対する唯一の勝利の道なのです。

現在、阪南バイブルチャペルの聖書入門クラスでは、このエルサレム入城から始まるイエス・キリストの最後の1週間を学んでいます。ご興味のある方は是非お越しください。

 

@写真・キリストのエルサレム入城(北マケドニアのフレスコ画から)

 

 


2022年03月14日

『残日録』(藤沢周平)もどき  辻  喜 男


五年連用日記を使い始めてから四冊目になります。現在使っているのは、2018年からで今年最終年の五年目になりました。2017年の年末に新しく日記を購入する際、悩んだことを思い出します。

三年連用日記にしておいたほうが良いのではないかと考えましたが、途中で終わればそれまでのことと思い、今までと同じ五年連用日記を購入しました。2022年までこの五年間も守られて過ごしてこられたことは感謝に堪えません。ただこの四年間に書いている内容を読み、あまり変化のない毎日であったことは驚きでした。この日記の途中で、「後期高齢者」に仲間入りしましたが変化と言えばそれくらいです。聖路加国際病院の故日野原重明先生が、75歳から新しいことを始めなさいと言われていますが、何も新しいことが始まっていないことも考えさせられました。今からでも、聖書の言葉にもあるように、年齢とともに「日々新たにされていく」経験を積んでいきたいと願っています。


しかし、そのような中にも大きく変化したことがありました。孫たちの成長ぶりです。四年前に大学に入学して喜んでいた孫が、今年卒業、就職も決まりひとり住まいを始めることになりました。若い人たちの大きな変化は刺激を与えてくれます。先月開催された北京オリンピックでも、十代後半から二十代前半の孫世代の若者たちが活躍していた姿に大いに刺激を受け、新しい世代に期待しました。 

 
一方で先日、三組のシニア世代夫婦が集まり、福音宣教の夢を語り合いました。若者には負けていることを自覚しつつも、シニアにしかできないことがあると気合いを入れながら、祈りつつ散会しました。

 

 

 

 

2022年03月07日

「生きる喜びを見つける」     黒田 朔

どうしようもない厳しい現実につぶされそうになる。しかし、変えることのできない現実の中で、新しい人生を見つけた人がいる。

「いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった 命より大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」


 星野富弘さん・・念願の中学の体操の先生となり、たった2ヶ月、部活の指導中、頚髄損傷で肩から下は完全麻痺、「口から入れて、尻から出すだけの土管のような人生、生きていて何になる。」しかし、自殺さえできない体になって、星野さんの心に高校時代の友人が置いて帰った聖書のことばが残りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)


その時、「私は聖書のほんの一部しか、それもほんの上っ面しか分かっていなかったが、『私の所に来なさい』と言うキリストの言葉に素直についていきたいと思った。私の今の苦しみは洗礼を受けたからと言って少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、赦せなかったり、そういう醜い自分を忍耐強く赦してくれる神の前にひざまずきたかった。・・罪を犯すかもしれない、苦しいとわめき散らすかもしれない、でも『父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです』と十字架の上から言った清らかな方にしたがって生きてみようと思った」。(星野冨広著「愛、深き淵より」より)
その時、星野さんの心が変わり、この詩が生まれました。「いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった 命より大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」指一本動かせない体で「確かに体が動かないことは不自由です、でも不幸とは違います。」と話す星野さんに人生を喜びとする生き方を見せて貰いました。

 

 


2022年02月28日

弱い時こそ 山里 将之

みなさん、こんにちは!貝塚聖書教会の山里将之です。

長引くコロナとの戦いのストレスのためか、また特に、去年末に大切な家族との別れがあったためか、このところ、気持ちの落ち込みからなかなか立ち直れず、我ながらメンタルが弱ってるな、という状況を経験をしています。おかげさまで、身体の方、フィジカルの面では支えられ、コロナからも今のところ護られて、肉体的には元気にしているのですが、良く聞くように、「別離の淋しさやその疲れは遅れてやって来る」というのは本当だな、と思います。

