「やめること」「捨てること」について 辻 喜男

人生の最終章を迎えた今、改めて気になっていることは、いわゆる人生の「断・捨・離」と言われていることです。書店の棚を見ても、そういうことを勧めている書物や雑誌を多く見かけます。関心があってそういう書物に目がいっているだけかもしれません。しかしそんな中で目に留まった本を購入してしまいました。皮肉にも捨てることを勧めている本が、また一冊増えてしまいました。なんとその本によれば、百種類の例が挙げられており、それらをやめるか捨てるかすれば、肩の荷が降りて、幸せな老後を迎えることができるとされていました。
 「幸せ」の受けとめは人それぞれに違います。しかし今までの生き方を見直して、多くのことをやめて捨てれば、今までと違った新しい自分に出会うことができるかも知れないと思いました。そのためにも捨てることは、今までの歩みを否定するだけではなく、新しい何かを発見することにつながらなければ意味がないように思います。
 私自身、今まで捨ててきたものの一つに多くの書物がありました。ある宗教家、思想家が書いた一冊の書物に出会ったことで、彼の個人全集を始め評伝、研究書、エッセイなども集められる限り集めました。彼が書いた文章に感動を覚え、生き方にも影響されました。また集めた本が、書棚に並べられていることに喜びと誇りさえ感じた時期もありました。
 しかしその人物の生き方を支えていたのが、キリスト信徒であったことから当然「聖書」でした。彼の著作は聖書を通して教えられた自らの信仰の表明であり、時代と社会に対する発言も聖書を基準にした内容でした。そうだとすれば、その人物の書物や研究書よりも、決定的に影響を与えた「聖書」そのものを読まなければならないことを教えられました。「一書の人を畏(おそ)れよ」と言う言葉があるように、人の書いた万巻の書物よりも一つの書物に行き着くことが、本来の読書であると教えられました。そこで集めに集めたその人の書物を一部を残してほとんど処分してしまいました。今や残された時間の許される限り「聖書」にのみ集中して読み続けたいと思います。

 

 


2022年07月04日