聖書を土台に据えて 藤井 貴


なたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。(聖書・詩篇119:105)

阪南バイブルチャペルは名前のとおり、聖書を土台にして歩み教会です。「礼拝説教」が毎週語られ、このチャペルの窓でも以前紹介しましたように、4年間かけて聖書全体を学ぶ「聖書入門クラス」を行っています。
また、火曜日には「聖書研究・祈祷会」を行い、聖書を通読するテキスト「みことばの光」を使って、その日に聖書から教えられたことを互いに分かち合い、さらにそこから祈りに導かれていきます。

 先週、私たちは旧約聖書の「哀歌」を学びました。「哀歌」は紀元前7-6世紀に起こった南王国ユダの滅亡とその惨劇を悲しんだ歌です。単に国家滅亡の悲劇を嘆くだけでなく、主に選ばれ、愛され、多くの恵みを受けていた民の、神への背信、裏切りを嘆く歌でもあります。
この「哀歌」を読み終わった後、私たちのうちに「なぜ」という思いが残るかもしれません。しかし、「哀歌」が「なぜ」という問いかけで終わっているように、私たちの人生も思い悩むことの連続です。思いもよらない病、耐え難い苦難、突然の困窮、人の手ではどうすることもできない災害。それらを前にして苦悩しない人はいないでしょう。無理して聞き分けの良い信仰者になろうとするのではなく、悩み、叫び、問題を受容できずに苦しむ自分を主の前に認めることも大切です。(「みことばの光」より引用)

主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
主の救いを静まって待ち望むのは良い。
人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌 3章25~33節)

「聖書研究・祈祷会」は、答えを見いだせず苦悩し祈り叫ぶ私たちを、神がそのことも含め含めて受け止めてくださることを信じ、互いに励ましあえることを実感できる集会です。クリスチャンでない方も大歓迎です。

 

 

 

 

 

 


2022年05月15日