「信仰を持てば、神様の護りの中で心も体も強められて、どんな事があっても大丈夫」と、私たちは思いやすいかも知れませんし、またそうありたいと願い、期待するかも知れません。かく言う私自身も、神様の事を伝える立場、牧師のひとりですから、できれば早く、こうした疲れや淋しさ、心の痛みから立ち直りたいものだなぁと願っています。

ただ、自分ではどうにも出来ない疲れや痛み、弱さというのもまたあって、「信仰を持ってるのに、どうしてかなぁ」と考えさせられる事もあります。とりわけ牧師をしていると、ふだんは信徒の皆さんを慰めたり励ましたりするポジションにいる事が多いので、なんだか勝手に「ふだんはあんな事言ってるのに、なんだか、面目ないなぁ」とか、どこかしら「すまないなぁ」という思いになったりする事もあります。

ただ、聖書を読んでいると、イエス様は別として、そこに登場する預言者たちや王たち、またイエス様のお弟子さんたちや使徒たちは、みんな、自らの弱さ、痛み、そして罪深さを抱えたまま、ただ恵みと憐れみによって、神様に用いられて来た人ばかりだな、という事も教えられます。いやむしろ、聖人君子でも何でもない、立派でもなく、きよらかでもなく、強くもない、たま〜に頭のいい、賢い人は見かけるけれど、清廉潔白というような人はほとんどいない、そんな、私たち普通の人間と何も変わらない生身の人々が、ただただ神様の愛に触れ、その愛に生かされ、慰められ、励まされ、ときに叱咤激励を受け、赦しと感謝の涙の中から再び用いられていった、そんな人ばかりだなぁと気付かされます。

使徒パウロが、コリント人への手紙、第二、12章7-9節でこんな事を書いています。

7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

私たちが、強い時、賢い時、何か素晴らしい啓示を頂いて、神様のみわざを目撃した時、私たちは、高慢になりやすいという危険、誘惑にさらされているのだと気付かされます。パウロは、そうならないために、神様から「肉体に一つのとげを与えられました」と言います。何かの病気になっていたのかも知れないと言われています。とりわけ、視力に弱さがあったのではないかと言われています。パウロは、その弱さを誇る、とまで語っています。

私たちは、できれば、弱さなんて経験したくないですし、しないで済むならそれに越したことはありません。でも、弱い時こそ、神様に助けて頂くしか他にない、という経験をさせて頂くチャンスでもあります。弱い時こそ、同じ弱さや悩み、苦しみ、淋しさ、疲れ、痛みを味わっている人と、心を寄り添わせる事が出来る、本当の慰め相手になれるチャンスでもあります。弱い時こそ、神様の恵みが十分に与えられ、神様の力が完全に現れるチャンスなのだ、と神様はパウロに告げました。

牧師をしている私自身が今、なんだか、なかなかシャンと出来ない、心の痛みを引きずっている日々が続いています。出来れば早く、抜け出せたら良いなと願っています。しかし一方で、聖書というメガネを通して世界を見てみると、牧師自身が弱さを経験し、弱さを知っているという事は、同じように弱さを抱えて生きている人々とともに生きる上で、大切な事だな、と教えられます。その上で、なお、早く元気になりたいな、と願いつつ。

写真:コロナに負けず、寒さにも負けず、今年も梅の花が開きます。

 

 


2022年02月21日

「父の愛」ー続編ー藤井 貴

前回は「放蕩息子」であった弟への父の愛でしたが、今回はその兄の話です。

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。(ルカの福音書 15章25~28節前半)

放蕩した弟とそれを喜ぶ父に対し、喜んでいない存在が浮き彫りにされています。兄は喜ぶどころか怒りをあらわにします。

それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』(ルカの福音書 15章28後半~30節)

兄は面白くない。理由は、自分はずっと父に仕えてきたという自負。私の奉仕、私の努力、そして、自分は正しいと。弟と呼ばずに「そんな息子」と言って弟への愛を持つことはできないでいます。まさに、「自分が父から愛されている」ことがわかっていないのです。ずうっと父と一緒にいても、その愛を理解できないでいるのです。

父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」(ルカの福音書 15章31~32節)

そんな兄に対しても、弟に対してと同じく、父は兄息子を迎えに出ます。そして父から声をかけます。弟と同じように愛しているのです。そして、「おまえの弟」と言って、弟を受け入れるように諭すのです。
この兄のケースも、前回の弟のケースと同様、

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。(ルカの福音書 15章1~2節)

ことへの答えです。
文句を言う当時の宗教の指導者たちも、父(神)の愛を理解していなかったのです。私たち(そして、私は)はどうでしょうか。
父である神は、罪人たちを含め宗教の指導者も、そしてすべての人を受け入れ、無条件に愛してくださいます。そして、私たち罪人が神のもとに帰るのを待ち続けておられるのです。

 

 


2022年02月14日

部屋の模様替え 辻 喜男

今年になって思うところがあり、部屋の模様替えをしました。
そこで見えてきたことは、要らないもの、使っていないものがたくさんあるということ、そして棚や机を移動することで、埃がたまっていたことでした。こんなにも使っていないものと埃に囲まれていたのかと愕然としました。そこで早速掃除をして、要らないものを捨てました。それよりも場所を移動することで、同じ部屋でもいつもと違う方向から見ると、新鮮に映ったことです。模様替えによって部屋を見る角度が変われば、新しい発見もありました。
そんなことを考えながら、ふと、人間関係についても同じようなことが言えるのではないかと考えました。心に残っていた聖書の言葉を思い出しました。

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」(マタイの福音書7:12)


聖書の黄金律と言われている教えです。神からお互いに良いものを受け取っている者として、自分も他の人に良いものを与えるようにと教えられています。自分中心の見方でなく、人への思いやり、心遣いの大切さを教えられました。

 

 


2022年02月07日

種まきの勧め        黒田 朔

以前、ハワイに住んでいた頃、牧師館の裏に小さな、小さな庭があった。ある時、教会のメンバーが「家でできたパパイヤをどうぞ」と届けてくださった。「こんな口当たりのやわらかで、甘く、みずみずしいパパイヤ初めて!」パパイヤのイメージが変わるほど美味しかった!お礼を言うと「私も頂いたので、その種を庭に植えたら出来たのですよ」とのこと。

 

早速、種を庭に蒔いた。パパイヤの小さな種を植えただけで、庭が変わった。朝夕庭を見るのが楽しみとなった。結局、期待していたイメージチェンジのパパイヤはなることなく終わったが、今も、種を蒔き、苗を植えると小さな庭を思い出す。種を蒔けば庭が変わる・・パパイヤだけではない、自分自身の生活に、友との付き合いに、一粒の小さな種を蒔いて見ればどうだろう。「蒔かぬ種は生えぬ」と言うが、蒔けば小さくても、楽しみの芽が出るに違いない。

 

 

 

 

2022年01月31日

「 廻り道  」 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

出かける時、私はほとんど車を使うので、電車やバスに乗ることがめったにないのですが、皆さんはいかがでしょうか。そんな私が先日、本当に久しぶりにバスに乗りました。それも、普通のバスよりうんと小さい、コミュニティーバス。たまには良いか、と思い、また免許を取る前の学生、子どもに戻った気分で、半分わくわくしながら。

ところがしばらくすると、バスが私が想像していたルートとは反対方向に向かっているようで、思わず「間違えた!」と思ったのですが、実は間違えていたのではなく、そういうルートだったんだと初めて分かりました。ヒヤーっとした思いから一転、「こんなルートもあるんだなぁ」「こんな風景がこの町にあったのか」「なんか、得した〜」という気分になりました。

無事に目的地に着く。これが本当に大切だなぁと思います。最短ルートとは言わないまでも、自分の想定していたルートと違っていると、ヒヤーっとしてしまう事がある。でも、どんなに最短ルートだと思っても、どんなに自分では良いルートだと思っていても、目的地にたどり着かなければ意味はない。逆に、目的地さえ見失わず、しっかりそこにたどり着けるなら、途中で通った廻り道も、「なんか、得した〜」と思える。そう思えたのは、無事に目的地に着いたから。コミュニティーバスの運転手さん、ありがとう!

人生もそうだなぁと思わされます。私自身を振り返ってみると、自分の想定していたルートと違った物事の進み方と直面した時、ヒヤーっとして来たなぁと思います。今でも繰り返し失敗してしまうのですが、自分の想定にあわせよう、直そう、としてしまう事。結果的に、直るどころかますます「道に迷う」事にも。その度ごとに、途中経過は自分の願い通りでなかったとしても、神様が導くゴールを見失わない事の大切さを思わされ、悔い改めるわけです。

モーセに導かれた出エジプトの民、イスラエルは、約束の地カナン、まさしく今のイスラエル国がある地域にやって来るまでに40年間、荒野を旅しました。地図で確認すると分かるのですが、エジプトからイスラエルまでは直線でだいたい500km前後。カイロからエルサレムですと400kmちょっと。阪南からですと静岡くらいあたりの距離になるらしいです。近くはありませんが、40年なんてかかりません。「ものすごい遠回りしたなぁ」と感じるかも知れません。でも、それが結局は、約束の地に入るために必要な、大切な訓練にもなっていました。40年の旅の中で、人々は、定住生活では味わえない神様の護り、その恵みの確かさを味わったわけです。


わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、
だれひとり父のみもとに来ることはありません。(聖書 ヨハネ14:6)

イエス様を信じる道は、信じれば願いがかなうという道ではないかも知れません。たとえば希望の大学に合格する道ではないかも知れません。信じれば商売が繁盛する道ではないかも知れません。大好きなあのひとを振り向かせ、恋愛がみのり、人間関係がたちどころに改善する、そういう道ではないかも知れません。けれども、私たちを幸せにしようと今日も私たちを導き続けて下さる、父なる神様への道、本当の幸せへの道です。

ついつい、最短ルートを望んでしまいやすい私です。こっちが最善のルートだと勝手に想定して、そこから外れると焦ってしまいやすい。皆さんはいかがでしょうか。でも、振り返ってみると、廻り道に見えて実は、大切な恵みを教えられる、「主の道」だった。後から振り返ってそう思えたなら、廻り道こそ、実は本当の意味での最短・最善の道だったと実感させられたら感謝ですね。

 

 


2022年01月23日

「父の愛」 藤井 貴


この絵はレンブラントの「放蕩息子」です。この「放蕩息子」は聖書「ルカの福音書15章」に記されたイエスの譬えを材題にしたものであり、他にも多数の絵が描かれている。それほど有名な譬えですので、読まれた方も多いのではないでしょうか。
この譬えには3人の登場人物がおり、放蕩息子(弟息子)の他に、その兄、ふたりの父です。そして、その父が譬えの主役です。
弟息子は父が生きているとき、自分の相続財産を要求しました。それは、「あなたは私にとって死んだも同然、これからはあなたの保護を受けずに生きていく。」と父に宣言しているかのようです。そして、もらった財産を持って遠い国に出て行き、その財産を湯水のように使い果たした後、飢饉にみまわれるのです。

何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。(ルカの福音書15章14~16節)

その時、

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』(同17~19節)

彼が父のもとに帰ったとき、

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。(同20~24節)

ここで「一番良い衣」は地位の回復、「指輪」は権限の移譲、「履き物」は自由人の印であり、この弟息子が子どもとして受け入れられた証です。父(神)から離れていった自分勝手な弟息子(罪深い私たち)をそのまま受け入れ、相続人として宣言してくださったのです。この譬えが語られた背景が1-3節に記載されています。

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。(同1~3節)

すなわち、当時の宗教指導者がイエスは「罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」との文句に対するイエスの答えなのです。父である神は罪人たちを含め、すべての人を受け入れ、無条件に愛してくださいます。そして、私たち罪人が神である父のもとに帰るのを待ち続けておられるのです。次回は兄息子に焦点をあてたいと思います。

 

 


2022年01月17日

「逆転人生」      辻 喜男

大相撲のテレビ中継をいつも楽しみに見ています。奇数月の十五日間にわたる取り組みの中で、私が見るのは五時頃から六時までの六十分ほどですが、力士たちの熱い戦いに力が入ります。
 去年、白鵬関と鶴竜関が引退したことによって、照ノ富士が「ひとり横綱」となりましたが、まじめに横綱の責任を果たしている照ノ富士を密かに応援しています。ご存じのように照ノ富士は、先の大関時代の取り組みで怪我をし、一度は序二段まで陥落しました。しかし怪我と戦いながらも努力を重ね番付を這い上がり、ついに横綱まで上り詰めました。両膝のサポーターに痛々しさを感じながらも、土俵入りと取り組みができていることに安堵しています。それにしても彼のように番付を上下した力士は今までもいなかったように聞いています。上下関係の厳しい相撲界で、番付の上位から下位に陥落した時の悔しさと厳しさに耐えた精神力に驚かされます。まさに逆転人生を絵に描いたような相撲人生ということができます。
 逆転人生と言えば、聖書にも同じような経験をした人物がいます。旧約聖書「ヨブ記」の主人公、ヨブという男です。彼は神を信じ、潔白に生きていた人であり、さらに十人の子どもと多くの財産を持つ富豪でもありました。ところが突然の災害や敵の襲撃にあい、子どもと財産を失ってしまいました。さらに自分自身も悪性の腫物におかされて、これ以上にないほどの苦しい経験をすることになりました。
 しかし彼はその苦しみの中から、自らの思い上がりを知らされ、改めて神を見上げることを学びました。すべてを失ってただ神に頼るほかなかったのです。人生のどん底で神への信仰に目が開かれたのです。そのときから彼の人生が神の祝福に満たされました。苦しみにあう前と同じ数の子どもが与えられ、また財産は以前に増して与えられました。彼が味わった痛みと苦しみの経験は、本人にしか分かりません。しかしその経験を通して、ヨブはもう一度神に立ち返ることができたのです。そこに彼の逆転人生の秘訣がありました。このように多くの人が神を見い出すことで、新たな希望と前進する力と意欲が与えられました。あなたも新しい人生を期待して、聖書を読んでみませんか。

2022年01月10日

新年明けましておめでとうございます。     黒田 朔

世界中が新型コロナオミクロン株で揺れている中、日本では比較的抑えられ、穏やかな正月を迎えていることは幸いですが、「いよいよ新しく」とは言うよりは、「一日も早い終息」を求める年始めを迎えています。年始めの期待が前進と言うよりは、事後処理という何とも残念な新年です。しかし、人生には「前進」に心を燃やすよりは「事後処理」に心身を消耗する時があります。
しかし、そんな私たちに神は

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント 5:17)と語られます。

ここでの「新しく」は「再度、事後処理が必要となるかもしれない新しさ」ではなく「今までとは違った別の種類の」と言う意味の「新しさ」です。
色々な暗いニュースが飛び交う中で「時代が変わり、世が変わるとも、頼りうるは我が身一つ」と肩をいからせて生きて来た人生に

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)とのニュースを「私への知らせ」と受け留めるとき、その「新しさ」があなたを変えます。

暗いニュースの多い年明けを「今までとは別の種類の」年明けを迎える新年2022年としたいものです。
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ 43:18、19)

 

 

写真↑ ガリラヤ湖に昇る朝日

 

 


2022年01月03日